まどう恋

 



 平次がソファで寝ている。
 高校三年。受験の夏。本来なら大阪で勉強に励んでいるはずの男が、なぜか工藤邸で熟睡している。
 真夏の昼下がり。太陽は高く、庭に木々の影はない。風もなく、ただ蝉の声だけが、庭に満ちていた。
 リビングはエアコンがフル稼働して、どうにか心地よい環境になっている。
 そこで彼は眠っているのだ。
 新一はすやすやと寝息を立てる平次を見下ろして、つくづくとため息をついた。

 彼は今朝いきなりやってきた。





 枕元に置いてあった携帯電話が鳴った。
 夏休みの朝寝を楽しんでいた新一は、目を閉じたままそれに出た。
『おはようさん、工藤。玄関、開けてや』
 耳に飛び込んできたのは、元気な平次の声。
 新一はぼんやりと目を開いて、天井を見つめた。おかしなセリフが聞こえた気がする。
『おーい、工藤。聞いとるんか?』
「……聞いている」
『そんなら、玄関開けてえな』
「げんかん?」
 引っかかったのは、ここだ。平次は大阪にいるはずだ。なのになぜ、玄関を開けなければならないのか。

 新一はもぞもぞとベッドの上に起きあがった。
 カーテンの隙間から差し込む日差しが、今日も暑くなることを確信させる。
『そや、玄関や。なんや、まだ寝とったんかい』
「うるせぇーよ」
 とりあえず言い返して、新一は立ち上がった。ふらふらと部屋を出る。
「なんで玄関を開けないといけないんだよ」
『そら、俺が入れんからや』

 階段を下り掛けていた新一は、足を止めた。
「おまえが? なんでここにいるんだ?」
『くどう……。メール見とらんな。昨日の夜、送ったんやで』
 確認する、といって新一は電話を切った。
 階段を下りながら、メールを開く。確かに平次からメールがきていた。時間を見るとずいぶん遅い。熟睡していて気がつかなかったようだ。

 ――明日、花火大会があるらしいな。朝そっち行く。泊めてな。
 新一はため息と共に携帯電話を閉じた。
 深夜に行くとメールを送り、翌朝本当にやってくる。平次のフットワークは軽い。
 軽すぎると新一は思う。
 行動力があることは、よく知っている。だいたい知り合う切っ掛けも、消えたライバルを探し出してやるという、平次の行動力のたまものなのだから。
 そのフットワークの原動力がどこから来るのか。
 新一はなんとなく勘づいていた。

 玄関を開けると、満面の笑みを浮かべて平次が立っていた。
 野球帽にジーンズ、肩にはドラムバッグ。上京してくるときのいつもの出で立ちだ。今朝は、小脇に新聞を抱えている。
「おはようさん、工藤。ほい、朝刊やで」
 差し出された新聞を思わず新一は受け取った。
 扉を押さえる新一の脇をすり抜けて、平次が玄関に入り込む。
「メール、気づいとらんかったんやな」
 無言で頷くと、彼は新一の顔を覗きこんで笑う。
「まだ寝ぼけとるな。いくら夏休みやからって、寝過ぎやろ。目ん玉溶けるで」
「うるさい」
 新一が地を這うような声で応えても、平次にまったく堪えた様子はない。

「返事がない時点で、読んでいない可能性を考えろよ」
「そうちゃうかな、とも思ったんやけどな」
 上がり込んだ平次を促して、新一はリビングに向かった。
「まぁ、いきなりゆうんもおもろいかな、と」
「こっちの都合も考えろ」
 新一は平次の頭を新聞で叩いた。





 朝一番の新幹線に乗ってきた平次は、やはり寝不足だったようで、昼食の後少し寝るといってソファに横になった。そして、あっという間に寝息を立て始めた。
 ソファからは平次の手足がはみ出している。片腕など、だらりと床に届いていた。
 元の身体に戻った後、成長の止まったような新一に比べ、平次はめきめきと身長を伸ばしている。会うたびに交わす視線の高さが違うような気がするほどだ。

 新一は平次の頭のそばに立った。上からしげしげと彼の顔を覗きこむ。
 色の浅黒い精悍な顔立ち。引き締まった体躯。
 間違いなく二枚目のはずなのだが、新一の中で彼は三枚目になる。よけいなことまで話す口のせいだ。
 今は閉じられている平次の目を、新一はじっと見つめた。

