白 昼 夢
強い日差しに飛沫が光る。
濡れて強く香る緑に囲まれて、新一は手元のレバーを強く握って大きく腕を振った。ホースの先からほとばしる水が、青空に向かって大きく弧を描く。細かな霧が降りかかってきて、新一はその気持ちよさに目を細めた。
真夏の太陽はまだ中天高くにあって、工藤邸の庭を焦がしていた。
元気のなくなりかけていた庭木の様子に気がついて、新一は水やりのために庭に出ていた。暑さに辟易しながら始めたものの、水をまいているうちに多少涼しくなってくる。その上、子供の頃の水遊びの楽しさを思い出して、新一は広い庭の隅々まで水をまき散らして虹を作っていた。
バイクの排気音が工藤邸の前で止まった。
その聞き慣れた音に、新一はレバーから手を離して水を止めた。やがて門が開いて、見慣れたヘルメットが覗く。平次だ。
二週間ほど前から彼は実家のある大阪に帰っていたのだ。
「お、工藤!」
平次が庭にいる新一を認めて声を上げた。
「家におったんか。高速降りてから電話したんやけど、携帯繋がらんから、どこにおるんかと思とった」
久々に見る彼の顔は、どことなく新鮮だ。
新一は彼の言葉に応えて、家の中を指さした。
「携帯は居間で充電中だ。ここにいると聞こえねぇな。今、こっちに戻ったとこなのか?」
おう、と手だけ挙げて平次が愛用のバイクを門の中に止める。彼は後ろのドラムバッグを取り上げた。
「まず工藤に土産を渡しておこうと思うてな」
バッグの中には何が入っているのか、ずいぶんと重たそうだ。
「サンキュ! 玄関開いているから、とりあえず荷物を置いてこいよ。俺も水まきが終わったら、部屋に戻る」
新一はレバーを握った。
放射状に水が勢いよく吹き出す。
「気持ちよさそうやなぁ。俺にもやらせてぇな」
バッグを担いでいた平次が玄関の中にいったん消えて、すぐさま庭に駆けだしてくる。それがまるでランドセルを玄関に投げて外に遊びに出かける小学生のようで、新一は声を立てて笑った。
「ガキくせぇ!」
「やかまし!」
駆け寄ってくる彼は真夏だというのに長袖を着ている。
「おまえ、暑苦しい格好しているのな」
「バイクやさかいな。あんまり肌を出さんほうがええねん。けど、暑いで、ほんま。むき出しのエンジンに跨っているようなもんやし。冬は冬でめっちゃ寒いけどな」
「それでも好きだから乗っているんだろ?」
「もちろんや!」
平次が笑う。
それでもやはり暑いものは暑いらしく、彼は手で扇いでいる。
日向の犬のような平次に新一はいたずら心を誘われた。
「暑そうだな。冷ましてやるよ」
不思議そうな表情で新一を見た平次の顔面に向かって、新一は水のレバーを思いっきり引いた。
噴き出した水が平次の顔を直撃する。
「な! なにすんねん! 工藤」
浴びせられる水から腕で顔面をガードしながら、平次が叫ぶ。その場から逃げ出す彼を新一はホースを引きずって追いかけた。もちろん平次への照準は外さないまま。
「涼しいだろ、服部」
「どあほ! よさんかい!」
頭の先からずぶ濡れになった平次が、背中越しに喚く。
「水も滴るいい男になってるぜ、服部!」
「くーどーおー!」
平次が急に反転した。
掌で水の直撃を避け、濡れて降りた前髪の隙間から平次がにやりと笑う。
「俺をこないにして、覚悟は出来とるんやろなぁ」
さらに強くレバーを引こうとした新一の手を、一瞬早く平次が捕らえる。そのまま平次が手首を返すと、新一の手からしっかり握っていたはずのレバーが外れた。それをすかさず平次がつかむ。
「そういう技を使うのは卑怯だろうが!」
「いきなり水をぶっかけてくれた工藤には言われとうないわ」
まだ水を出していないホースを揺らしながら、勝ち誇った顔で平次が笑う。
新一はじりじり彼から離れるように動いた。
しかし、それを見逃してくれる平次ではなかった。
濡れた前髪を掻き上げて、平次がにっと笑って言い放つ。
「工藤もええ男にしたる!」
「必要ねぇ!」
新一の叫びは半分水音に消された。
たまらず逃げ出した新一を先ほどとは逆に平次が追う。
後頭部めがけての放水で、あっという間に新一もずぶ濡れになった。Tシャツはもちろん、コットンのズボンにも水は染みて、下着までもが濡れる。
「いいかげんにしろ! 服部!」
「いやや」
楽しそうな声で平次が断る。
「お返しや。涼しいやろ? 工藤」
「てめぇ!」
新一はかざした腕で水を防ぎながら、振り返った。
