衝 動
工藤邸のウォークインクロゼットの中で、新一は腕組みをして唸っていた。その視線の先には、ずらりと並んだスーツ。海外にいる父が置いていったものなのだが、量が半端ではない。地味な色が大半だが、どういう用途に買ったのか、真っ赤や真っ白のスーツもある。極めつけは、ナイトバロンの衣装だ。それを見たときには、さすがの新一も頭痛を覚えた。
それでも、父のクロゼットの中は、変装道具まで揃った母の衣装部屋よりはましだ。母の衣装は奇抜を通り越した物が多々あるのだ。
新一はダークグレイの夏物のスーツに手を伸ばした。とりあえず誰が着ても違和感がないであろう、無難なデザインと色。それに合わせたシャツとネクタイを選んで、新一はクロゼットから出た。
ふと窓の外を見ると、クロゼットにこもる前よりもずいぶんと暗くなっていた。日が落ちるにはまだ数時間ある。
「……降り出したのかよ」
窓辺に寄るまでもなく、たたきつけるような雨音が部屋の中にまで聞こえてくる。
「服部のやつ、傘は持っていってなかったよな」
ぼそりとひとりごちて、新一は外を眺めた。大粒の雨が隣の阿笠邸の屋根に跳ね返っている。まるで屋根が毛羽立って見えるような勢いだ。長めだった今年の梅雨もそろそろ明けるらしい。ときおり遠くの雲が光っている。
「ずぶぬれで帰ってくるんじゃねぇだろうな」
平次は、革靴を買いに行っている。黒のフォーマル、というかスタンダードな物を持っていなかったのだ。上京するときに持ってこなかったらしい。確かにラフな格好が好きな平次には、あまり必要のない物だろう。だが、緊急事態というものは突然発生するものだ。新一としては、必要性がなくてもスーツとそれにともなう一式ぐらいは手元に置いておけと言いたかった。
と言うのも、 新一がクロゼットの中で唸っていたのは平次のため。今腕に抱えているのは、彼に貸すためのスーツなのだ。
ことの発端は昨夜にさかのぼる。
昨夜は前期試験の打ち上げと称して、新一の家でふたりで夕食を食べていた。そこへかかってきた一本の電話。父、平蔵からの電話に平次の表情が引きつったのを思い出して、新一は苦笑した。
* * *
「おとんの名代、やて?」
平次の上げた声に、新一は箸を止めた。彼は新一が見つめているのにも気がつかないようで、渋い顔で話をしている。
「ちょお待ってくれや。急にゆわれてもそんな……。だいたいスーツなんて持ってきとらんしやな。同伴してくれるような女もおらん。女やのうても、て……」
ちらりと平次が新一を見る。
救いを求めるような眼差しに嫌な予感がして、新一は食事を再開した。やっかいごとに巻き込まれそうな気がする。平次のため息は、この際無視だ。
「いきなり明日ゆうのがだいたい無理やろ。……え、まぁ、それはそうやけど……。せやけど! けど、けどなぁ……」
平次の反論がだんだん弱くなっていく。もとより彼は父親に頭が上がらないのだ。平次が情けないと言うより、平蔵が傑物なんだろうと新一は思っている。
しばらくして「わかった」と電話を切った平次が、無言で食べ続ける新一に言った。
「なぁ、工藤、明日の晩、一緒にパーティに出てくれへん?」
口の中にご飯を入れたばかりで返事の出来ない新一に、平次が畳みかけるように続ける。
「親父が若い頃世話になった人が還暦を迎えるんやて。そんでまぁ、知り合いやら関係者を集めてパーティを開くんやと。金持ちやし、経済界にも顔が広い人らしくてな、盛大になりそうなんや。親父も出席する予定やったんやけど、今大阪では連続通り魔が出て、警戒を強化しとるとこやんか。そんで親父はいったん断ったんやけど、あちらさんが是非とも親父の代わりに息子の俺に来て欲しいゆうてるて……」
ようやく咀嚼を終えて、新一は異議を唱えた。
「それで何で俺となんだ? 同伴者って言うのは普通異性だろ?」
「そうやけど、事情話して同伴してもらうゆうても、彼氏のおる子には声かけられへんやん。隣のねーちゃんはちっこいまんまやし。大学の奴らには彼女がおるて嘘ついとるさかい、声をかけるのは無理や」
