蛍 の 恋

 



 そろそろ寝るか。
 そう言って新一が天井の電気を消したのは、日付の変わったあとだった。
 部屋が行灯を模したランプの光に暗く照らされると、先ほどまで気にならなかった畳の香りが鼻につく。柔らかな羽枕に頭を預けて、平次は天井を眺めた。
 花の生けられた床の間。段違いの飾り棚。壁には読めない書が額に入って飾られている。そして、隣に敷かれた布団には、親友の新一。
 慣れない状況に落ち着かず、平次は静かに息を吐いた。

 ふたりは温泉旅館にいた。
 事件の捜査ではなく、ただの観光。平次の母が抽選で宿泊券を引き当てたのだったが、当の本人の都合が悪く、代わりに平次が新一を誘って来ていた。
 露天風呂と、蛍の棲む清流が近いことが売りの、純和風の旅館の夜は静かに過ぎていく。夕食は豪華で美味しく、温泉も堪能し、夕涼みがてら新一とふたりで蛍を見に行きもした。川縁の風に浴衣の袂を揺らしていた新一を、平次は蛍の光よりも鮮明に覚えている。
 こっそりと見やった新一は、目を閉じている。もう眠っているのかも知れなかった。
 平次は天井へ視線を戻し、もう一度ため息をついた。

***

 満月には少し足りない月が東の空に浮かんでいた。
 さえざえとした光に小川の水面が光る。水音は耳に涼やかで、吹く風もまた水気を含んで涼しい。平次は持っていた団扇を浴衣の帯に挟んだ。
 平次の目の前をすうっと光が流れた。
「あっ」
 隣を歩く新一が軽く声を上げた。
 流れた光はそのまま、小川の対岸へと滑るように消えていく。
 ひとつの光に気がつけば、あとはあちこちの草の影に光があるのを見つけられる。呼吸をするようなゆるやかさで光る蛍を、ふたりは足を止めて眺めた。
「きれいだな」
 声をひそめて新一が言う。
 月明かりの他は、川岸に目立たぬように設置されたフットライトしかない遊歩道は、夜の闇が都会よりも重く、気圧されたように声が低くなる。
「そうやな」
 平次もささやくように答えを返した。

 道に覆い被さるように木の枝が伸び、茂った葉で月を隠す。闇の中で息を殺して蛍を眺めていると、人気が絶えたと思ったのか、足下の草むらから虫の鳴く音が聞こえてきた。
「鳴かぬ蛍が身を焦がす」
 新一が呟いた。
 はたと虫の声がやむ。
「都々逸か?」
 平次の記憶によれば、『恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす』だったはずだ。
「秘めた恋の方が切実、か」
 川面に飛び交う光を眺めたまま、新一が言う。
「言葉に出来へん分、苦しいっちゅうことやろな」
 自分の恋も、言葉には出来ない。
 平次もまた流れる光を目で追った。

「けどさ、結局、光って想いを表しているんだろ? 鳴いているのと変わらないじゃないか。恋しいと身体で表現しているんだから」
「せやな。一番苦しいんは、言葉にも態度にも表さんとおることかもしれへんな」
 新一の横顔が微笑んだ。
 枝からこぼれた月明かりに照らされたそれは、ひどく寂しげだった。
 平次の心がざわめく。
 彼は、誰かを密かに想っているのか。
 工藤。
 呼びかけようとして、平次は口を閉ざした。
 なにを言葉にして良いのかわからない。

「でも、本当にきれいだ」
 再び新一が感嘆のつぶやきをこぼす。
「命がけやからな」
 光るという行為は、雌にだけでなく、捕食者にもまた見つかりやすくなる。リスクの高い求愛だ。
「想いを遂げるか、身の破滅か」
 新一がささやく。
 自身へ語るような低い声は、平次の耳にようやく届いた。
 先ほどの微笑が尾を引いているのか、平次にはやはり新一の顔は寂しげに見えた。

「また、来ような。工藤」
 聞こえなかった振りをして、平次は明るくささやいた。
 新一が平次を振り返る。
「時間があったら、またな」
「今度は自腹になるで」
 平次が冗談めかすと、新一が肩を揺らして笑う。翳りの消えた笑顔に、平次はそっと胸をなで下ろした。
 次に会うのは、いつになるだろう。
 お互い、学生生活と探偵業の両立で忙しい。今回の旅行も二ヶ月ぶりの顔合わせだった。
「こんな風に事件が起きない旅行っていうのも珍しいよな」
「ほんまや。平和でええもんや。料理は美味いし、温泉もええし」
「蛍はきれいだし。明日帰るのがもったいないぐらいだぜ」
 ふたりは笑みを交わした。

 新一が歩き出した。平次は彼のあとに続く。道の先には懐中電灯の明かりが見える。おそらく家族連れでもいるのだろう。子供の歓声が風に乗って聞こえてくる。
 また新一の脇を光が流れた。
 それを追うように彼の腕が伸ばされる。その指先をかすめて、ふっと光は消えた。
「捕まえたらあかんよ」
 笑いながら言えば、新一が振り返る。
「バーロ」
 言ったとたん、彼が体勢を崩した。
 揺れた身体に平次はとっさに腕を伸ばし、彼を支えた。
「なにしとんねん」
「悪ぃ、下駄が滑った」
 慣れない下駄履きに、舗装などされていない遊歩道。整備されているとはいえ、木の根や石もあちこちにある。
 普段浴衣などを着る機会のない新一には、かなり歩きづらいことだろう。
「鼻緒、痛うなってない?」
「平気」
 照れたように素っ気なく言って、新一は平次の腕を離れた。