 いつの頃からか、彼の目にちらちらと炎が見えるようになった。
 熱のこもった瞳が、おまえが欲しいと語る。
 本人は隠しているつもりかも知れない。
 ――だから、ちょくちょくここに来るんだろ。
 新一はこっそりとため息をつく。

 彼の気持ちに気づいても、どうして良いのかわからない。
 疎ましく思ってはいない。
 不愉快にも、気色悪くも思わなかった。
 ただ、このことで彼との関係が、上手くいかなくなることを恐れている。
 息の合う相棒を失うようなことになるのは避けたかった。
 ひとりでも、もちろん探偵は続けられる。気の合う友人も彼だけではない。それでも彼がいない生活を考えるのは苦痛だった。
 ただの友情の方が、男同士の恋愛という障害の多いものよりも、長く続くのではないだろうか。
 だが、炎に惹かれる自分というのも、否定できなかった。
 彼の気持ちを疎ましく思えない理由がそこにある。

 新一はサイドボードの上の時計に目をやった。
 花火大会をいい場所で見ようと思うなら、そろそろ出かけて場所を取らなければならない。
「服部」
 声を掛けても、彼は目覚めない。
 新一は自分を悩ます男をソファから蹴り落とした。





 夜空に鮮やかな光の花が咲く。
 腹の底に響く破裂音が空気を振るわせる。
 次々と咲く花火を新一は平次と並んで見上げていた。
 川向こうで打ち上げられる花火を見る特等席の脇、土手の斜面の途中に敷物を敷いて、ふたりは自分たちの席を確保していた。
 空には花火、地上には人人人。見渡す限りといってもいいほど、人の頭ばかりが見えた。青々とした夏草の茂る土手を埋め尽くすように、見物客がひしめいている。土手下には屋台が軒を連ね、祭り提灯が冷やかして歩く客の足下を照らしていた。

 来てよかったわぁ、と平次がひとりごちる。
 隣で新一は苦笑を浮かべた。
 大阪でも同じような規模の花火大会はあるだろうに、わざわざ遠出してきてまで見物とは物好きなものだと思うのだ。
 それがたとえ自分と見るためであってもだ。

 座る人の隙間を縫うように、土手の下から人が上ってくる。子供を抱えた母親が、すみませんと声を掛けながら平次の横を通っていった。
 彼女に道を空けた平次の身体が新一の方に傾ぐ。
 避けた平次の手が、新一の手に重なった。
 新一は空を見つめたまま息を飲んだ。
 ほんの少し、腕を動かせば、平次から離れることが出来る。それが出来ない。

 平次も動かない。
 声もない。
 花火の音と歓声から、ふたりだけが隔絶される。
 新一の目には色鮮やかな花火が映っていた。
 しかし、見えてはいなかった。
 意識のすべてが指先から伝わる平次の熱に向かう。
 重なる指の神経が痛いほど敏感になる。

 新一は息苦しいほどの沈黙を破る術を見いだせなかった。
 耳の奥には花火の音をかき消すような心臓の鼓動が響いている。
 離れたい。
 離れたくない。
 離れて欲しい。
 もっと近くに。
 矛盾する思いが新一の身体を縛り付ける。
 平次の抱える炎が、新一の指先をじわじわと焦がしていく。

 小さな叫び声が上がった。
 光る物が新一の視界を横切って、平次の膝の上に落ちた。飛んできたライトスティックを彼が掴み上げる。
 ふたりはそれが飛んで来た方を振り返った。
 小学校低学年ぐらいの女の子が驚いた顔でふたりを見ていた。遊んでいて手が滑ったらしい。父親らしき男がすみませんと頭を下げる。
 新一はそれを平次の手から受け取って、はいと彼女に渡した。女の子はにこりと笑ってありがとうと礼を言う。

 新一は空に目を上げた。
 目に花火が、耳に打ち上げの音が帰ってきている。
 平次に気づかれないように、新一はそっと肩から力を抜いた。





 シャワーを終えて、新一はリビングに戻った。テレビを見ていた平次が振り返る。
「入れよ」
「おおきに。先に飲んどいてな」
 当然と頷くと、平次は笑いながら着替えを抱えてリビングを出ていった。
 新一は彼の背を見送って、キッチンにビールを取りに行った。
 ふたり分のグラスと缶ビールをリビングのテーブルにセッティングする。夕食は花火の帰りに外食で済ませているので腹は減っていないが、つまみも一応用意しておく。
 新一はソファに身を投げ出すように座った。
 テレビは事件の報道を終え、政治のニュースに変わっている。新一はリモコンでテレビを消した。リビングに静寂が戻る。