「ちょっと大変だけど、和葉ちゃんに来てもらえばいいだろ? 今すぐ電話して頼めば、お昼頃東京に着く新幹線に乗るぐらい出来るだろうし」
新一が平次の代わりに同伴を頼める相手は、やはり限られている。しかし、蘭と園子には恋人がいて、灰原哀は平次の言うとおりまだ子供の姿のままなのだ。彼女は元の姿に戻らずに生活することを選んだ。
「……蘭ちゃんから聞いとらんかった? 和葉は大阪に彼氏がおるんやで」
新一は平次の顔をまじまじと見つめた。
「おまえ、なにしたんだ? 和葉ちゃん、おまえのことものすごく好きだっただろうが。まさかおまえ、嫌われるようなひどいことでもしたのか? 振ったなんて言うなよ」
信じられないとまくし立てる新一に、平次が苦虫をかみつぶしたような顔で答えた。
「事件事件ゆうて飛び回る俺についてゆけへん、て言われただけや。……工藤かて、似たようなもんやろが」
確かに、と新一は頷いた。
蘭が新一の元を離れていったのも、事件を中心にして回る新一の世界に彼女がついていけなかったせいだろう。
「それでもまぁ、服部がついてきてくれてるからな」
新一がそう言ったとたん、平次が片手で顔を覆った。うつむく彼のつむじを見ながら、新一は食事を再開するべきか様子のおかしな平次で遊ぶべきか、少し迷った。
「……そ、それでな、工藤。さっきの話の続きなんやけど」
平次が顔も上げずに言う。
「同伴頼めるような女がおらんてゆうたら、俺ひとりやと不安やから、初めから同伴は工藤に頼むつもりやったって、親父が」
「俺はおまえの保護者じゃねぇぞ」
箸を動かしはじめながら、新一は一応突っ込んでおいた。
「あったりまえや」
つむじを見せたままの平次が反論する。
「それにしてもおまえ、信用されてないのな。未成年なのにパーティで大酒を飲むんじゃないかって思われていたりして」
「やかましいわ!」
平次が勢いよく顔を上げた。
真っ正面から新一と目があって、平次がまた少しうろたえる。
「そ、それでスーツが必要になったんで、明日買いに行くのつきあってくれへん? 持ってきてへんねん」
「貸してやるよ。サイズが合えばな。親父がたくさん置いていっているから」
* * *
はじめは遠慮していた平次だったが、最終的には新一の申し出を受け入れた。スーツのサイズは問題なかったのだが、靴のサイズ違いに気がついたのは、出かける準備のために平次が工藤邸に来た後だったのだ。そして今、平次は買い物に行っているというわけだ。
新一は居間で平次の帰りを待っていた。ソファの上に寝そべって、ぼんやりと窓の外を眺める。
雨足は一向に弱まる気配がない。雷鳴は聞こえないものの、思い出したように空が光る。
平次愛用のクッションは、新一の腕の中に収まっている。手持ちぶさたに抱き込んでいると、なぜか落ち着くのだ。
新一がクッションに顎を埋めて雨音を聞いていると、チャイムが鳴った。ついで、玄関の扉を叩く音。慌てて玄関に行くと、外から雨音に負けない平次の声が聞こえてきた。
「工藤! 鍵、開けてや!」
新一が扉を開けてやると、ずぶぬれの平次が玄関先に立っていた。水分をたっぷり含んだ風と盛大な雨音が玄関に流れ込んでくる。平次からしたたり落ちる水で、彼の足下には水たまりが出来ていた。
「ひどい目にあったわぁ。店出たとたんに降り出すんやもんな」
「すごいな。おまえ、服のままプールに飛び込んだみたいだぞ」
「けど、靴だけは死守したで」
平次が胸に抱えていた靴屋の袋を自慢げに取り出した。ビニールに包まれたそれは、確かに中までぬれてはいなさそうだ。
「わかったから、玄関に入れ。待ってろよ。タオル持ってきてやる」
平次を玄関に待たせて、新一は洗面所に向かった。
新一がタオルを三枚抱えて戻ってきてみると、平次が玄関でシャツを脱ごうとしていた。
「そんなところでなにやっているんだよ。脱ぐなら洗面所で脱げ。ついでにシャワーでも浴びるか?」
シャツの前ボタンを全開にして、平次が首を傾げる。彼の髪からしずくが落ちるのを見て、新一は腕のタオルを彼の頭にかぶせた。
「シャツ張り付くんで、はよ脱ぎたかっただけや。シャワーはええわ。身体さえちゃんと拭けたら」
