恋に朽ちなん

 



 平次の目の前で新一がコーヒーをすすっている。
 展望のよい大学構内の喫茶室に人影はあまりない。昼食時もすぎ、講義のある学生はそれに出ているのだろう。それ以外の学生の多くはおそらく図書館にいる。後期試験が間近いせいだ。その図書館は窓の外に見えている。本来ならば平次もその場にいて、次の講義が始まるまでレポートの作成にいそしんでいるはずだった。

「話ってなんや?」
 図書館へ向かう途中、平次は新一に電話で呼び出されたのだ。だが、待ち合わせの喫茶室に平次が来てから、新一は一言も口を利こうとしない。平次のことも見ようとしない。彼はずっとどんより曇った外を眺めている。平次のコーヒーもそろそろ冷めてしまいそうだ。
「工藤?」
 新一の沈黙に耐えかねて、平次はもう一度問うた。
「また振られたんだってな」
 ようやく新一が平次の目を見た。
 揶揄する口調を裏切る冷静な視線。
「何度目だよ。大学入って一年経たないって言うのに……。おまえに関して聞く噂は全部女がらみだぞ。しかも、振られてばかりじゃねぇか」
「ええやろ、別に。なんかおまえに迷惑でもかかっとるんか?」
 平次は目を落としてカップを取り上げた。彼の視線からの逃げだ。受け止めるには心にやましいことを抱えすぎている。
「多少な」
 新一が背もたれに寄りかかる。組んだ腕が平次の言葉を否定しているようだ。
「それはすまんかったな」
「謝る必要はねぇよ」
 必要はないと言いながら、新一の表情は厳しい。
「そんで、話っちゅうのは、そのことか?」
「そうだ」
「おまえが口を挟む問題ちゃうやろ。ちゅうか、謝らなならんほど迷惑かかっとらんゆうなら、ほっといてくれ。よけいなお世話や」
 心の奥底を見透かすような目で、新一が突っかかる平次を見つめている。居心地が悪くなるほど新一の眼差しは揺るがない。表に出せない動揺を平次はコーヒーと一緒に喉の奥に流し込んだ。
 ややあって、新一が口を開いた。
「おまえ、どうして好きでもない女とつきあうんだ?」
 新一の言葉と視線を受け止めかねて、平次は思わず彼から視線を逸らした。そこへ新一が追い打ちをかける。
「見ていればわかる。おまえが振られるのは、そのせいだろ。女はそういうのに敏感だからな」

 ああ、敏感やな。
 平次は目を伏せたまま自嘲した。
 新一の言葉は平次の急所を過たず貫いた。
 平次が好きでもない女とつきあう原因は、今目の前にいる。
 同性の新一へと向かう想いや衝動を彼に悟られないように、別の捌け口へと解き放つために、平次は好きでもない女とつきあってきた。言い寄ってくる女を利用していただけなのだ。彼女たちは平次のことを好きだといい、つきあい、そして去る。平次の心が自分の上にないことを、たいした時間もかけずに見抜いていくのだ。

「来るものを拒まんだけや」
「そして振られて噂になるんだな。女たらしだって他学部の俺の耳にまで入っているぞ」
「どんな噂になっとっても俺は気にしとらんし」
 気になどしない。
 自分の想いがほかに知れて新一を巻き込む醜聞になるよりは、ずっとましだと平次は考えていた。
「俺が気にする」
 言いきった新一にようやく平次は目を上げた。
 やはりそこには厳しい表情の彼がいた。
「ああ、親友がたらしやと困るゆうんか」
「馬鹿か、てめぇ」
 新一が鼻で笑う。
「おまえの探偵の腕が落ちたとか言うんなら、困るけどな。女好きぐらい別にどうってことない」
 新一がテーブルの上に肘をつき、わずかに身を乗り出した。
「本当に女好きならまだしも、下手な逃げを打つんじゃねぇよ。服部」
 新一の口角が挑発的につり上がる。
 虚をつかれた平次の肩が揺れた。
 新一の瞳はまっすぐに平次をとらえている。
 真実を暴き出す探偵の瞳が。
「……なにゆうて」
 平次は彼の言葉を冗談にして、笑って誤魔化すつもりだった。
 だが、平次の強ばった喉から出たのは、かすれた声。

「気がついていたんだよ。入学当時から。おまえが俺に惚れているってことぐらい」
 唇には笑みを、だが、瞳には苛立ちを浮かべて、新一が言う。
 平次は為す術もなく、新一の視線にさらされていた。
 逃げも誤魔化しも新一には効かない。
 平次はため息をついた。
「それやったらなんで俺を避けんかったん? 嫌やろ、同じ男に惚れられるゆうんは」
「はじめは俺の勘違いだと思った。自意識過剰だってな。でも、そうではないとわかって次に考えたのは、おまえの気の迷いだ。ガキの格好していた俺に保護欲を刺激されて、それが妙な方向に曲がって、恋愛感情に似たものになっているだけじゃないかってな」
 喫茶室に流れる有線にともすれば消されてしまいそうな声で新一が淡々と告げる。
「恋愛感情が擬似ならば、相棒としては頼りになるし、なによりおまえといるのが楽しかったから、避けたくなかったんだよ」
 嬉しい言葉を新一がささやく。
「そのうちおまえは女を作った。俺に向かう気持ちが偽物だと気がついたんだろうと思って安心したよ、はじめは。だけどおまえは女との恋愛に本気になろうとはしなかった」
「当然や。おまえに対しての気持ちに俺自身が気づいたんは、高校の時や。ガキの格好しとるのに、俺には今の工藤と変わらんように見えとった。そのころからずっと悩んどった気持ちが、擬似のわけあるかい」