平次が一瞬怯む。
ホースを取り返されないようにと退きかけた平次の足下めがけて、新一はサッカーの要領でタックルを掛けた。
濡れた芝生も相まって、平次がバランスを崩して転ぶ。
しかし、この勝負、新一の勝利とはならなかった。
転びかけた平次が新一の腕をつかみ、結局ふたりは絡まるようにして水浸しの芝生にしりもちをつくことになったのだ。
「うわ、冷てぇ。俺まで巻き添えにするなよ」
「あほ。仕掛けてきたんは工藤やろうが」
「俺は適当なところでやめてやろうと思ってたんだぜ」
顔を見合わせて、文句を言い合う。
「ほんまかい! 水量手加減しとらんかったやないか。あっちゅう間にびしょびしょにしよってからに。あー、携帯バッグに入れといてよかったわ。いくら防水してあるゆうても、持っとったら、おしゃかやで」
平次が盛大に騒ぐ。
彼の顔を見ていたら、新一は笑いがこみ上げてきた。
威勢のいい関西弁を生で聞くと、平次が戻ってきたのだと言うことが実感出来る。
突然笑いだした新一に、つられたように平次も笑い出す。
「おまえ、帰ってきたんだな」
新一は額に張り付く髪を掻き上げた。
「どういう意味や?」
まぶしそうに新一を見ながら平次が聞く。
「久々に大笑いしたって感じがするんだよ」
新一が笑って答えると、平次が言葉に詰まった。
「こっち、事件がなくてさ。割と家にこもっていたんだよな。だから大騒ぎするのは久しぶりかもしれない」
「不健康な生活しとったんやな」
「うるせぇよ」
「せやけど、俺が戻ってきて工藤が笑うようになるんはええな」
嬉しそうに平次が笑う。
真正面から向けられた笑顔に新一の鼓動がはねた。瞬きを忘れて見つめていると、平次が怪訝な顔をして新一の顔の前で手を振った。
「目ぇ開けたまま寝とるんか?」
「バーロ。そんな器用なこと、出来るのはおまえぐらいだろ」
「出来るかい!」
速攻の突っ込みに新一は吹き出した。
「ああ、やっぱり実感するぜ、おまえがいるって。大阪人としては本望か?」
「せやなぁ」
まだ持っていたホースを空に向け、平次がレバーを握った。
噴水のように吹き上がった水が、水滴になってふたりに降り注ぐ。
「雨や」
「ところにより雨、だな」
「工藤の家限定の局地的豪雨やで」
平次がレバーを放す。
きらきらと陽光を反射していた雨は、最後に芝生を叩いてやんだ。
「大阪人としてやのうて、俺としては本望や。工藤が笑うてくれるんやったら」
思いがけず真剣な顔で平次が告げる。
またしてもはねた鼓動に驚いて、新一は彼の顔めがけて指先で水をはじいた。
「お笑い芸人に志望を変更するのか?」
「ちゃうわ。まぁ、工藤が突っ込みをしてくれるゆうんやったら、ふたりで吉本目指そか?」
「バーロ!」
平次の頭を叩いて、新一は立ち上がった。濡れたズボンが足に張り付いて動きづらい。
「俺は探偵以外になる気はねぇぞ」
「冗談やって」
笑いながら平次も立ち上がる。
「シャワー浴びるか」
「せやな。工藤、先使うて」
平次が持つホースの先端からは、まだ水がしたたり落ちている。
「そうさせてもらおうか。なら、水道の蛇口閉めておいてくれよ。おまえ、靴どうする? 中まで濡れているだろ?」
「おかげさんでぐっしょりや」
平次が足先を振ってみせる。スニーカーの色はすっかり変わっていた。ブルージーンズも色を深めて黒っぽくなっている。
「靴はその辺の風通しのいいところに干しておけよ。服の方は洗って乾燥機にかけるか」
「着替えならバッグの中に入っとるさかい、急がんでもええよ」
ホースを丸めながら平次が答える。
庭の後かたづけをする平次を置いて、新一は家に入った。
シャワーを浴びて浴室を出ると、新一は洗面所のドアを開け放った。
吹き抜ける風が湯気を押し流してくれる。
濡れた頭をバスタオルでざっくりと拭いて、身体の水滴をぬぐい、とりあえず下着を身につける。体温の上がっている今は、それ以上着込むのが億劫だった。
新しいタオルを首に掛けて、新一はそれで髪からまだ滴っているしずくをふき取った。鏡に向かい髪をタオルで拭いていると、鏡に平次の姿が映り込んだ。ドアの影に立って、洗面所の中を見ている彼。
平次はひどく真剣な眼差しで、何かを見ている。
新一が見ていることには気がついていないようだ。
新一は手を止めないまま、平次の様子を見つめていた。
凍りついたような格好は庭にいたとき同様濡れたまま。だが、眼差しだけが見たことのない色をしている。
