満月が中天高く懸かっている。
昼間降った雨は上がり、空には一片の雲もない。強い北風が磨いた夜空にきらめく星座を月明かりがかすませている。
静まりかえった住宅街を平次は首をすくめるようにして歩いていた。マフラーを巻いていても、冷たい風が首筋に忍び込んでくる。ポケットに突っ込んだままの方はまだしも傘を持っている手など、すでにかじかんで感覚がない。平次は手袋を忘れたことを改めて悔やんだ。
水たまりに映る月がうつむく平次の目を射る。
昼間の雨を思い出して、平次はため息をついた。
***
天気予報通り、昼前に降り出した雨はまだやむ気配がない。
空いた時間でレポートを作成するため、平次は傘を差して友人たちと図書館へ向かっていた。大学の他の棟と離れて建てられている図書館には、どうしても濡れていかなければならない。
平次が強い雨足に深く差していた傘を上げて見ると、図書館の方から新一が歩いてきていた。友人たちに囲まれて談笑しているのが遠目からでもわかる。
平次はその姿を息を飲んで見つめた。
自分の傘を持ってくるのを忘れたのだろうか、新一は友人の傘に入れてもらっていた。鞄を濡れないように胸の前に抱え、彼は平次の知らない男と寄り添うように歩いている。
平次がよく見るようになった寂しげな表情はそこになく、新一は楽しげに笑っている。なにを話しているのか、聞こえないことが平次を苛立たせた。
駆け寄りたくなるのを抑え、平次は新一を見つめたまま歩いた。
二つのグループの距離は否応なく近づいていく。
平次の強い視線に気づいたのか、新一が平次を見た。
ふたりの視線が絡む。
一瞬驚いたように目を見開いた新一が、片頬を歪めるようにしてにっと笑った。親しい相手にしか見せない笑みを見せられて、平次もかろうじて笑みを返した。だが、おそらく目は笑っていなかったに違いない。
ふたり以外知り合いのいないグループは、立ち止まることなくすれ違い、離れていく。
小さくなる新一の声を背中で聞きながら、平次は奥歯をかみしめた。
身のうちに飼う獣が暴れ回っている。
誰にも渡したくないと叫んでいる。
今からでも追いかけて、見知らぬ男の傘の中から新一を奪いたい。
彼の隣を歩き、笑わせるのは自分でありたい。
願い欲する感情と、とどめる理性が平次の中でせめぎ合う。
思わずついた重いため息に、友人がどうしたと尋ねてくる。
平次はそれになんでもないと首だけ振って、ただひたすら図書館へ向かった。
***
雨の中見た光景が平次の頭を離れない。
最近見ることが出来なくなっていた楽しげな新一の姿を、目の当たりにした衝撃は大きかった。その隣に自分がいなかったことがなおさら平次を追いつめる。
隣にいたい。
だが、新一を前にすると、触れてしまいたいと平次の心が騒ぐ。
騒ぐ心を映した目を覗き込まれれば、自分の想いなど簡単に見抜かれてしまうだろう。
だから、彼の目を避ける。
避けつづけて、彼との時間を減らし、平次は自縛の迷路に落ち込んだ。思考はいつも同じ道をたどり、堂々巡りを繰り返す。
平次はまたため息をついた。白くなった息を北風が吹き散らす。
見上げた空には月が煌々と輝いていた。明らかな白い光が照らす道は、まっすぐ工藤邸へと延びている。
新一の待つ家。平次の居場所。
ともに暮らしているというのに、ふたりの距離はいま遠い。それはすべて平次のせいだ。
新一へと向かう激情をもてあまし、抑えきれない平次のせいだ。
平次はまだ遠い工藤邸を見据えた。
新一はおそらくもう眠っていることだろう。
このまま彼を避けつづけていても、おそらくいつか激情はあふれ出す。遠くない将来、新一の眠る部屋の扉を開けてしまう自分が平次には見える。それは最悪の結末へのシナリオとなる。自分は恋も親友も信頼も大事にしているなにもかもを失い、彼の軽蔑を得るのだ。
今のままの状態を続ければ、行き着く先は暗い。
ならば。
平次は冷たい空気を胸に吸い込んだ。背筋が伸び、意識が冴える。強く瞬きをすれば、景色すら色を違えて見えてくる。月の光は前にもまして冴え冴えと夜の闇を切り裂いて、平次の前に道を示す。
ならば、この状況を変えるしかない。
抑え続けることが不可能ならば、想いがあふれ出す前に、はき出してしまえばいい。
言葉にはしなくても。触れなくても。
ただ、想いを隠すことなく、彼の目にさらしてしまおう。
嫌がられるかも知れない。だが、取り返しのつかないことになるよりは、ずっとましだと平次は考えた。
逃げるのはもう終わりだ。
遠くなってしまったふたりの距離をもう一度縮める。もう一度、隣に立つ。
アルバイトは仕方がないが、無駄な飲み会には参加するのをやめよう。そして彼との時間を出来る限り作ろう。
そばにいて、話しをして、笑う顔を見たい。誰よりも多く笑顔を見たい。
平次はきっぱりと顔を上げると、工藤邸に向かって足を速めた。
彼の歩む道を月が照らしている。
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