霹 靂
建物の影から出て、新一はうんざりと顔をしかめた。
大学の後期が始まったというのに、秋の兆しも見えない日差しが容赦なく照りつけてくる。じりじりと焼かれるような暑さはまだ夏のものだ。
四限目の講義を終えて帰宅する学生の波に流されながら、新一は友人たちと正門へ向かっていた。歩き始めて間もないというのに、額にはじわりと汗が浮く。新一は手で首筋に風を送り、恨めしげに空を見上げた。
「あっちー」
ぼやいた友人の横を学生が一人走り抜けていった。
人混みをかき分けるようにして彼が駆け寄ったのは、正門のそばに止まっていた乗用車。運転席にいるのはやはり新一たちと同じ年頃の男。その彼と窓越しに緊迫した様子で言葉を交わした後、学生は慌ただしく乗用車に乗り込んだ。そして、乗用車はすぐさま走り出す。
新一は唖然として遠くなる彼らを目で追った。
彼らが緊張した面もちでしていた会話の断片を風が新一の元に運んだのだ。
「服部」「事故」「バイク」
足を止めた新一の横で、やはり立ち止まっていた友人が呟いた。
「工藤の友達に服部っていたよな?」
ああ、と新一は曖昧に頷いた。
動悸が速くなるのがわかる。
服部という名字は珍しいものではないが、多いかと言われれば否だろう。
悪い予感が新一の頭の中を埋め尽くす。
今日、平次がバイクで大学に来たかどうか、新一は知らない。普段の足であるバイクを彼がたまに通学に使うことがあるのは確かだ。
まさか、と新一は思う。
『初日から一限あるんやで、しかも五限も。三限目は空いているさかい、昼はゆっくり食えるんやけどな。大学の隣の駅近くに美味いラーメン屋があるっちゅうから、そこへ行ってみてもええかもしれへん』
昨夜の平次の言葉がよみがえる。
夕食のカレーを食べながら、彼は笑っていた。
暑さも忘れて新一は立ちつくしていた。
想像ばかりが悪い方へ転がっていく。
病院のベッドに横たわる昔の平次の姿が、否が応でも思い出された。
あれはいつのことだったか。
「工藤?」
友人の声で、新一は我に返った。
「ああ、悪い。ちょっと気になるから、確認してみる。先に帰っててくれ」
驚く友人たちに背を向けて、新一はいったん出た正門をもう一度くぐった。帰る人波をすり抜けて、本館へと急ぐ。学生が起こした事故ならば、事務局に連絡が来ているだろう。
足早に歩きながら、新一は携帯電話を取り出した。
着信はない。
平次に何かあり警察が動いたのなら、なんらかの連絡が新一の元に入るだろう。だが、今のところそれはない。
不安に背中を押されるように新一は本館に駆け込んだ。しかし、覗いた事務局は混み合っていた。窓口はすべて埋まっている。手の空いている人間はいなさそうだ。新一は事務局の中を見回して、自分の手元に視線を落とした。
握りしめた携帯電話が示す時間が、五限目まであとわずかと告げている。
かけて、みるか。
誰かしら出るだろう。
病院であれ、警察であれ、誰かがそばにいるはずだ。
平次が出ることを祈りながら、新一は彼の番号を押した。
***
「タマネギで思い出したわ」
タマネギの皮をむきながら平次が言った。
夕飯はカレー。じゃんけんに負けたので平次が作ることになったのだ。「なんで豚肉やねん! 牛やろ、カレーは」などと用意された材料を見て騒いでいたものの、結局平次は乗り気で作っている。
「なにをだ?」
新一は居間から律儀に聞き返した。
「俺のバッグの内ポケットを見てくれや」
「おう」
新一は置かれている平次のバッグを取り上げた。「開けるぞ」ととりあえず一声掛けてから、開いてみた。
まさかタマネギが入っている訳じゃないよな。
新一の想像は裏切られ、内ポケットの中から出てきたのは鍵が一本。新品だ。
「鍵が入っとったやろ? それ、工藤に預けとくわ。俺の部屋の合い鍵やねん」
「おまえの部屋の?」
新一はそれをしげしげと眺めながら、キッチンに入った。
「そうや。何かあったときに部屋に入れんかったら困るやろ。せやから工藤が持っといてや」
新一に背中を向けたまま、平次が言う。まな板のたてる音がBGMだ。
「いいのかよ?」
「おう、頼むわ」
「じゃ、預かっておく。おまえに彼女が出来るまで」
すこん、と包丁の滑った音がした。
「大丈夫か?」
「くどう……」
包丁を持ったまま、平次が振り返る。
「俺はそうそう簡単に合い鍵を人に渡すようなことはせぇへん。もし仮に女が出来たかて、渡さんと思う。工藤やから、や。ええな?」
刃物片手の言葉には妙な説得力がある。
新一はわかったと頷いた。
平次がまたまな板に向かう。