知らない表情をしている平次に耐えかねて、新一は振り返った。
「服部」
声を掛けたときには、すでに平次はいつもの平次になっていた。
「出たんやな。風呂場使わせてもらうで」
バッグの中から出してきたのだろう。平次が着替えを振ってみせる。
新一はズボンとTシャツを手早く身につけると、平次に場所を空けた。
「タオルの場所とかは知っているな? 濡れた服は洗濯機に入れて、おまえが出たら回しておいてくれ」
平次と入れ違いに新一は廊下に出た。
背後でドアが閉まる。
閉まったドアを新一は見つめた。
鏡の中に見えた彼。
あれは幻だったのだろうか。
まさか。
新一は自分の考えをあっさり否定した。
鏡の国のアリスでもあるまいに、鏡の中が別世界のはずはない。
自分が見たものは真実なのだ。
居間に向かって歩きながら、新一は先ほどの平次の表情を思い出そうと努めた。
左右対称になる鏡に映っていたせいだけではない。
あの表情は見たことがなかった。
だが、平次以外の人間が浮かべているのなら、見たことがあるような気がしていた。自分に向けられていたのではなく、あの顔をして誰かを見ている人間を。
それをどこで見たのか。
新一は思い出すのを諦めて、居間の扉を開けた。
涼しい空気が新一を出迎える。
平次が気を利かせてエアコンを入れておいてくれたらしい。
壁の時計は三時半を指している。水まきを始めたのは二時半頃だったのだから、ゆうに一時間ほど庭にいたらしい。後半は平次との水遊びに費やされたわけだが。
新一はサイドボードの上の携帯を取り上げた。充電器を外してみると、平次からの着信があったと表示されていた。
時間はちょうど新一が庭に出た頃。
タイミングとしては最悪だ。
苦笑して新一は携帯をサイドボードに戻した。
ソファの脇には彼のドラムバッグが無造作に置かれている。取り出したものが床に置いてあるが、それらがきちんと並んでいるあたり平次らしい。テーブルの上を見ると、土産らしき箱が二個ある。
一つは伊勢の名物、赤福。
「どうして大阪土産で、赤福なんだ?」
おいしいのは知っているが、大阪名物ではないだろう、と新一は呟いた。
もう一つはよくバッグに入ったなと思うような大きさの箱。包装紙のせいで中身は見えないが、持ち上げてみるとかなり重たかった。
「後で聞いてみるか」
箱をテーブルに戻し、新一はキッチンへ入った。
ふたり分のコーヒーを用意するのも久しぶりだ。
アイス用の豆を戸棚から取り出しかけて、新一は手を止めた。考えてみれば、平次の土産の赤福があるのだ。お茶の方がいいかも知れない。
アイスコーヒーを作る予定だったグラスに、冷えたウーロン茶を注ぐ。盆にそれらと赤福用のフォークをのせて新一は居間に戻った。
新一がテーブルの上にセッティングをしているところに平次がやってきた。
首にタオルが掛かったままだ。
「喉乾いとるんや。もらうな」
グラスを取り上げて平次が一気に飲み干す。ふぅ、と満足げに息をつく平次に、新一は苦笑した。
「ペットボトルが冷蔵庫に入っているから、もってこいよ」
おう、と応えて平次がキッチンへ向かう。
「なんなら、ビールも冷えているぞ」
新一がそう言うと平次が足を止めた。
振り返る彼は、新一の予想通り困った顔をしている。
「今日は着替えがあるんだから、泊まっていけるぜ?」
バイクだからと平次が答える前に、新一は先回りして逃げ道をつぶしてみた。
いつか一緒に飲もうと言いながら、まだ平次は新一と酒飲んではいないのだ。
「そうなんやけど、明日俺の住んでいるとこ、ゴミの日やねん」
「それがどうした?」
いつもとは違う反応に、新一はさらに突っ込んで聞いた。
「俺、実家に帰る前にタマネギ買うててんやけど、それ日の当たるところに置きっぱなしにしてきてもうて」
新一は何となく先の予想がついた。
「真夏の閉め切った部屋の中で、しかも直射日光が当たる場所に二週間や。想像するも嫌なんやけどな……」
「溶けていそうだな」
平次がげっそりとした表情になった。
「今日中に片づけて、明日のゴミに出したいんや」
「わかった。今日は帰れ」
タマネギのせいでせっかくのチャンスを逃すのもしゃくだったが、新一は今夜の酒盛りを諦めた。
すまんな、と手を合わせて平次がキッチンへ消える。
「土産、開けるぞ」
「どんどん開けてや。おやつに食おう思うて買うてきたんやから」
キッチンから平次の声が返ってくる。
