片恋夜話2
たぎつ心を せきぞかねつる
玄関には灯りが点いていた。 だが、出迎える人影はない。おそらく家の主人はもう眠っているのだろう。 平次は口の中で「ただいま」とつぶやき、そっとため息をついた。落胆しているのか、安堵しているのか、自分自身でもわからない。 冷え込む外気を扉で閉め出し、平次は工藤邸に上がり込んだ。新一と同居を始めたのは、上京と同時。日差しの明るい春だった。時は移ろい、ふたりで眺めた桜も、今では木枯らしに葉を落としている。 深夜の静寂を乱さないように、平次は静かにリビングの扉を開けた。やはり灯りは点っているが、新一の姿はない。代わりに一枚の紙がテーブルの上で平次を待っていた。 『服部へ。 実家から荷物が届いた。部屋の前に置いてある』 残された文字が、新一の言葉を伝えてくれる。 平次は手にしたメモをじっと見つめた。 少し右上がりの角張った新一の字。出来れば直接彼から伝えてもらいたかった。顔を合わせて「荷物、届いてたぞ」と。 同じ家に住んでいるというのに、平次は最近新一の顔をゆっくり見ていない。意識的に見ないようにしている。ことさら用事を作り、朝は彼よりも早く起き外出し、夜は彼が眠る頃まで帰らない。 本当ならば、そばにいて、顔を見たい。声を聞きたい。会話を交わして、笑顔を浮かべさせたい。 それが今の平次には出来ない。 平次はメモをポケットに仕舞った。 新一がわざわざ平次のために残してくれたメモを捨てる気にはなれなかった。彼に繋がるすべてものが、愛おしくてたまらない。 部屋に戻る前に風呂に入ろうと浴室に向かった平次は、廊下に出て思わず足を止めた。目の前で洗面所の扉が開いたのだ。 明かりとともに、温かな湯気が廊下に流れ出る。石けんの香りを纏って、新一が平次の前に現れた。 「服部、帰ったのか。今日も遅かったんだな」 苦笑混じりの新一の顔は上気していて、なまめかしく平次の目に映る。紺色のパジャマが彼の白い肌を強調しているように見えた。 「工藤かて、今日は遅いやん」 逸る鼓動を笑顔で誤魔化して、平次はさりげなく新一から目をそらした。 「ちょっと湯船で寝てた」 照れ隠しか、手にしていたタオルで髪を拭きながら、新一が平次から顔を背ける。 「あほ! 下手したら、おぼれてあの世行きやで」 「言われなくても、わかってる」 タオルの影から新一が平次を睨む。つい視線を合わせた平次の心がぞわりと騒いだ。身体の奥から、凶暴な衝動がわき上がってくる。 「……髪、乾かして寝んと癖つくで」 とっさに目を伏せ、平次はどうにかそれだけを言った。 新一が濡れた髪を掻き上げ、少し首を傾げる。 「まぁ、乾くまで本でも読んでいるよ。そうだ、メモ見たか?」 見たと頷いたものの、平次はまっすぐ新一の顔を見ることが出来なかった。視界の端で彼が笑う。その中に影があったように見えたは、気のせいか。 「頼んどった冬物やろ、きっと」 「だろうな。伝票に衣料品って書いてあったし」 おやすみと言って、平次の脇を新一がすり抜けていく。鼻先をかすめる石けんの香りに引きずられるように、意識だけが彼の気配を追う。階段を上っていく足音を聞きながら、平次はしばらく廊下に立ちつくしていた。 洗面所にはいると、まだ湯気が漂っていた。 大きな鏡に映った自分の顔を見て、平次は硬く目を閉じる。 飢えたような目をした自分がいた。 抱え込んできた熱を隠しきれなくなってきている。 新一に向かう熱を覚えたのは、高校生の頃。とまどって否定して、それでも自分の心は素直に新一を求めた。 ただ彼のそばにいたいがために、東京の大学へ進学を決めた。上京するなら、と彼から同居の話を持ちかけられたときには、嬉しくて舞い上がった。 毎日彼の顔を見ることが出来るよろこびに浮かれていた春。 あれから半年足らずで、これほど狂おしくなるとは考えてもいなかった。 一生隠し通すと心に決めていたというのに、ふとした瞬間に感情があふれそうになる。先ほども、危うかった。 濡れた髪、上気した頬、向けられた曇りのない眼差しを思い返しただけで、心臓がうるさく騒ぎ出す。新一から香った石けんの匂いは、どんな媚薬よりも強烈に平次を誘った。腕が勝手に新一を絡め取りそうになり、平次はそれを必死に抑えつけていた。 このままではいつか、新一には見せたくない激情が、理性の堰を壊してしまう。彼には笑顔でいて欲しいのに、自分の想いがその笑顔を壊してしまう。 最近、自分を見る彼の眼差しが、以前とは違うような気がする。それとともに笑顔もまた、哀しげに見えることがある。 そばにいる時間を減らしたぶん、平次には新一の心のうつろう理由がわからない。知らない間に、なにかあったのだろうか。 自分の知らない誰かのせいで、透き通るような微笑を覚えたのだろうか。 平次の心がまたぞわりと騒ぐ。 ――いっそ壊してしまおうか。 たぎる激情のまま、彼を。そして、自分を。 よぎった誘惑を、平次は頭を振って追い払った。 閉じていた目を開くと、鏡の中に自分がいる。 自分が自分を見つめ返してくる。 その昏い瞳の中で鬼火のように揺れているのは、秘めているつもりの欲情か。 「限界なんかな」 ただすれ違って言葉を交わしただけで、表情に表れるようでは新一の目を欺き続けることは出来ない。 いつか必ず彼は平次の想いに気づいてしまう。 この飢えた獣のような瞳の光を、いつまで彼の前で消していられるだろう。 平次は自分を睨みつけた。 鬼火はまだ揺れている。
あしひきの山した水の 木隠(こがく)れて たぎつ心を せきぞかねつる
古今和歌集 巻第十一 恋歌一 491 読み人知らず
山のふもとを流れる水が、上流では木々に覆われ人知れず激しく流れているように、表面には出さないけれど、私の中で逆巻く想いは堰き止めることができない。
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