昼下がり
平次が学食に戻ってみると、新一が女に捕まっていた。昼休みもそろそろ終わる時間帯で、学生の姿も少なく空席が目立つ。その学食で声高に話す女の声はよく通った。どうやら映画に誘われているらしい。甘ったるく語尾を伸ばしねだる女に応える声は低く、平次の所までは届かない。だが、新一の浮かべている笑みが引きつっているのだけははっきりわかった。 平次は自分の缶コーヒーと頼まれていたカフェオレを手に、彼に向かって声を掛けた。 「工藤! 買うてきたで」 新一が平次を振り返り、荷物を持って立ち上がる。女の方も新一につられたように平次に視線を流した。その眼差しに忌々しげな光が浮かんですぐ消えたのを、平次は見逃さなかった。 馬に蹴られろゆう目やなぁ。 大学に入学してから早二月。 この短い時間に新一が流した浮き名は、片手では足りない。 元々マスメディアに取り上げられるほどの高校生探偵だった新一。しかも、いまは一時期行方不明になっていたというミステリアスな影まで付いている。さらに本人の見た目もよく、両親は有名人。おまけに外面だけはいい。口と足癖の悪さを知っている人間はまだ限られている。 これでもてないはずはない。 引き止めようと腕をつかんだ女をすげなくあしらって、新一が平次に歩み寄ってくる。彼の後ろで、今度ははっきりと女が平次を睨んでいた。 それを無視して平次は新一の差し出した自分の荷物を受け取った。代わりにカフェオレを手渡す。 建物の外に出ると、強い日差しがふたりを包んだ。 「どこで時間を潰すんや?」 「中庭」 急遽、休講になり昼下がりにぽっかりと時間が空いた。普段なら図書館か近くの喫茶店あたりに行くのだが、梅雨入り間近とは思えないほど今日の天気はいい。部屋にこもるのはもったいないほどだ。 新一が眠たげに目を擦る。 「昼寝でもするんか?」 頷きながら、新一が大きなあくびをした。 「睡眠不足なんだよ」 何かまた夢中になることでもあって眠るのを忘れたのだろうと平次が考えていると、新一が鞄から本を取りだした。 著者と題名を見て平次は目を見張った。 「これ、まだ……」 「そう。父さんの新刊。明後日発売のやつを送ってきてくれたんだ。読むだろ、服部」 「読む読む! 貸してくれるんか?」 「そうでなきゃ持ってくるかよ。こんな重いもん」 「おおきに!」 受け取った本の表紙をなでながら、平次は新一に感想を聞いた。口元がゆるんでしまうのはしょうがない。ずっと楽しみにしていたシリーズなのだから。 「……やられた」 新一がくやしそうに答える。 「そら、楽しみや」 平次は笑って本を小脇に抱えた。 平次は中庭の木陰になった芝生の上に腰を下ろした。昼寝をするにしても、本を読むにしても日向では光が強すぎる。 木により掛かって足を伸ばした平次の横に、新一がジャケットを脱いで座った。 「時間が来たら起こせよ」 それだけ言って、新一がごろりと横になった。 平次の太股を枕にして。 「ちょお、待て! 工藤。なにしてんねん、自分」 「枕があった方が寝やすいんだよ。それにしてもちょっと固いな」 「男の足やから固うて当たり前や。 って、そう言う問題ちゃうわ」 騒ぐ平次を新一が睨み上げる。 「俺は本を貸した。だからおまえは足を貸せ。文句あるか?」 返答につまった平次を見て、新一が自分のジャケットを身体の上に掛けた。寝入る準備だ。 「……文句はないねんけど、工藤」 平次はため息混じりに問いかけた。 「妙な噂がたってもしらんで。女に飽きて男に乗り換えた、とか」 「別にかまわねぇよ。これ以上勝手に恋人を名乗る女が増えないんならな」 新一が億劫そうに片目だけ開いて答える。 有名人である新一。 きっかけを無理に作ってでも恋人になりたがる女は多い。 今このときでも、男、女からにかかわらず、ちらちらと視線を感じる。ふたりと同じように中庭でくつろぐ人間からだけではなく、通りすがる人や近くの建物の中からも。 実際、自称彼女にストーキングまがいにつきまとわれたり、家の前で帰宅を待ち伏せされたりと、新一がいろいろと迷惑を被っているのを知っているだけに、平次は苦笑するしかなかった。 「もてすぎるゆうのもつらいなぁ」 「俺はマスコミに出てたからな。おまえだって今にそうなるぜ。覚悟しておけよ」 「そらないやろ。工藤と噂になったら」 笑って新一の顔を見下ろすと、新一も肩を揺らして笑った。 「そりゃそうだな」 ひとしきりふたりで妖しい噂をネタに馬鹿話を繰り広げたあと、新一が目を閉じた。 平次も本を開く。 ──視線を感じる。 きっと、噂が立つ。 先ほど笑った妖しい内容の噂が。 平次は唇の端を引き上げた。 俺としたら、望むところや。 発端が女除けでもかまわない。 最終的に新一の恋人の座を手に入れることが出来るのなら。 新一はすでに気持ちよさそうに眠っている。 足に掛かる重みは結構あるが、これはこれで嬉しい重さだ。 ずれてもいないジャケットをそっと掛け直してやり、平次は微笑んだ。 好きなように噂せいや。 突き刺さるような視線をあおるように、平次は本に戻す手で新一の髪をなでた。
歌を逆手に取った話。ゆえに、狂歌の間には入れられなかったのです。
本歌 春の夜の夢はかりなる手枕に 甲斐なくたたん名こそおしけれ 百人一首 周防内侍
春の夜の夢のようなはなかい手枕のせいで、本当の恋でもないのに噂がたってしまうのは、口惜しいことです。(男性からの手枕を断る女性の歌)
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