片恋夜話7

 

したにのみ恋ふればくるし 玉のをの

たえてみだれん 人なとがめそ

 


 滑らないように気をつけて歩いていた雪道が、急に明るく輝いた。新一が空を見上げると、今日さんざん雪を降らした雲が切れ、月明かりが差していた。上空は風が強いらしく、満月が雲間を泳いでいるように見える。
「晴れてまいそうやなぁ」
 黙々と隣を歩いていた平次が、嫌そうな声を出した。
「このまま夜中に晴れてもうたら、朝大変や。雪、かちんこちんになるで」
 平次が足下の雪を蹴飛ばす。
 大通りの車道はさすがに積もる暇がなかったようだが、ひとつ脇に入った道は雪に埋もれていた。ところどころ家の前だけ除雪されている。子供が遊んだのだろう、雪だるまもあった。

 朝から降り出した雪は、夜になってからやんだ。だが、雪に弱い都心の交通網は昼過ぎから麻痺している。電車など時刻表の意味がない状態だ。ふたりも先ほどまで電車に閉じこめられていたのだ。そしてようやく普段の三倍以上の時間をかけての帰宅となった。
「明日が休日でよかったな」
 おそらく今夜中に線路の除雪は済んで、電車は朝から平常通りの運転になるだろう。だが、道路はそうはいかない。平日なら混乱間違いなしだ。
「どうせなら今日の夜中に降って欲しかったわ」
 残念そうな平次に新一が理由を尋ねると、彼はまじめな顔で言い切った。
「凍った雪やと、遊びにくいやんか」
 せめて今夜晴れんかったら凍らんのに。
 あきれる新一にかまわず彼は「雪だるまに雪合戦」と続ける。

「まさか、かまくらまで作ろうって言うんじゃないだろうな」
 機先を制したつもりの新一に、平次が大きく目を見開いた。
「そや! 大事なもんを忘れとった。かまくらも作ろうな」
 満面の笑みが返ってきて、新一は脱力した。その拍子に足が滑る。バランスを崩し掛けた新一の腕を平次が支えた。
「なにしとんねん。危ないやっちゃなぁ」
「おまえがガキくさいこと言っているからだ」
「俺のせいかい」
「そうだよ」
 憎まれ口を叩きながら新一は体勢を整えた。
 声を上げて笑う平次を睨んで、新一は先に立って歩き出した。後ろから「急ぐとまた転けるで」という平次の声が追いかけてくる。それを無視して角を曲がると、やっと自宅が見えてきた。



 平次の靴音がついてくる。
 雪が雑音を吸い込んでいるのか、今夜はいつになく静かだ。ふたりの足音や息づかいだけが妙に響く。
 平次の気配に耳を澄ませ、新一はそっと息を吐いた。
 夜遊びに飽いたといって、平次は一緒に暮らし始めた頃のように早く家に帰ってくるようになった。食事はもちろん、時間が合えば登下校もともにし、休日もふたりで過ごす。以前よりも一緒にいる時間が長くなったように感じるほどだ。
 ただ、昔と違うのは、彼の視線だ。
 熱を感じる。かすかだが、まぎれもない熱を。
 はじめてそれに気づいた頃、彼は自分を避けていた。だから、彼への想いを抱えた自分の目が見せる幻と思いこんでいた。そう思って切り捨てようとした。
 だが、今は違う。
 熱は確かに彼の目の中にある。



 工藤邸の大きな門扉のレールの上にも雪が積もり、門はふたりがかりで押してようやく通れるだけの隙間が空いた。
「明日の朝は雪かきしないとな」
 門から玄関に続く道にはもちろん誰の足跡もない。
 すねまで雪に埋もれながら、新一は新雪を踏みしめて玄関に向かった。
「雪かきして、雪だるま作ろうな」
 相変わらず平次は遊ぶことにこだわっている。
 苦笑していた新一の耳を平次の歓声が打った。
「うわぁ、めっちゃきれいや」
 腕を引かれて平次の指さす方を見ると、芝の敷かれた広い庭一面が雪に覆われている。なんの跡もないまっさらな雪だ。そこへ月の光が差し、見慣れた庭とは思えない景色になっている。

「なぁ、入ってもええ?」
 子供のような笑顔で平次が聞く。
「いいけど、ほんとガキだなおまえ」
 やかまし、と言いながらも平次が嬉しそうに庭に入っていく。歩きにくげなダウンジャケットの背中を見ていて、新一はいたずら心を誘われた。こっそり平次の後ろに近づいて、その背中を思いっきり突き飛ばす。
 叫び声を上げて、平次が頭から雪に突っ込む。平次の形の穴が雪に空いた。
 全身雪まみれになった彼を見て、新一は声を殺して大笑いした。
「工藤……。なにさらす!」
「でかい声出すなよ。夜中なんだからな」
 恨みがましい平次の視線を新一は笑ってかわした。

「ほう、そないゆうか」
 平次が掬った雪を新一の顔めがけて投げつけてくる。それに気を取られた新一は、平次の足払いをまともに食らって雪の上に倒れ込んだ。
「てめぇ……」
「おかえしや。おかえし」
 笑いながら平次がさらに新一に雪を浴びせる。
「服部、やりやがったな」
 新一が両腕に雪を抱えると、逃げ腰になりながら平次も雪を丸める。
「先にやったんは工藤やんか」
「うるせぇ!」
「夜中やさかい、静かにせいゆうたんも工藤やで」
 怒鳴り掛けた新一を平次が笑ってからかう。
 新一が彼に雪を投げつけたのと、平次の雪玉が新一の頭をかすめたのが、ほぼ同時。それが乱戦の合図となった。



