片恋夜話3

 

いにしへに なほ立ちかへる心かな

恋しきことに ものわすれせで

 


 手の中の琥珀色の液体を新一はぼんやりと眺めていた。グラスを揺らすと、ロックアイスが澄んだ音を立てる。
 照明の落とされたリビングは、まるでモノクロームの古い写真のように静まりかえっていた。カーテンの隙間から射し込む月の光がほの白く床を照らしている。
 新一はソファに埋まるように腰掛け、ひとり酒を飲んでいた。
 眠りにつく前の静かな飲酒は、新一だけの秘密だ。
 平次がそれを知ることはない。気づかせるつもりもない。
 ひとりの夜に限って時折、新一は酒を片手に過去へと思いを巡らせる。

 親友に対する恋心を自覚したときの戸惑いも、苦しさも、今にして思えばすべてが懐かしい。
 彼が進学のために上京してくると知ったときの喜び。
 持ちかけた同居の話を二つ返事で受け入れてくれたときの嬉しさ。
 家での食事は必ずと言っていいほどふたりで食べた。
 初めてふたりで作ったのは、カレー。市販のルウで煮込むだけの簡単なもので、失敗などするはずがなかったのに、切った材料の大きさがバラバラで、ジャガイモに芯が残っていたりした。ついでに鍋も少し焦がした。
「男の料理はこんくらい豪快やないと」
 開き直ったような平次の言葉に思わず吹きだした春。
 明るくて楽しい生活が続くことを信じて疑わなかった。

 新一は闇に目を凝らした。
 目の前に平次の面影が浮かぶ。ソファの正面の席。そこが彼の指定席だった。
 思い出の中の彼は、いつでも新一の瞳を覗き込むようにして話しかけ、笑いかけてくれる。
 いつからだろうか。彼が自分の目をまともに見なくなったのは。
 新一はグラスの酒をあおるように飲んだ。
 父の置いていった秘蔵の洋酒なのに、やけに苦い。
 楽しかった過去の出来事は、心の片隅にしまい込んである。寂しさの募る夜には、酒の力を借りてその箱を開くのだ。そして、大切な思い出を慈しむ。
 だが新一はいまだに恋を過去のものにすることが出来ていなかった。諦めようと決めたはずなのに、平次のことを振り切れないでいる。
 そばにいれば、無意識のうちに気配を追い、いないとなれば、こうして彼のことを考える。
 いっそ離れて暮らせば、忘れることが出来るのだろうか。
 自分を避ける彼もまた、この家を出ていきたいと思っているのだろうか。
 出ていくことを止めることは出来ないと新一は思っている。ただ、自分の方からそれを言い出したくないだけだ。
 どれだけ苦しくても、出来るだけそばにいたい。

 新一はため息を酒で喉の奥に流し込んだ。
 空になったグラスの中で、氷が小さく音を立てる。
 サイドボードの上の時計がそろそろ平次が帰ってくると告げている。彼の帰りは最近、日付の変わったあとが多い。
 新一は重い腰を上げると、部屋の明かりをつけた。
 過去を包み込む優しい闇は去って、まぶしいほどの白い光が現実を突きつける。
 ただひとりのリビング。そこにはすでに平次の面影はない。
 新一は空席のソファから目を背けるように、酒瓶とグラスを持ってキッチンに向かった。




 自室に戻ろうと新一が廊下に出たところで、玄関の扉が開いた。
 思わず足を止めた新一と、帰ってきた平次の目があった。
「ただいま。まだ起きとったんか、工藤」
 気まずげに笑ったあと、彼の視線はさりげなく足下へ落ちた。靴を脱ぐ平次に新一はあきれた顔を作って返した。
「おかえり。俺が遅かったんじゃなくて、おまえが早かったんだろ」
 もう少しで秘密の時間を彼に知られるところだった。

 スリッパに履き替えた平次が新一に歩み寄ってくる。わずかに緊張して固くなる身体に新一は内心苦笑した。理性よりも感情に身体は素直に反応する。
 平次のコートに外気の冷たさがまとわりついていた。
「外、冷えているんだな」
「天気ええさかい、かなり寒いで」
 すれ違う平次は冷気だけでなく、甘い香りも纏っていた。酒と香水の残り香だろうか。
「工藤、酒飲んどったんか?」
 だが、彼は彼で新一の纏う香りに気づいたらしい。
「おまえだって飲んできたんだろ? またコンパか?」
 平次がいると女の参加者が増えると新一は友人たちから聞いている。エサとわかっているだろうに平次の方も拒むことなく参加しているようだ。そのたびに曇る新一の心を彼が知ることはない。
「そうやけどな」
「だったらいいじゃねぇか。俺だって酒は嫌いじゃない」
 酒に弱い自分を気遣う彼の言葉を新一は切り捨てた。
 何かを言いたげに平次が新一を見る。しかし、絡んだ視線はすぐほどかれた。彼がまた目をそらしたのだ。

「限界は知ってるから、つぶれたりしねぇよ」
 以前はよくふたりで飲んだ。
 いつも新一が先に酔い、平次に抱えられて部屋まで連れて行かれたものだ。
 あのときの酒はうまかった。ついつい飲み過ぎてつぶれてしまうほど。
 同じ酒だというのに、今夜の酒は不味かった。ひとりで飲む酒は、やはり苦すぎる。飲んで酔うのではなく、酔うために飲むせいか。
「そういう心配はしてへんって。ただ工藤は酒を当てもなしで飲むさかいな」
「塩を肴に日本酒を飲むおまえに言われたくないぞ」
 未成年だというのに年季の入った飲み方をする平次に新一はあきれたものだ。

 また以前のようにふたりで酒を飲みたい。
 洋酒だろうが、日本酒だろうが、ビールだろうがかまわない。
 ふたりで酒を飲みながら、くだらない話で盛り上がりたい。気持ちよく酔いたい。
 この恋を忘れてしまえば、あの頃に戻れるのだろうか。だが、自分は戻ったとしても、彼の態度が戻るとは思えない。
 なにが平次を変えたか、新一にはわからない。追求して知る真実が怖くて、目を閉じる自分がそこにいる。
「今度また、ふたりで飲むか」
 するりと願いが新一の口をついて出た。
 誘いかけに平次が驚いた顔で振り向く。見開いた目にはっきりと困惑が浮かんでいるのを見て、新一は彼に背を向けた。拒絶の言葉を聞いて、平然とした顔をしていられる自信がない。
「気にするな。じゃ、おやすみ」
 言葉を探す平次を置き去りに、新一は自室に向かって階段を上った。
「おう、飲もうな。おやすみ」
 ようやく返ってきた承諾をむなしいものと感じながら、新一は平次に向かって軽く手を挙げた。


 

いにしへになほ立ちかへる心かな 恋しきことにものわすれせで

古今和歌集 巻第十四 恋歌四 734 紀貫之

戻れないとわかってはいるけれど、どうしても昔に立ち返ってしまう自分の心。恋しかったことは、物忘れもしないで。

  

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