新一は手の中の鍵を見つめた。
平次の部屋の、唯一の合い鍵。
それを持つことを許された自分。
平次の特別な場所にいるようで、新一は心がくすぐられた。なぜかやけに嬉しい。
「この家の鍵、おまえに渡しておこうか」
平次が顔だけ新一に向ける。
「ほんまに?」
「阿笠博士が持っているけど、いつも家にいる訳じゃないしな。おまえにも持っていてもらった方がいいかも知れない」
「おおきに!」
「何かと便利そうだし」
満面の笑みを浮かべた平次に新一がそう付け加えると、彼はがっくりと肩を落とした。
「なんやねんなぁ」
ぼやく平次に笑いがこみ上げてくる。
「ところでなんで鍵のことをタマネギで思い出したんだ?」
「実家に帰ったとき、部屋でタマネギを腐らしたやんか」
背中越しに平次が言う。そこまで聞いて新一には先が読めた。
「まさか、俺が鍵を持っていればあの事態は防げたってことかよ」
「まぁ、それだけちゃうけどなぁ」
少し機嫌の斜めになった新一は、平次が包丁を持っていないことを確かめて、彼のふくらはぎに蹴りを入れた。
***
新一はポケットを探って、キーホルダーを握りしめた。そこには平次の部屋の鍵がある。
携帯電話のコールが始まった。
新一は目を閉じる。
一回、二回。
単調な呼び出し音が、新一の鼓動に拍車を掛ける。
新一は息を詰めてその音を聞いていた。
三回。
平次の携帯は、コール五回で留守電に切り替わる。
新一の頭の中では呼び出し音よりも大きく心臓の音が響いていた。
何をしているんだ。
早く出ろよ、服部。
不安が急速にふくらんでいく。
新一は祈るように携帯電話を握りしめた。
四回。
無事なんだろ? なぁ。
頼むから、声を聞かせてくれ。
服部!
『はい!』
五回目のコールの途中で、平次が出た。
新一は身体から力が抜けて、その場に座り込んだ。
『もしもし。工藤やろ? どないした?』
平次の声が新一を呼ぶ。
新一は応えないまま、片手で顔を覆った。
安堵とうれしさがあふれて、声が出ない。
『工藤? 工藤やろ。なぁ、どないした?』
平次の声が緊迫してくる。
「なんでもねぇよ」
かすれた声が出て、新一は苦笑した。緊張のせいで喉が強ばってしまったらしい。
『ほんまか?』
疑わしそうな平次に新一は少し笑った。
そして、ふと気がついた。
本当に彼は無事なのだろうか?
まさかと思うが、病院で電話に出ているということはないのか。
「おまえ、今どこにいる?」
『え? 二号館の二−三やけど』
場所を聞いて、新一は頭の中に構内の地図を広げる。近い。平次のいる講義室は中庭を挟んで本館の向かいだ。二階の部屋なら、確か本館と二号館を結ぶ渡り廊下から中を覗くことが出来たはず。
新一は事務局を飛び出した。突然走り出した新一を周りが驚いて見る。だが、新一は気にとめる余裕すらなかった。早く平次の姿が見たかった。
『まだ教授が来ぇへんねん。まさかいきなり休講ちゃうやろな』
平次の声を聞きながら、新一は階段を駆け上った。
二階の渡り廊下に出て窓から身を乗り出し、第三講義室を眺めた。暑さ対策のためか、窓は全開になっていて中の様子がよく見える。平次の言葉通り、教壇にはまだ教授の姿はない。講義室を後ろから見るような景色の中に、新一は平次を探した。
いた。
窓のそば。前から五、六番目あたりに平次の姿があった。
新一は大きく息を吐き出した。
肩から力が抜ける。
『おい、工藤。聞いとるんか? おーい』
彼は首を傾げるようにして電話をしている。
「聞いてる」
新一は上がった息を悟られないように言葉を紡いだ。
電話する平次の後ろ姿を新一は見つめる。
生きて動いている彼がいる。
声も聞こえる。
出来ることなら今すぐ駆け寄りたい。
何も知らない背中を思いきり蹴倒して、抱きしめたい。
『さっきから変やで。ほんまなんかあったんか?』
「別に」
努めて素っ気ない答えを返す。
そうしないと意味もなく彼を罵ってしまいそうだ。緊張がほどけてわいた怒りのままに。
すべては自分の思い過ごしから来ているのだが、それでも。
蹴飛ばして。
抱きしめて。
耳元で叫んでやりたい。
「心配させるな」と。
自分より広い肩に腕を回して。
自分より熱い肌に触れたい。
厚い胸に耳を押し当てて、直に心臓の音が聞きたい。
新一は自分の胸元をつかんだ。
身体の奥から吹き上げてくる感情が、怒濤のように新一を呑み込む。
その感情に付ける名前を新一はひとつだけ知っている。
それがたとえ同性に向かうはずのないものだったとしても。
新一は制御しきれない感情の波に流されて、硬直したように平次の姿を見つめ続けた。