 人目がないならふたりを隔てるテーブルを押しのけて、平次は新一を抱きしめてしまいたかった。それが出来ないのなら、せめてテーブルの上でゆるく組まれた彼の両手を、自分の手で包み込んでしまいたかった。
「そんなに前からだったのか」
「そうや」
 否定して否定して、思いつく限りの理由を並べ立てて否定しても、自分の心は彼に向いた。離れて想うつらさより、そばでただ見守るだけのつらさを選んで、平次は上京したのだ。
「つきあううちに工藤以上に想える女に出会えるかもしれへん、って思うてたのも事実や」
 だがそれは無理だった。
 比較する対象を得れば得れるほど、新一の存在が平次の中で際だった。
「俺が本気やゆうことに気がついてからも、おまえは俺のそばにおったわけやな。なんでや?」
 気持ちが悪いとは思わなかったのだろうか。
「正直言って信じたくなかった」
 先ほどまで見せていた鋭さが新一の視線から消えた。
「本気なら離れた方がいいと思った。おまえの気持ちに応えられないのなら、そばにいない方がいいと思った。きっぱりと態度で示す方が優しいと思った。残酷じゃねぇか、中途半端なままじゃ、おまえは新しい恋も出来ない」
 過去形を並べて新一がちいさく笑う。
 残酷だろう、とつぶやいて新一が自分の指先に視線を落とした。
 ようやく新一の瞳から解放されて、平次は彼に悟られないように肩から力を抜いた。
「それで今日、俺に引導を渡してくれるんやな」
 平次の気持ちを暴いて、それには応えられないと告げるために、新一は電話をかけてきたに違いない。
「引導?」
 目を伏せたまま新一が肩を揺らす。おかしくもなさそうに笑っている。
「おまえが本気なのか、そうじゃないのか、それを見極めるために俺はずっとおまえを見ていた。おまえのことばかりを考えていた」
 新一が目を上げる。
 苛立ちがまたそこにあった。
「おまえの噂ばかり追いかけるようにもなった。聞こえてくるのはみんな女がらみ。次々と女を替えている話ばかりだ。構内でおまえを見かければ、自然と目で追っていたよ。そして、おまえの隣には必ずと言っていいほど女がいた。しかも見かけるたびに違う女が。苛々したぜ、まったく」
 にらみ据えられて、平次は顔をしかめた。
「そんなん、おまえには関係ないやろ。俺は俺で必死に工藤から目をそらしとったんやから」
「ああ、そうだよ。俺が勝手にやっていたことだ。勝手に苛ついていただけだよ」
 吐き捨ているように言って、新一が唇の端をつり上げた。瞳は笑っていないのに、口元だけが笑みを描く。

「原因はわかっている」
 新一の手が素早く伸びて、人目を避けるように平次の指をかすめた。
「この手はどんな風に女に触れるのか」
 平次の手に触れた指先が、新一の唇に当てられる。
「おまえはどんなキスをするのか」
 誘うように動く唇に、平次は息を飲んだ。
 平次は新一に魅入られたまま、彼のささやきを聞いていた。
「気になり始めたら、止まらなくなっていた。本当なら、全部俺のもののはずなのに、違う相手に与えられているのが、不愉快だったんだよ」

 思わず伸ばした平次の指は簡単に新一にかわされた。
「……工藤!」
 新一に触れたかった。
 かすめるようなものではなく、隙間なく触れて、想いをすべて体温ごと伝えたかった。
 ふたりの間にテーブルがあるのがもどかしい。
「どうする服部。男との恋愛なんてお互い名前に傷が付くだけだ。それが嫌でおまえは女に走っていたんだろ? 今まで通りでいたいのなら、それでもかまわない。俺は去る者は追わない。女を選ぶか、俺を選ぶか、覚悟が決まったら連絡をよこせ」
 新一が椅子から立ち上がった。
「期限はなしだ。これでおまえの未来の明るさが決まるかも知れないから、じっくり考えろ」
 言い置いて、新一が背を向ける。
 平次は椅子を蹴って追いかけると、新一の腕をつかんだ。
 ふたりの慌ただしい動きに喫茶室にいた人間の視線が集まる。
「おまえの覚悟はどうなんや?」
 平次はぐっと顔を寄せて小声で尋ねた。
 新一がにっと笑う。
「決まっているから、おまえを呼びだしたんだ。それぐらい察せよ」
 平次の身体を衝動が走り抜けた。
 力一杯抱きしめて、思いの丈を叫びたい。
 指先で髪を、唇で肌を、感じたい。感じさせたい。
 だが、なけなしの理性がここには人目があると告げている。
 平次は新一の腕を取ったまま出口に向かった。
 どこでもいい、ふたりきりになれる場所へ行きたい。
 引きずられるように歩きながら新一が確認を取る。
「いいんだな?」
「当たり前や」
 新一が隣にいてくれるのなら、それでかまわない。
 醜聞などおそれない。
 自分の評判などより大事なものを、ようやく手に入れたのだから。


 

元々使う予定のなかった、失恋の歌から派生。しかも、下の句だけで話を思いついてしまったので、歌とはまったく関係のない展開になってしまいました。

本歌
うらみわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそをしけれ
後拾遺
集 815 相模 (百人一首 65)

恋しい人への恨みや嘆きで私の袖はぬれたまま朽ちてしまいそう。そのうえ、この恋のために私の評判までもが落ちてしまうのは、口惜しいことです。

  

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