片恋夜話1

 

命にも まさりて惜しくあるものは

見はてぬ夢の さむるなりけり

 



 玄関のチャイムの音が、リビングの静寂を破った。
 ソファに寝ころんで本を読んでいた新一は、鬱陶しげに顔を上げた。見やった時計はすでに日付を変えている。
「合コンで午前様かよ」
 再びチャイムが鳴った。
 新一はしぶしぶソファから起きあがり、玄関に向かった。

 不機嫌な顔を隠そうともせず、新一は扉を開けた。初秋の冷たい夜風が新一の肌を冷やす。目の前には同居人だけではなく、酔いつぶれた彼を抱える友人たちもいた。
「悪いな、工藤。なんか服部のやつ、悪酔いしたらしくてさ」
「そうなんだよ。ピッチが早すぎると思っていたらさ、つぶれちゃって」
 口々に弁明しながら、平次を抱えた彼らが玄関の中に入ってくる。
「酒に強いこいつがつぶれたのを初めて見たぞ」
 平次が酔ったところなど、新一は見たことがなかった。一緒に飲んでいても先に酔うのはいつも自分。ウワバミかと思っていたのに、やはり平次も人間だったようだ。
「俺たちも驚いた。いつも介抱する側なのに、今日に限ってさ。なんかあったみたいで、やけ酒って感じだった。女を侍らせたりもしてたし。とにかく変だったぜ」
「限界だとか何とか言っているのを聞いたけど、俺」
「なんだ、それは。まぁ、とにかく中まで連れて入ってくれ。玄関に置かれても、俺ひとりじゃ運べないからさ」
 意識があるのか、ないのか、平次は口の中で何か言っている。聞き取れない言葉に耳を貸さず、新一は彼の靴を脱がした。



 ソファに平次を寝かせて、友人たちは帰っていった。
 新一は枕元に立って平次の寝顔を眺めた。
 健康的に日に焼けた肌が、珍しく赤く染まっている。
「限界ってなんだよ」
 まさか一緒に暮らしていくことがだろうか、と新一は思った。
 最近平次の帰宅時間が遅くなった。必要ないと言っていたアルバイトもはじめ、ふたりで過ごす時間が減ってきている。それだけではない。以前より頻繁に新一を置いて友人たちと遊びに行ったり、飲みに行ったりして家に寄りつかなくなった。新一には彼が意識的に自分を避けているような気がしてならない。
 それが新一にはたまらなく寂しい。

「俺と暮らしたくないんなら、止めないから出て行けよ」
 平次が進学のため上京すると決まったとき、同居を持ちかけたのは新一だ。
 彼はそれを喜んで受け入れたというのに、今ではそれを後悔しているのだろうか。
 寝顔を覗き込んでも、そこに答えがあるわけではない。
 代わりに新一は平次の唇の端が汚れているのを見つけた。赤っぽいものが付いている。ソースか何かだろうと思い、新一は拭いてやろうとテーブルの上のティッシュに手を伸ばした。ソファの脇に膝をついて、汚れを拭ってやる。ティッシュに移ったものを見て、新一は愕然とした。

「口紅、か」
 力無い声が新一の唇からこぼれた。
 唇に、口紅が付いていた。忘年会の余興でもあるまいし、合コンで女装などはするまい。
 とすれば、それの意味するものは明白だ。
 女と口づけをかわす平次の姿が、新一の脳裏を過ぎる。酒の上での戯れだ、と切り捨てたくても出来ない。
 息苦しくなって、新一は手にしたティッシュを握りしめた。それでも、こみ上げてくる苦いものを抑えることは出来なかった。
「好みの女だったのか」
 喉に絡まり、声がかすれる。

 親友に女が出来る。
 いつかそういう日が来るということを、新一は覚悟していた。彼と一緒にいて楽しいと思う人間が、自分以外にも大勢いることも知っていた。親友、相棒という座についているからといって、彼を独り占めし続けることなどはじめから無理だったのだ。
 自分の想いが報われることなどないことは、抱え始めたときからわかっていたはずなのに。
「やっぱり夢だったんだな」
 時折見せるおまえの眼差しに熱がこもっているような気がしたのは。
 いくら平次が眠っていても、さすがに声には出せなかった。
 もしかしたら、という淡い期待はやはり持たない方がいい。

 新一は平次の顔を覗き込んだ。唇だけが妙に目に付く。
 一度でいいから触れたいと願った、唇。
 もう誰かに触れているだろうとは思っていたが、こうして見せつけられると苦しい。嫉妬と羨望があふれ出してきて、止まらなくなる。
 新一はソファの背に手をついた。そのまま平次に顔を寄せる。
「悪いな」
 呟いて、新一は平次の唇にキスを落とした。
 最初で最後の口づけを形見として胸にしまって、平次のことを諦めようと新一は心に決めた。
 どれほど自分が苦しかろうと、彼にはそれが一番だ。
 名残惜しく平次の髪を軽く撫で、新一は立ち上がった。ひとりでは彼を寝室まで運べない。このままリビングに寝かせるのなら、何か掛ける物が必要になる。
 新一は音を立てないようにリビングの扉を閉め、平次の寝室に向かった。



 新一が戻ってみると、平次がソファに横たわったまま目を開いていた。その目に酔いの気配はない。
 新一はわずかに緊張した。先ほどの行為を彼に気づかれてはいないだろうか。
「工藤。さっきここにおった?」
 尋ねてくる平次の目に夢と割り切ったはずの熱があるように思えて、新一は彼から少し視線をずらした。
「ずっとここにいたら、これを持っているわけないだろ」
 腕に抱えた彼の毛布を見せつける。
 せやな、と小さく呟いて、平次が自分の腕で顔を覆った。彼の視線が消えて、新一は肩からそっと力を抜く。
「起きたのなら部屋に行け。風呂は明日の朝にしろよ。それにしてもかなり飲んだんだな」
 あきれた風を装って、いつものように新一は平次に接した。
 口紅のことも、自分の行為のことも、何一つ彼に知られたくない。

「ああ、ちょお飲み過ぎたわ。つぶれたんは久しぶりや」
 見えている口元が苦笑を浮かべる。
「俺、今日はここで寝るわ」
「おい」
「さっき、めっちゃいい夢見てん。このままここで寝たら、続きが見れるかもしれへんやろ」
「そんなにいい夢だったのか」
 続きにこだわるほどの夢。
 新一は毛布を平次の上に掛けてやりながら聞いた。
「願いの叶う夢。ちゅうか、夢の叶う夢やな」
 平次が喉の奥で笑う。嗚咽にも似た笑い声だった。
「夢の中で夢を叶えてどうする。目が覚めたらお終いだろ」
 現実に叶うことのない夢を、夢に見るのは切ないだけだ。
 先ほど自分の夢を切り捨てた新一はそう思う。

「そうやねんけど、な」
 ため息をつく唇が新一の目を惹く。
 先ほど触れたそれからたまらず目をそらして、新一は彼のそばを離れた。
「おやすみ、風邪引くなよ」
 背中越しに声を掛け、リビングを出る。
 おやすみ、と返した平次の目がその姿を追っていたのに、新一が気づくことはなかった。


 

命にも まさりて惜しくあるものは 見はてぬ夢の さむるなりけり

古今和歌集 巻第十二 恋歌二 609 壬生忠岑

命以上に惜しいものは、最後まで見ることができなかった夢が覚めることだ。

  

戻る