 ビールに手を伸ばすことなく、新一は背もたれに寄りかかり目を閉じた。
 花火大会で、平次の手に触れた。
 彼はそのことについてなにも言わない。
 花火大会の最中も、帰り道も、帰宅してからも、なにもなかったかのように振る舞っている。
 それがかえって不自然だ。
 自分が話題にしないのは、迷いがあるからだ。
 彼の理由は何なのか、気にかかる。

 平次の指の感触は未だに新一の手に残る。
 まるで火傷のようだと新一は思う。
 痛みが残っているわけではない。
 しかし、心が指先の代わりに疼いている。
 新一は唇に指先を寄せた。
 彼から伝わってきた熱は、心地よかった。
 また触れたい。
 心の奥底からわき上がる望みを、新一は諦観と共に受け入れた。





「涼しいなぁ」
 リビングに戻ってきた平次が声を上げた。エアコンで冷えた空気が気持ちいいのだろう。
 新一はふたつのグラスにビールを注いだ。
「あれ、飲んどらんかったん」
「まぁな。別に待っていたわけじゃねぇぞ」
 新一の隣に腰掛けて、平次がグラスを取り上げる。
「乾杯」
「なんにだよ」
「そうやなぁ。めっちゃきれいやった花火に、ちゅうことで」
 笑って新一は彼のグラスに合わせた。

 競争でもするように一気に飲み干して、大きくため息をつく。
「やっぱ風呂上がりのビールは最高や」
 同感だったが、未成年とも思えないセリフを新一は笑う。
「親父くさいやつ」
「やかまし」
 平次が次の缶に手を伸ばす。
 同じ缶に手を伸ばした新一と手がぶつかった。

 花火の色を褪せさせた時間が、還ってくる。
 一瞬、ふたりは動きを止めた。
 引きかけた新一の指先を平次が捕らえる。
 無言のまま。
 掴まれた指先が、炙られたように熱くなる。
 息を飲んだまま、新一は平次を見た。
 目があった瞬間、抱きしめられる。

「はっとり」
 新一は彼の目の中にはっきりと炎を見ていた。
 平次の濡れた髪が頬をぬらすが、冷たさなど感じなかった。
 彼の抱える炎が燃え移ってくるのを確かに感じる。
 身体が熱い。
 平次は新一を抱きしめたまま動かない。
 自分の行動に戸惑っているようにも感じられた。
 それでも彼の腕の力は弛まない。

「なにか、言え」
 新一は喘ぐように尋ねた。
「工藤が欲しい」
 喉に絡んだような声だった。
 新一は平次から身体を離した。彼の目を覗き込む。
「俺は高いぞ」
「国家予算か」
「馬鹿言え、もっとだ」
 片手は未だ掴まれたまま。空いた手で新一は平次の頬を包んだ。

「代わりに、おまえの未来を俺にくれ」
 たとえ関係が変わっても、彼にそばにいて欲しい。
 失うことには耐えられない。
 だから、出来る限り自分に縛り付けておきたかった。
 その代わりに自分を与えることなど、まったくかまわない。

「やる」
 あっさりと平次が答える。
 平次の指先が新一の首筋をくすぐるように撫でる。新一はびくりと肩を揺らした。
「簡単に言うな」
「簡単や。俺はもともと工藤のもんや。もしおまえが誰かと結婚しても、そばを離れる気はなかったんやで。ずっと近くにおって、顔を見とる気やった」
 平次は掴んだままの新一の手を口元にやった。新一の指先に彼の吐息がかかる。
 前から俺の未来は工藤のものや、といいながら、平次が指先に口づける。
 視線はずっと絡んだまま。
 目の中の炎はいっそう激しさを増している。

 平次の熱が、指先から、首筋から、新一に流れ込んでくる。
 焼き尽くされるのだな、と新一は頭の片隅で思った。
「おまえが一生俺の相棒でいるというのなら、くれてやる」
 新一は平次を抱き寄せた。
 首筋をもてあそんでいた平次の手が、シャツの裾から忍び込んでくる。
 素肌をまさぐる平次の指に新一の息が乱れる。
 好きや、とささやく平次に、新一はそっと笑んで、口づけた。


 

2006年夏に期間限定で置いていた物を大幅に書き直した物です。

元になった和歌

よひのまもはかなく見ゆる夏虫に まどひまされる恋もするかな

古今和歌集 巻第十二 恋歌二 561 紀友則

宵の間もはかなく人がたく火に惑わされ、身を滅ぼす夏虫以上に理性もなくなっている我が恋。

  

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