その答えに、新一は重たい方の箱も食べ物だと思った。
中身のわかっている赤福よりも、そちらの方が気になる新一は包装紙を剥がしにかかった。
そして、出てきたものは、たこ焼き器。
唖然としてそれを眺めていると、平次が戻ってきて言った。
「ええやろ。やっぱ一家に一台たこ焼き器は必要やで」
「ちょっと待てよ。俺は作れないぞ」
「俺が作ったるんやって。上手いんやで。まかしとき」
「おまえが作るなら、おまえの家に置いておけよ」
新一は箱を閉めてテーブルの下に置いた。
「俺の家に置いといても、誰も招えたりせぇへんからもったいないやん。大勢でにぎやかに作りたてを食べるんがええんやから」
持ってきたペットボトルをテーブルに置き、平次が指定席に腰を下ろす。
ソファに座る新一の隣の床の上。愛用のクッションもしっかり膝の上に置いている。
いつもの場所に収まった平次を、やはりいつものように見下ろして、新一は奇妙な安心感を覚えていた。視界の中に彼の姿があることが新一を落ち着かせる。
「そういうもんか? とにかく、ありがとう。じゃ、俺が食いたくなったら、呼び出して作らせるから覚悟しておけよ」
平次が新一を見上げ、任せときと笑った。
それからふたりはフォーク片手に赤福を食べながら、電話では話しきれなかった事柄をとりとめなく話していた。
平次は大阪で関わった事件の話。
新一は平和な時間を埋めるように読んだ本の話。
本の話が高じてふたりして読書を始めてしまったのは、別段変わったことではなかった。
しかし。
新一は足に重みを感じて、本から顔を上げた。
見ると平次の頭が自分の足に寄りかかってきている。
今までにないことにとまどいながら、新一はまさかと思いゆっくりと身体を傾けて彼の横顔を覗いた。
やはり平次は眠っていた。
抱きかかえたクッションに顎を埋め、膝の上には読みかけの本が乗っている。途中のページに指が挟まっているはしおり代わりか。
平次は実家から新一の家までバイクで移動してきたのだ。いくら途中で休憩を取ったとしても、疲れているのだろう。精神的にも肉体的にも。
窮屈な姿勢のまま、新一は彼の顔を眺めた。
病院のベッドで寝ているところなら見たことがある。だが、自然で穏やかな寝顔を見るのは初めてだ。
新一は読みかけの本を脇に置いて、もっと平次の顔をよく見ようと身体を曲げた。寄りかかられている足を動かさないように、彼を起こしてしまわないように。
だが、限界まで曲げても横顔しか見ることが出来ない。
平次の寝顔を正面から観察するのは諦めて、新一は斜め上からの横顔をしげしげと眺めた。
以前至近距離から見たときとは角度が違うせいか、また新鮮味がある。
すっかり乾いてしまっている黒髪越しに、夏になってよけいに灼けたような肌。
高い鼻に隠れてしまってよく見えない唇。
その代わり、目元がよく見える。
切れ長でまつげの長い目が。
今は閉じられている瞼の裏の瞳を想像して、新一は鏡の中の彼を思いだした。
真剣な眼差しで、彼は自分を見ていた。
だが、推理をしているとはまた違う、睨まれているのではないかと錯覚するような鋭い視線だった。
どうしてあんな目で見られないといけないんだ?
風呂上がりの男の身体なんて見飽きているだろうに。
そこまで考えて、新一はふと思い当たった。
土砂降りの雨に降られた平次の、はだけたシャツの隙間から彼の身体を見たときの衝動。
触れてみたいと思って、息を飲んで見つめていなかったか、自分は。
男の半裸など見慣れているが、あの時は別だった。
ならば彼はさっき、自分に触れてみたいと思ったのだろうか。
だから、いつもとは違う目で自分を見ていたのだろうか。
あの眼差しのごく自然な理由だと考えて、新一は納得した。
触れてみたいと。
もっとよく知りたいと。
彼も自分と同じように思っていてくれているのかも知れない。
そう考えると、なぜかやけに嬉しくて笑い出してしまいそうになり、新一は口元を押さえてゆっくりと身体を起こした。
平次は相変わらず眠りこけている。
新一の足に押しつぶされて、平次の髪が変な方向にはねている。
寝癖がついていたら、笑ってやろう。
窓の外に目をやると、真夏の長い昼が終わろうとしているようだ。眩しさに翳りが見える。
「あと三十分だけ足を貸してやるよ」
新一は平次の頭に向かってささやいた。
そして、心の底から満たされた気分で、読みかけの本を取り上げた。