「けどさぁ。ほんと、帰りたくねぇなぁ」
 月を仰いで、新一が流れていく時間を惜しむように言う。
 平次の応えを待たず、ひとりで先に歩き出す新一の襟足が、月明かりに映えた。
 息を飲んでそれを見つめた平次は、慌てて目をそらした。その視界を蛍がかすめて飛ぶ。
 ひとり佇む平次の耳に、また虫の声が聞こえてきた。

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも――。

***

 平次は軽い夏布団をそっとどけて起きあがった。
 エアコンは程良く効いていて、寝苦しいことはない。しかし、眠れない。
 平次は横で眠る新一の寝顔を見た。
 彼と一緒にいることが平次の眠れない原因だ。
 新一への想いを自覚してからすでに数年。隠し通すと決めてから、同じ年月が流れている。ふたりを取り巻く状況はすっかり変わったのに、ふたりの関係は昔と同じ。自他共に認める親友で、相棒で、ライバル。
 しかし、こうして同じ部屋でふたりきりで過ごす夜は初めてだ。
 初恋でもあるまいに、緊張して眠れない自分に平次は苦く笑った。

 和紙のシェード越しの光に照らされて、新一の顔には深い陰影が刻まれている。良く出来た人形のように、その影は揺らがない。
 澄ませた耳でも寝息を聞き取れなくて、平次は不安に駆られた。
 新一の布団の上に身を乗り出して、そっと彼の顔の上に手をかざす。指先に温かい息が掛かって、平次は安堵した。
 そのまま平次は新一の寝顔を眺めた。
 白い顔にわずかに色づく唇。かざした指を少しずらせば、平次は簡単にそれに触れることが出来るだろう。しかし、触れれば新一は起きてしまう。
 そして、一度触れてしまえば、おそらく止めることは出来ない。
 指先では物足らず、唇で。
 簡単に理性は崩壊して、雪崩を打つ激情のまま、新一を求めてしまうに違いない。彼の意志など、無視したまま。
 平次は暗く笑った。

 顔の上から手をどけようとしたとき、新一の目が開いた。手はそのまま新一に捕まる。急に腕を引かれたせいでバランスを崩した平次は、かろうじて空いた腕を布団に付き、彼の上に落ちることを免れた。
 眠気の欠片も見えない新一の瞳に、平次は彼が起きていたことを知る。
「狸寝入りしとったんかい。どうりで生きとるか死んどるか、わからんような寝方やったんやな」
 動揺を押さえ込んで平次は笑って見せた。
 しかし、新一の表情は動かない。
「工藤も寝られんのやったら、少し飲むか?」
 確か備え付けの冷蔵庫の中にビールが入っていたはずだ。
 それにも答えず、新一の指に力が入って、平次の手は彼の首筋に無理矢理押し当てられた。思わず平次の身体が強張る。

「生きてるだろ」
 新一が平次の指で頸動脈を探らせる。確かに指先に鼓動が伝わってくる。それよりも早い自分の鼓動が、新一に伝わることを平次はおそれた。
「しゃべっとる時点で生きとるやん」
 笑いで誤魔化して、平次は自分の腕を引こうとした。しかし、新一が腕を放してくれない。このままでいてはいけないと、平次の理性が警鐘を鳴らす。
「工藤。いいかげんに放せや」
 平次の抗議はまたも無視され、代わりに新一の腕が平次の首に伸びた。指先が正確に頸動脈に当てられる。
「おまえも生きてる」
「当然や」

「服部」
 ささやいた新一の手が、平次の首筋へと滑った。
 平次の呼吸が一瞬止まる。
 ふたりの視線が絡まった。
 新一の瞳の奥には、まぎれもなく熱があった。
 平次だけを見つめ、平次だけを求める熱が。
「工藤、おまえ」
 平次の声がかすれた。

 これまでの彼は、親友としての顔しか自分に見せてはくれなかった。そこに、恋情の一片もなかったはすだ。
『想いを遂げるか、身の破滅か』
 蛍を見つめ呟いた新一の真意を平次は覚った。
 そして今、新一は蛍のように平次を誘っている。
 切ない色だけ視線にのせて、無言のまま。

 平次は夏布団をはねのけ、新一に覆い被さった。
 浴衣越し、触れた肌が熱い。
 平次は新一の頬に指を沿わせた。
「いいのか?」
 訊いたのは新一だった。
「俺は、工藤に惚れとるから」
 瞳を覗き込んで平次がささやくと、新一が大きく目を見張る。そして、やわらかな笑みを浮かべた。
「俺も」
 新一の両腕が平次の背中に回され、言葉の続きになった。
 自由になった手で、平次は新一の帯を解く。
 はだけた白い肌にめまいを覚えた。
「抑え、利かんかもしれへん」
「そんなもん、いらねぇよ」
 新一が平次の唇を自分の唇で塞いだ。

 ――鳴かぬ蛍が身を焦がす。


 

都々逸に乗っ取られてしまったので、離れに置きました。

ベースになった和歌

手もふれで 月日へにける 白真弓 おきふし夜は いこそ寝られね

古今和歌集 巻第十二 恋歌二 605 紀貫之

あなたに手も触れないまま、月日が経ってしまったことを思って、起きたり伏したりして悩む夜は、眠ることなどできはしない。

  

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