片恋夜話5

 

大空の月のひかりしきよければ

影みし水ぞまづこほりける

 



 雲ひとつない空に満月が出ている。強い北風に磨かれた月の光が、冴え冴えと夜道を照らしていた。
 ようやくたどり着いた自宅の前で、新一は立ち止まった。閉ざされた門扉越しに見える玄関に灯りはついていない。同居人の平次は今夜もまだ帰っていないようだ。氷のように冷え切った鉄の門を押し開けて、新一は敷地の中に入った。疲れた身体を引きずるように暗い玄関に向かう。


 夕方、新一が講義を終えて帰宅した直後、警察から電話が入った。呼び出しにひとりで応じた新一は、時限爆弾のしかけられた場所を示す暗号文の解読を依頼された。容疑者はすでに確保されていたものの、彼は厳しい取り調べをのらりくらりとかわし、刑事たちを苛立たせていた。その爆破予告時間は深夜零時。


 新一は足を止めて空を見上げた。
 満月が中天にある。ちょうど日付が変わった頃合いだろうか。容疑者の計画では、都心の総合病院が火の海になっている時刻。
 新一は小さく笑った。
 問題の爆弾は解体されている。その報告を聞いて、新一は捜査本部をあとにしたのだ。

 空は昼間の雨が嘘のように晴れているが、庭の草木はまだ露を含んで月明かりをはじいている。氷の粒が光るような景色に誘われて、新一は庭に入った。芝を踏みしだき中央に立って空を仰ぐと、満月が世界に君臨しているように見える。
 新一は手袋を忘れた手に息を吹きかけた。だがその白いぬくもりもあっという間に風が散らしてしまう。それでも新一は、家に入る気にはなれなかった。
 誰もいない家は、寒い。
 真っ暗な部屋に明かりをともし、暖房を入れても暖かくなるのは身体だけだ。
 ひとりでは、心は温まらない。


 昼間、図書館からの帰り道で新一は平次とすれ違った。友人の傘に入れてもらい雨をしのいでいた新一を、硬い表情で見ていた彼。取り繕うように見せてくれた笑みも、ぎこちないものだった。
 雄弁な平次の、さらに雄弁な目は、素直に彼の感情を表す。最近逸らされることが多い視線が、雨の中で絡んだ。
 そこに新一は苛立ちを見た。見たと思った。


 新一は空を仰いだまま目を閉じた。月明かりが瞼の裏にまで射し込んでくる。しんしんと身体の奥底まで月の光が染み渡るような気がした。
 目を閉じて思い出すのは、平次の笑顔。いつでもまっすぐに向けられていた視線。
 両方とも今では見ることが出来なくなった。
 新一は時折、逸らされる平次の視線を固定して、瞳を覗き込んでやりたい衝動に襲われることがある。だが、もしその中に拒絶や嫌悪があったとしたら、きっと立ち直れないほどの衝撃を受ける。それが恐ろしくて、新一は彼の中に踏み込めない。

 新一は目を開き、大きく息を吸い込んだ。肺の奥まで冷えたように震えが背筋を伝い落ち、足下から冷気がはい上がる。マフラーを巻いていても首筋に北風が忍び込む。口元に当てた指先はすでにかじかんで感覚が怪しい。
 冬の月明かりには、照らすものすべてを凍らせるような冷たさがある。
 昼間の雨の名残も、新一の身体も、凍ってしまいそうだ。
 新一は指先を唇に押し当てた。
 そこはまだ温かい。
 平次に触れた、唇。
 感触はまだ残っている。憎らしいほど鮮やかに。
 新一は寂しく笑ってその唇をかんだ。
 いっそこのまま冷たい月の光で、彼への想いを凍らせることが出来ればいい。
 報われることもなく、忘れることも出来ず、抱え続けているのはあまりにも苦しいから、凍らせて胸の奥底に封印してしまいたい。
 庭の中央でただひとり、新一は月に願った。





