平次は読み終えた本を閉じた。
途中巧みなミスリードに引っかかりはしたものの、登場人物たちよりも早く事件の全容が見通せた。さりげない言葉や行動に隠された伏線の見事さは、さすが工藤優作と言うべきだろう。
本を手にしたまま、平次は向かいのソファに寝そべる新一を見た。
彼もまた本を読んでいる。真剣そのものの横顔は、探偵のものだ。
部屋に響くのは、新一の繰るページの音と、窓の揺れる音。外は木枯らしが吹いている。ふたりで揃って帰宅したときも風は強かったが、夜が更けるに従ってますます強くなっているようだ。
平次はリビングの静寂を乱さないように、身動きもせず新一のことを眺めていた。
新一に対する想いを諦めきれないものとして以来、平次は開き直って彼のそばにいる。出来る限りの時間を彼とともに過ごしている。
大学構内ではもちろん別行動になるが、新一の姿を見かけたら平次は必ず大きく手を振る。気づいた彼はたいがい苦笑やあきれたような表情を見せるが、それはとても柔らかいものだ。
視線を感じて振り仰いだ校舎の窓に、新一の姿があったこともある。
自分が先に気づくのも良いが、彼の方が先に自分を見つけてくれている方がよけいに嬉しい。気に掛けられているのだと思えるからだ。
単純な自分に平次は少し笑った。
新一が本から目を上げてちらりと平次を睨んだ。
「なに見ているんだよ」
「なにて、工藤に決まっとるやん」
平次が満面の笑みで答えると、新一は本に目を戻してつまらなそうにいった。
「ばかかてめぇ」
「別にええやん。減るもんちゃうし」
「そういう問題じゃないだろ」
狭いソファの上で器用に寝返って、彼は平次に背を向ける。おかげで横顔すら見えなくなった。
新一の肩先あたりに落ち着かない気配が漂っている。
自分の視線を気にしているのだろうと、平次はこっそり笑った。
「だいたい、この間まで俺のことを避けていなかったか? おまえ」
小説の世界に戻ったはずの新一が、振り返りもせずに聞いてきた。
「避けたりなんぞ……」
「してただろ」
新一が背中で断定する。
平次は返す言葉を失って、頭を掻いた。
「それとも俺の気のせいか?」
「ちょお遊びたい時期やってん。けど、もう飽きた。工藤とおるんがやっぱり一番楽しいわ」
「そうかよ」
投げやりな返事が返ってきたが、平次は気にもとめなかった。
本当に自分といるのが嫌なら、彼は行動に表す。おそらく率直に一緒には暮らせないと告げるだろう。告げないまでも、鬱陶しそうな表情ぐらい見せるだろう。
それどころか、平次には新一が明るくなったように感じていた。笑顔も増えたし、気になっていた寂しげな影も消えたように思う。
「飽きるで思い出したけど、美人は三日で飽きるゆうやん。あれは嘘やな」
新一の背中はなにも答えない。平次はそのまま続けた。
「工藤のことやったら、いつまで見とっても飽きへんし」
新一がゆっくりと首を巡らせて、平次のことをあきれた目で見た。
「答えは簡単だ。俺が美人じゃねぇからだ」
「美人て、そら男には普通使わんけど……」
「そういうことをいっているんじゃねぇよ」
身体ごと向き直って、新一が平次の鼻先に向かって人差し指を突き出した。
「俺は美しくねぇっていっているんだ」
白い頬を紅潮させて新一が突っ込む。
「そないなことないやろ」
平次は笑ってそれをかわした。
「俺の目にはめっちゃ格好良く見えとるで」
新一の目を見つめて平次は言い切った。
別に姿形だけが平次の心を捕らえているのではない。
彼の生き様から目を離すことが出来ないのだ。
子供の姿の新一に心惹かれたのも、そのせい。
逆境をものともしないまっすぐな瞳に惚れたのだ。
平次の眼差しを受け止めた新一の顔が赤く染まっていく。狼狽えたようにさまよう新一の目が平次の心を躍らせる。
彼は自分を嫌っていない。
嫌っていないどころか、おそらく好意を持ってくれている。
それがたとえ友情から発するものであってもかまわなかった。
新一と距離を取っていた時間が、彼の中に悪感情を生んでいなかった。そのことだけで満足だ。
「寝言は寝ていえ」
赤くなった顔を本で隠して新一が言い捨てた。
「寝言ちゃうって、俺はしっかり起きとるって」
「だったら寝ろ。本も読み終わったんだろ。明日、おまえは一限からあるんだから、さっさと寝ろよ」
いつの間にか新一は平次の時間割を把握している。授業のコマの話などしたことはなかったのに。
彼の中の自分の存在が、たまらなく嬉しい。
「せやな、寝ようか」
確かにもう遅い。
「工藤もはよ寝んとあかんよ。自分の部屋でな」
本に夢中になると時間を忘れて読みふけり、部屋に戻らないままリビングで寝てしまうことがある新一が平次は少し心配だ。夜はずいぶんと冷える。
平次は立ち上がると扉に向かった。途中、ソファの背越しに寝ころぶ新一の顔を覗き込む。
「ソファで寝たらあかんよ」
「うるせぇ」
本から半分だけ顔をのぞかせて、新一が平次を見上げる。
ふたりの視線がぴたりとあった。
呼吸が、音が、時間が、止まった。
自分の心臓の音だけが、緊張感を高めていく。
新一の表情に先ほどまでの照れはない。
平次の顔からも笑みが消えた。
平次の中に触れたいという衝動がわき上がる。
和やかな空気で誤魔化していた欲情がむき出しになろうとする。
息を詰めたまま、平次は新一に近寄りそうになる身体を押しとどめた。
このままではいけないと頭の中で警鐘が鳴る。
視線が不意に切れた。
強く絡まった糸を断ち切ったのは、新一の持つ本だった。
背表紙の陰に隠れた彼の瞳に、平次は内心安堵のため息をつく。
「……ほな、おやすみ」
声を出すと、元の空気が帰ってくる。窓の外で吹きすさぶ木枯らしの音も戻ってきた。
「おやすみ」
新一の声を背中で聞き、平次はそのまま足早にリビングを出た。閉めた扉を背にして、大きく肩で息をつく。
身体の奥からわき上がってきた衝動が危うく表に出そうになった。
だが、おそらく。
平次は手のひらで閉じた両目を押さえた。
目にはきっと表れたに違いない。
新一を欲した熱が、浮かんでしまったに違いない。
見つめ合ったのはほんの数瞬だったが、新一の目には嫌悪やおびえの色が浮かぶことはなかった。彼は自分の心情を正確に読みとっているはずなのに。
真実を見抜く新一の目にあったのは、驚愕だった。
見張った目をとっさに本の陰に隠した新一。
なにが彼にそのような行動を取らせたのか、平次はとても気にかかる。
リビングに戻り、いま新一が浮かべている表情が見たいという誘惑を押さえ込んで、平次は自室に向かった。
自分の中に巣くう獣の熱を見ても彼は怯えなかった。
いまはまだそれだけでいい。
階段を一歩一歩踏みしめるように昇りながら、平次はそう思った。
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