『あ、教授が来てもうた。話は後や』
平次の声で新一は我に返った。確かに教授の姿が教壇にある。
「……そうみたいだな。じゃあな」
無理矢理声を絞り出し、新一は電話を切った。
切る間際「そうみたい?」という平次のつぶやきが聞こえたような気がした。
平次から視線をそらせないでいた新一の前で、彼が窓の外を見る。
何かを探すようにゆっくりと首を巡らせた平次が新一を見つけだした。
見つけたで、とでも言いたげに平次がにっと笑う。
彼が小さく挙げた手にかろうじて応じ、新一は渡り廊下を後にした。
新一は足早に歩きながら、片手で顔を覆った。
駆けつけたときよりも心臓がうるさい。
顔が熱い、耳が火照る。
急激に上がった体温は、気温のせいではない。
彼の笑顔のせい。
本当に嬉しそうな、子供っぽい笑み。
見慣れているはずの平次の笑顔が新一の心を大きく揺さぶる。
「嘘だろ」
呟いても動悸は収まらない。
かえって否定するように、胸の奥が締め付けられる。
うつむき加減のまま、新一は階段を駆け下りた。
寄り道もせず帰宅して、新一は居間のソファに寝転がっていた。
日もようやく落ちて、外は夜になっている。カーテンをわずかな風が揺らしていた。
熱くなっていた頬はようやく落ち着いて、心臓もいつもの鼓動を刻んでいる。
だが、抱えてしまった感情が消えてしまったわけではない。
気の迷いだと思いたかった。
普段から心配ばかり掛けてくれる親友のせいで、少しばかり心配性になっただけだ。
その平次が怪我をしたと聞けば焦るのが人情。
友人としておかしな行動ではないはずだ。
だが、記憶をさかのぼれば、自分の言動の底には平次に対する想いがあった。
恋人がいるという話に寂しく思ったのも、彼のことをもっと知りたいと思ったのも、すべてはただひとつの感情に起因するのだろう。おそらく。
新一は蛍光灯の明かりにキーホルダーをさらした。
平次の部屋の鍵が光っている。
「よりによって……」
なぜ、平次だったのか。
せっかく見つけた対等に推理を戦わせることの出来る相手。
この先現れるかどうかわからない、ライバル兼相棒。
自分の抱えた恋情のせいで失うには、あまりにも痛い相手だ。
しかし、平次だからこそ、則を越えてしまったのだと新一は考える。
女に惚れるのとは訳が違う。
信頼出来る相手だからこそ、心を許し、惹かれたのだ。
新一はもう一度ため息をついた。
不意に携帯電話が鳴った。
平次の着信メロディに新一の心が騒ぐ。
「はい」
『よお、工藤』
「なんだよ。なんか用か」
いつもと変わらないように答えを返す。
それでも心臓だけは素直に鼓動を早めた。
『今日の電話で工藤が妙やった原因わかったで』
平次が楽しそうに言う。
『俺がバイクで事故ったゆうことになっとったんやてな。心配してくれたんやろ?』
「うるせー」
嬉しそうに笑った後、平次が『おおきに』と言った。
その言葉で新一の息が止まる。
『おまえの連れが俺の連れに電話してきよってん。で、よう聞いてみたらそんなことになっとったから、講義終わった後でちょお調べてみたんや。したらな、オフロードバイクのレースでうちの学生が一人転倒して怪我したんやと。足の骨にひびが入ったそうや。で、そいつの名前が羽鳥。まぁ、聞き違えやすいかもしれへんな』
平次は笑っている。
新一も小さく笑った。
「そうか。悪かったな、騒がせて」
原因は聞き間違いだったわけだ。
『ええて。けど、工藤が慌てとったって聞いて正直驚いたわ』
「悪いかよ」
『ちゃうちゃう。めったに慌てん工藤が俺のせいでな、と思うて。めっちゃ嬉かったんやけど』
「そんなことで喜ぶなよ」
浮かれている平次に平静を装って冷たく言い返す。
『ええやん。ほんまに嬉しかったんやし』
平次はへこたれない。
新一は床に置いてあった平次愛用のクッションを取り上げた。
彼の代わりに抱きしめる。
「わかったわかった。とにかくおまえが怪我したんじゃなくてよかったよ。羽鳥っていうやつも命に関わることはなさそうだしな。でもまずおまえが普段から怪我多いって言うのが、勘違いの原因にもなっているんだからな。気をつけろよ」
『おう。そないする。工藤に心配かけるんはいややしな』
「わかっているならいい。それじゃ、また明日な」
『ああ、またな』
新一は電話を切って、クッションに顔を埋めた。
明日になればまた平次に会う。
声だけならいくらでも誤魔化せる。
しかし、実際に顔を合わせて、この想いを隠し通すことが出来るだろうか。
クッションをきつく抱いたまま、新一は途方に暮れた。