 門扉の開く音がした。
 新一がゆっくりと首を巡らすと、平次が帰ってきたところだった。彼は寒そうに首をすくめ、玄関に向って歩いていく。
 声もかけずその姿を眺めていた新一に、平次が気づいて声を上げた。
「工藤?」
 駆け寄ってくる平次に新一の鼓動が逸る。
「なにしとるんや、こない寒いとこで」
 平次が新一を見つめて尋ねた。その視線に新一の心が騒ぐ。
「なぁ、家入ろうや。めちゃめちゃ寒いやん。外にずっとおったら凍ってまいそうや。さっきかて、工藤が凍っとるように見えたんやで」
 コートの色、白やからよけいになぁ。

 平次が笑った。
 目を見たまま屈託ない笑みを浮かべてくれたのはいつ以来だろうか。
 信じられないものを見るように、新一は平次の顔を見つめた。それでも彼は目を逸らさない。
「なにほうけとる? ほんまに凍ってしもたか」
「凍るかよ」
 やっとそれだけ言い返して、新一は平次から視線を外した。そのまま月を見やる。
「月がきれいだったんで、ちょっと眺めていたんだよ」
「たしかにきれいやな。月見をするにはちょお寒すぎるけど」
 平次が横に並び、同じように空を見上げる。
「真冬やからかもしれへんけど、月の光ゆうんは冷たいな」
 明るく笑う平次の隣で、新一は手を握りしめていた。

 以前の空気を感じた。彼がよそよそしくなる前の、楽しかった時間を思い出させる空気。
 彼の様子が違う。そのことに戸惑いよりも嬉しさを覚え、新一は冗談めかして平次に尋ねた。
「見ていると凍りそうか?」
「せやな、そんな感じするわ。けど、お日さん出るまでやな。凍ってもうても、日に当たったら溶けるしな」
 新一は平次の横顔を見た。
 冷たい月に照らされていても、彼の笑みは凍らない。
「……そうだな」
 前にもまして心臓が騒ぐ。
 凍らせるつもりだった想いが、熱を帯びて胸の奥でうずく。

 そうか、と新一は思った。
「太陽が出れば、溶けるよな」
 自分にとっての太陽は、彼なのだ。きっと。
 だから、彼がそばにいる限り、自分の想いが凍ることはない。凍らせることも出来ない。
「当然や。さ、なか入ろうや。はよ風呂入ってぬくもった方がええで。風邪ひいてまう」
 新一は軽く頷いて、先に立ち玄関に向かった。足音がついてくるのが聞こえるだけで、自分の足取りが軽くなるのがわかる。

「工藤。明日、久しぶりにカレー作らん? 俺、材料買って帰るし」
 新一は足を止めて振り返った。見開いた目に映るのは、笑顔の彼。
「そない驚かんでもええやん。もしかして、なんか予定でもあったん?」
「いつも予定があるのはおまえの方だろ」
 素直でない新一の返答に平次が苦笑する。
「これまではな。けど、もうやめた」
「なにを?」
「飲み歩くのを。バイトがある日はしゃあないけど、他の日ははよ帰ってこようと思て」
 目を逸らさずに平次が言う。
 その瞳の奥に熱を見たような気がして、新一は思わず顔を背けた。彼への想いがまた温度を上げる。

「どんな心境の変化だ? それとも肝臓でも悪くしたのか?」
「あほ。俺は健康やで。ちょお思うところがあってやな」
 力強い声で答える平次を置いて、新一は歩き出した。
「そうかよ」
 また、彼との時間が戻ってくる。あの楽しい時間が。
 そう思うだけで浮き立つ心を、新一はもてあましそうになる。
「じゃ、食料の買い出しにつきあえよ。最近ひとり分しか買っていないからな」
「酒も買おうな」
 飲もうて、約束したし。
 背中にかかった声に、新一は思わず口元に手をやった。浮かんだ笑みをつい抑える。叶うことはないと思っていた約束を、彼は覚えていてくれた。
「そうだな」
 振り向かず頷いて、新一は指先で唇に触れた。先ほどよりも熱いそこに苦笑する。

 月の光に凍った夜、新一の心に灯がともった。


 

大空の月のひかりしきよければ 影みし水ぞまづこほりける

古今和歌集 巻第六 冬歌 316 読み人知らず

冬の空に懸かる月の光が冷たく澄み、清らかなので、月影を映していた水が他のものに先駆けて凍ってしまった。

  

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