乱暴な手つきで平次が髪を拭く。
「頭からつま先までぐっしょりや。降りそうやったのに、傘持っていかんかった俺が悪いんやけどなぁ」
ぼやく平次に新一は言葉を返せなかった。はだけたシャツから覗く、平次の身体に意識を奪われていたから。
平次が今もたゆまず剣道の稽古に励んでいることは、新一もよく知っている。知ってはいるが、そのことを目の前に突きつけられたのは初めてだった。
浅黒く引き締まった彼の身体を見つめて無言になった新一を、平次がタオルの隙間から見上げた。
ぶつかった視線をそらせた新一に、平次がにやっと笑った。
「水も滴るいい男、やろ?」
「バーロ!」
とっさに言い返して、新一は平次を斜に見た。身体がどうであろうと、中身はいつもの平次なのだ。関西弁のやかましくてにぎやかな男。
「色黒男のおまえから滴ると、水にも色が付いていそうだよな。足下、茶色っぽくなっていないか?」
自分の足下に目をやった平次が叫んだ。
「そんなわけあるかい! 俺は安物のジーンズやないで。色落ちしたりせえへん」
相変わらずノリのいい平次に新一は新しいタオルを彼に放ってやった。代わりにぬれたタオルを受け取る。
「しかし、おまえから滴るものっていったら、やっぱり酒か? 日本酒とか……。でも色から言えば、しょうゆが滴ってもおかしくないな」
「それはちゃうやろ」
タオルを肩に引っかけた平次がまじめな顔で答える。
「そら、俺は関西人やさかいな。たこ焼きのソースやろ。って、俺は亀裂の入ったペットボトルかい!」
しっかりノリ突っ込みをしている平次に笑いながら、新一は彼の腕を引いて玄関マットの上に立たせた。
「廊下がぬれるで?」
「スリッパ履いていけよ。ぬれたら干せばいいんだから。服は乾燥機に入れておけ。そうしておけば、夜帰ってくるまでには乾いているだろ」
平次の背中を押して、洗面所の方へ追いやる。
そして、彼の姿が洗面所に消えるのを見届けてから、新一は自分の手を見つめた。
平次の腕の感触が、残っている。
はだけたシャツの下の、自分とは違う鍛えられた身体を見て、新一は触れてみたいという衝動に駆られた。
どんな風に自分と違うのか。
柔らかいのだろうか。
堅いのだろうか。
肌は、雨に濡れて冷たい? それとも、熱い?
好奇心と衝動に押されて、つかんで引き上げた、彼の腕。
それは想像していた以上に熱く、引き締まって堅かった。
いつもより早い鼓動を刻む心臓をもてあましながら、新一は自分の腕をつかんでみた。
違うな、やっぱり。
熱も太さも感触も。
同じ男だというのに。
持って生まれた体格の差ばかりではない、長年の努力の差。
その結果として平次は、周りからも一目置かれる剣道の腕前を手に入れている。
そして、自分の目を奪うほどの、色気も。
探偵は体格でするもんじゃねぇぞ。
大事なのは頭だ、頭。
推理なら後れを取らねぇ。取る気もねぇけど。
平次の身体に見ほれた自分を振りきるように、新一は大股に居間に向かった。
自室で着替えた新一が居間に戻ってみると、シャツ姿の平次がネクタイと格闘していた。スーツの上着はソファの背に掛かっている。
「何やっているんだよ。そろそろ出発しないと道が混んでくるんじゃないか、運転手」
新一が車を出し、平次が運転するというのが、ふたりの間での暗黙の了解になりつつある。
「あかん。なんでやろ、長さがうまく合わへんねん」
平次が結びかけていたネクタイを乱暴にほどいた。口をとがらす横顔が、ひどく子供っぽい。
笑いながら新一は平次の正面に立った。
「ネクタイぐらいきちんと結べるようになれよな。この先必要だろうが。貸してみろ、結んでやる」
新一の申し出に一瞬平次が固まる。
その隙に新一は彼の手からネクタイを奪い取った。
「……中学高校と学ランやったから、ネクタイとは縁がなかったんよ」
おとなしく首にネクタイを掛けられながら、平次が弁明する。
「それに、首が絞められる感じがして、窮屈やんか。せやから、苦手なんよなぁ」
至近距離にある平次の顔は、なぜか天井へ向けられている。視線を合わせない平次をちらっと見上げ、新一は自分の手元に視線を戻した。
