早春
ふと気配を感じて、新一は目を覚ました。 ぼんやりと目を開く。 灯りの消えている見慣れた自分の部屋。 暖かで寝心地のいいベッド。 いつもと同じ景色だが、今夜に限って足りないものがある。 足りないのは、恋人の姿。 一緒に眠ったはずの平次がいない。 彼が寝ていた場所に手を伸ばしてみると、まだぬくもりが残っていた。 平次がベッドを抜け出した気配で、自分は目覚めたのかもしれないと新一は思った。 ちらっと見たベッドサイドの時計は、まだ夜明け前の時刻を指していた。あと一時間は眠っていられる。早春の朝方ともなれば、なおさら暖かな布団から抜け出す気にはなれない。 だが、平次はいない。 トイレか、まさか早朝に剣道の練習でもするのだろうか。 平次が工藤邸に泊まるのは初めてではない。だが、大学進学にともない春から一緒に暮らす準備として、彼が剣道具まで携えて上京してきたのは初めてだ。 背後でかすかに衣擦れの音がした。 新一は布団にくるまったまま、振り返った。 そして、息をのんだ。 東向きに大きく取られた窓。 掛かっていたカーテンは脇に寄せられ、空が見える。 その明け初める深い紫色を切り取るように、平次のシルエットがあった。 冷え切った気温など感じさせない、背筋の伸びたすっきりとした立ち姿が、仄明るく縁取られている。 冬の凛とした空気がしっくりと平次に馴染んでいた。 生命力にあふれた夏の日差しこそが似合うと思っていた恋人の、意外な一面がそこにあった。 平次が振り返った。 「起こしてもうた?」 彼が笑うと部屋の空気が一気に和む。 新一はほんの少し、それまでの静寂が消えたことを惜しんだ。 「起きたんなら、来てみ。めっちゃきれいやで」 平次が窓辺で新一を手招く。彼の吐く息が白く見えた。 「寒いだろ」 「毛布かぶって来いや。寒いわけがわかるで」 なおも誘われて、新一は渋々暖かいベッドを抜け出した。冬用のスリッパ自体が冷え切って、足先から体温が奪われていく。平次の薦めの通り、毛布を身体に巻き付けて窓辺に寄った。 「うわ」 窓の外を見て、新一は思わず声を上げた。 横では平次が満足そうに「な?」と笑っている。 外は一面の雪だった。 庭にも、隣家の屋根にも、見渡す限りの雪景色。 その雪が白く輝いているのは、窓からは見えない有明の月が残っているからか。 新一は衝動的に窓を開けた。 身を乗り出すと凍るような外気が頬をなでる。 「すげぇ」 つぶやきは真っ白だった。 昨日、帰宅したときは確かに雨だった。夜半、雪に変わるだろうという天気予報も聞いていた。だが、正直ここまで積もるとは思っていなかった。これは朝から交通機関が混乱すること間違いなしだ。 すみれ色になりかけている空には、一片の雲もない。 凍えるように明けの明星が輝いている。 先ほど平次を仄明るく照らしていたものは、雪明かりだったのだ。 「めっちゃ積もったな」 いいながら平次が新一のかぶる毛布の中に入ってこようとする。 「こら雪だるま作らんとあかんな」 「その前に玄関から門までの雪かきだろうが。その雪を使ってだるまでも何でも好きに作れよ」 毛布の中に迎え入れた平次のスエットは冷えていた。 「なんだよ。冷たくなっているじゃねぇか」 新一は窓を閉めた。 それでも寒さがましになったとは思えない。 「なんでこんなに早く起き出したんだよ」 「ちょお早めに目ぇ覚めてな。あんまり外が静かやったんで、予報通り雪降ったんちゃうかな、と思うて覗いてみたんや」 大当たりやった、と笑いながら平次が新一に抱きついてくる。 着ているものこそ冷えていたが、平次の身体はいつものように温かだった。彼自身はやはり、寒さ知らずの夏の男なのかもしれない。 「工藤こそ寒くなったんちゃうか」 確かに身体は冷えてしまった。おかげですっかり目も覚めた。 「ベッドに戻ってあったまろか。ふたりで」 耳朶をはむようにささやかれて、新一は平次の足を蹴飛ばした。 「もうちょっとこの景色を見させろ」 月に輝く雪と曙の空。 滅多に見られぬ刹那の景色。 じゃれている間にも、夜は明けていく。 ゆっくりゆっくり空が青みを増している。 明星もその輝きを鈍らせて、空に埋もれていくようだ。 後ろから平次のぬくもりに抱きしめられていると、寒さなど感じない。日溜まりの中にいるようだ。心の奥から温かくなってくる。 ふたりは息を殺して、移りゆく空を眺めていた。 金星が姿を消し、力強い光が遠くの高層ビルを照らし出す。 月もおそらく青空の中、透き通るような姿になっているだろう。 見る間に昇ってきた太陽が、雪をまぶしいほど白く輝かせる。 新一は目を細めて朝日を迎えた。 「おはようさん。工藤」 振り返ると太陽に負けないような笑顔があった。 「おはよう」 答えて新一は自分の太陽に口づけた。
和歌からかけ離れてしまったので、離れ行きとなりました。
元になった和歌
あさぼらけありあけの月と見るまでに 吉野のさとにふれる白雪
古今和歌集 巻第六 冬歌 332 坂上是則
夜明けの有明の月の光かと思うほどに、吉野の里に降っている白雪。
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