玄関を開けると、暗い部屋を通り越して、ベランダに通じる窓がほの明るく見えた。朝遮光カーテンを開けたまま大学に向かったせいだ。毒々しいようなネオンサインが、レースのカーテン越しに見えている。
木枯らしの吹く外気から逃れて、身体がほっと息をつく。
平次はただいまとつぶやいて、灯りもつけずに部屋にあがった。
ひとり暮らしのワンルーム。ほんの十歩も歩けば、窓まで行き着く。
平次は遮光カーテンを引こうとして、月を認めた。先ほどまで平次を照らしていた下弦の月が、ネオンの脇で色あせている。
平次は手の中のキーホルダーを握りしめた。
*
深夜のファミリーレストランは、さすがに客の姿もまばらだった。風の強い真冬の夜中に誰が出歩きたいだろう。
遅い夕食の注文を終えた新一が大きなあくびをする。
「夜更かしの工藤がもう眠いんか」
ちょうど午前0時を回ったところだ。
普段の彼ならまだ元気に起きている。
からかってやると、目をこすっていた手をどけて、新一が平次を睨んだ。
「寝たのが明け方だったんだよ。おまえと違って真面目に講義も受けているしな」
「俺かて講義中に寝たりせんわ。本でも読んどったんか?」
「親父の新刊をな。読むか?」
読む読む!と平次が即答すると、新一は楽しそうに笑った。
夕方、大学から帰る途中の平次の携帯電話にメールの着信があった。
『事件が起きた。来るなら連絡をくれ』
彼らしい簡潔なメールだった。
平次はその場で友人たちとの遊ぶ約束を反故にして、新一に電話を入れた。
事件現場で顔を合わせた新一は、平次に向かって軽く片手を上げた。笑みを向けられただけで、平次の心音は簡単に乱れた。
平次が新一の家を出て二ヶ月が過ぎた。
顔を合わすのは今回で三度目。すべて事件がらみだ。
大学が違うので、遊ぶ約束でも取り付けなければ、会うようなことはない。
だから平次は、極力連絡を取らないようにしていた。一緒に暮らしていた頃は頻繁にしていたメールも、送るのを出来るだけやめた。
道に外れた彼への想いを忘れるために。
だが、こうして現場で顔を合わせ、ともに事件に向かうと、そんな努力などあっという間に水泡に帰す。
ならば出向かなければいいのだが、それもやはり出来ない相談だった。騒ぐ探偵の血というのも自制が利かない。
「本、どうする。取りにうちまで来るか?」
「そうやな」
平次の借りているマンションは、工藤邸までバイクを使えば十五分程度。行くのは簡単だ。
だが平次は彼の家で新一に会うのは避けたかった。
人目のないところで過ごすふたりきりの時間は、平次にとって大切すぎて苦しい。
「いつでも来いよ。俺がいなくても勝手に入って、持っていってくれ。リビングの目立つところに置いておくから」
事も無げに新一は言う。
平次はキーホルダーをテーブルの上に出した。
「鍵、返したほうがええと思うんやけど」
平次はまだ工藤邸の鍵を持っている。
新一が受け取ってくれないのだ。
「普通、他人が持っといていいもんちゃうやろ」
引っ越しを終えたときも、そういって平次は鍵を返そうとした。
新一はまたそのときと同じように苦笑した。
「かまわねぇよ。おまえなら」
「せやけど」
言い募る平次を、彼は遮る。
「持っておいてくれって、前から言っているだろ。阿笠博士以外にも持っている奴がいると、いろいろと助かるんだ。なにがあるかわからないからな」
平次を見つめていた新一が、すっと視線を落とした。
「いいから、持っていろ」
命じる言葉は、硬かった。
平次はなにも言えず、キーホルダーをポケットにしまい込んだ。
*
工藤邸の鍵が残るキーホルダーを平次は目の前にかざした。鍵の束はちゃりと小さな音を立てる。
「いつでも来い、か」
なるべく彼の影を日常生活から追い出して、彼への想いが風化していくのを待つつもりだった。以前のように友人として見ることが出来るようになるまで、離れているつもりだった。
忘れるつもりでしていることが、かえって彼への思いを募らせる。
たとえどれだけ声を聞かず顔を見ずに過ごしても、たった一度会ってしまえばおしまいだ。
前よりもさらに恋しくなる。
いつでも来い。
いつ来てもいい。
彼は自分を拒まない。
家を出て、連絡も途絶えがちになった自分を、彼はどう思っているのだろう。
引っ越しを終え、別れ際に見せた彼の笑顔が忘れられない。
彼は哀しそうな瞳をしていた。
見間違えではないと平次は思う。
今頃彼も真っ暗な自宅へ帰り着いているのだろうか。
そしてリビングの灯りをつけて、寒い部屋に暖房を入れているのだろうか。
それとも身体を温めるために、風呂に入っているのだろうか。
一緒に暮らしていた頃、事件を解いた日はどんなに夜遅くなっても、彼は寝る前にコーヒーを飲みたがった。つきあいで平次も飲むようになった。
今夜もひとりで飲んでいるのだろうか。
二ヶ月経った今でも、自分の不在を寂しいと感じていてくれるのだろうか。
彼からのメールが以前より増えたのは、寂しさのせいだろうか。
平次はキーホルダーを握りしめた。
最後の夜に抱きしめた新一の身体を、まだ覚えている。
ぬくもりも息づかいも、自分の頭をなでた彼の手の感触さえ。
平次は夜空をゆく半月を睨む。
離れたことは、おそらく間違っていない。
あのまま一緒に暮らしていれば、自分はきっと彼との関係を壊していた。
『静かになる』
新一の声がこだまする。
まだ、時間が足りないだけだ。
どれほど恋しく思っても、きっと時間が忘れさせてくれる。
いつか記憶は薄らいでいく。
想いもまた。
そうしたら、また一緒に暮らせる。
寂しいなどとは言わせない。
平次は思いきりカーテンを引いた。
カーテンレールの軋るような音が、ひとりの部屋に響いた。
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