普段締めているのと手順が左右逆になるためか、どうしてもうまくいかない。結びかけて、ほどいて、と何度か繰り返して、新一は諦めた。
平次はと言えば、その間やっぱり天井を見たままだった。手を止めた新一に平次が上を向いたまま声をかけた。
「どないした?」
「座れ」
「へ?」
やっと平次が新一を見た。
「だから、ソファに座れって言っているんだよ」
首をひねりながら平次がソファに腰を下ろす。その後ろに回り込んで、新一はもう一度彼の首にネクタイを掛けた。
「自分が締めるとの同じ向きじゃないと、うまく出来ないんだよ」
ソファの背越しに、背後から抱きつくように平次の身体に腕を回す。新一とふれあった平次の肩が強ばるのがわかった。
新一はわずかに目を見張った。
思っていたよりも、平次の肩は広い。胸板は厚い。
玄関で触れてわかっていたはずだ。
平次の体格がよいことも。
肌が自分よりも熱いことも。
わかっていたはずなのに、またあらたな驚きを感じて、新一は苦笑した。
接触すればするだけ、知らない平次を知ることが出来るらしい。
もっと知りてぇかも。
一番近くにいる、一番親しい人間、服部平次。
出来ることなら平次のことを一番よく知っている人間になりたい、と新一は思った。
さっきと同じように平次は天井を見つめている。
彼のさらけ出された首に頬を寄せて、新一は自分の手元をのぞき込んだ。平次の耳が新一の頬をかすめる。彼の耳は熱かった。
「やっぱりこの方がやりやすい」
「……そか」
慣れた手順で、新一は平次のネクタイを結び始めた。
「今度さ、時間があるときに教えてやるからちゃんと練習しろよな。ひとりで出来ないんじゃ、困るだろ」
耳元だからと、新一は声を抑えて平次に話しかけた。ささやくような声に、平次が「せやな」と答える。彼の声もなぜか小さい。
「決まりだな。そしたらまず、おまえのスーツを買うところから始めるか」
言いながら新一は結び目を首もとまで引き上げた。ネクタイの長さを確かめてみるとちょうどいい。
「お、うまくいった。見てみろ」
新一は満足の出来る仕上がりを平次に見せようとしたが、彼は相変わらず天井をにらんだまま動かない。
おい、と言いかけ、ふと見た平次の横顔に、新一は思わず見入った。
至近距離だからわかる、普段気にもとめなかったこと。
まつげの長さや、鼻梁の高さ。
引き結ばれた唇は、少し乾いているようだ。
仰向いた喉の薄い皮膚に、触れてみたいと新一は思った。
「工藤?」
眼球だけ動かして、平次が新一を見る。身体の方は硬直しているように、微動だにしない。
玄関で感じた衝動にまたもや駆られそうになっていた新一は、我に返って平次の身体から離れた。そのとたん、平次がソファに横倒しになった。
「おい、寝るなよ、スーツが皺になるだろうが」
ソファを回り込んで、新一はクッションに顔を埋めている平次の後頭部を叩いた。
しかし、返ってきたのは、文句ではなかった。
「……おおきに」
疲れ果てたような平次の礼は、クッションのせいでくぐもって聞こえた。
「ほら、行くぞ、服部。遅れたらまずいんだろ?」
新一は腕時計に目を走らせた。移動時間を考えるとのんびりしている暇はない。
「わかっとる。先に車んとこいっといて……」
「おう。おまえもすぐこいよ」
ソファの背にかかったままの平次の上着を取り上げ、新一は玄関に向かった。
「……きっついちゅうねん」
居間を出る間際、平次のため息混じりの声が聞こえた。
「ネクタイきついんなら、ゆるめとけよ」
振り返って答えた新一に、ソファの上でつぶれたままの平次が力無く手を挙げた。
新一が靴を履きおえた頃、ようやく平次が居間から出てきた。その彼に上着を渡し、新一は扉を開けた。
「安全運転で頼むぜ、服部」
「まかせとき」
普段通りに戻ったらしい平次が、きっちり結ばれたネクタイに触れ、嬉しそうに笑う。
いつの間にか、雨は小雨に変わっていた。
ネクタイを窮屈だと言って嫌っていた平次だが、その日は工藤邸に戻るまでネクタイをゆるめることはなかった。