 新一は庭の中央で、仰向けになって雪に埋もれていた。真っ正面に満月が見える。先ほどよりも雲の姿はない。明日は確実に晴れそうだ。
 隣には同じように埋まった平次がいる。
 現在休戦中だ。転び掛けた平次が新一のコートをつかんで道連れにし、絡まるようにしてふたりは雪の中に転がったのだ。そしていまに至る。
「めっちゃ楽しいわぁ」
 平次が寝ころんだまま笑っている。息切れがしているのは新一も同様だ。
「服が濡れたな。手袋なんてびしょびしょだぞ」
 駆け回ったおかげで身体は暖かいが、指先は濡れて冷たい。使い物にならなくなった手袋を新一は外した。
「せやな。早いとこ家に入って暖まろ。風邪引いたら明日遊べんようになる」
 平次が身を起こしながら言う。
「まだ遊ぶ気かよ」
 新一もつられて起きあがった。見ると平次のダウンジャケットのフードに雪がたまっている。
「ちょっと待て」
 立ち上がろうとする平次を制して、新一は彼のフードから雪をはたき落とした。ついでに髪に乗っている雪も落としてやる。
「見事に雪まみれだな」
「工藤かて」
 雪の上に座ったままの平次の腕が伸びて、新一のコートに残る雪を払う。

 彼の肩の雪を払っていた新一は、平次の視線に気づいた。
 何気なく目をやった新一は彼に視線を絡め取られた。
 いつになくふたりの距離が近い。
 間近から向けられた強い眼差しには、見間違えようのない熱がある。
 新一は呼吸を止めて平次の目に見入った。
 射抜かれるような視線に意識のすべてを持っていかれる。
 くどう。
 声なく平次が新一を呼ぶ。
 わずかに動いた唇に、新一は指を伸ばした。
 忘れようとしていた感触が、まざまざとよみがえる。
 指先が唇に届いた。
 平次が新一を強く抱き寄せる。その腕の力に彼の想いを覚り、新一は負けないように抱きしめ返した。

 平次が腕をゆるめ、新一の顔を覗き込んできた。
 至近距離から見る平次の顔は怖いほど真剣で、それが新一をたまらなく嬉しくさせる。
 平次の本心が、新一の目の前にさらされている。
 なにひとつ隠すことなく。
 新一は笑んだ。
 誘うように目を閉じると、唇が触れ合う。
 思い出の中のそれよりも甘いキスに、新一は酔った。
 確かめるようなキスにもの足らず、新一は平次の頭を抱いて求めた。すぐさま応じた彼の背に、強く爪を立てる。
 指先がダウンジャケットの上を滑るのがもどかしい。
 もっと触れたい。
 彼の肌の熱さが知りたい。
 平次の手もまた何度も新一の髪を撫で、背中をたどる。求められている。同じ思いをその仕草に感じて、新一の身体はさらに熱を帯びた。

 長いキスのあと、頬をすり寄せるようにして平次が言った。
「好きや」
 絞り出すようなかすれた声で、彼は何度も繰り返す。抱きしめる腕の力は強く、新一が逃げ出してしまうのおそれているようだった。
 新一は平次の背を抱き、顔を上げた。
 雲からもれた月の光がふたりを照らす。
 月がじわりと滲んで見えて、新一はかたく目を閉じた。
「そういうことは、するまえに言うもんだろ」
 ようやく返した答えに、平次の腕がゆるんだ。
 新一は彼の顔を覗き込むと、視線を合わせてささやいた。
「好きだ。俺も、おまえのことが好きだ」
 大きく目を見開いた平次の表情が心底嬉しそうな笑顔に変わる。眩しさに目を細めて笑んだ新一を、彼は雪の上に押し倒した。

「工藤」
 壊れ物にでも触れるように、平次の冷たい指先が新一の頬をたどり、唇を撫でる。
「信じられへん」
「信じろ。俺は信じる」
 平次の想いを。
 眼差しで、行為で、見せつけ感じさせてくれた彼の想いを、疑うことなど出来ない。
 お互い名の売れた探偵。しかも男同士の恋愛沙汰。もし周りに知られるようなことがあれば、親をも巻き込むスキャンダルになるかも知れない。
 だが、それでも彼は手放せない。
 新一は平次の頬を両手で包んだ。かじかんだ指に彼の肌が熱い。そのまま引き寄せれば、望み通りキスが降りてくる。

 キスを交わすたび、身体の奥にもどかしい熱がたまっていく。
「家、入ろうぜ」
 ベッドの方がいい。
 新一が吐息を絡めてささやけば、平次が喉を鳴らすように笑った。
 先に立ち上がった平次が新一に腕を伸ばす。差し出された手を握ったとたん、新一の身体は勢いよく雪の中から引き出された。そして余った勢いのまま、平次の腕の中に収まった。
「ええんやな」
「聞くまでもねぇ」
 たかぶった心と身体は、行き着くところまで行かなければ収まらない。
 唇の端を引き上げて笑う新一に、平次が目を細めた。その瞳の奥の欲情が、新一の熱を煽る。
 周りから冷たい目で見られる関係ならば、ふたりきりでいる時ぐらい彼におぼれてみるのも良いだろう。
「好きだぜ、服部」
 自分からキスを仕掛けた新一は、今夜知ることになるだろう平次の肌の熱さを思った。


 

したにのみ恋ふればくるし 玉のをのたえてみだれん 人なとがめそ

古今和歌集 巻第十三 恋歌三 667 紀友則

人に知られないように心の中でばかり恋しているのは苦しいので、貫き止める緒が切れて玉が乱れるように心を乱して恋しがろうか。世間になんと言われようとも。

  

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