唇を湿すように、新一は硝子のお猪口を傾けた。
飲み慣れない日本酒が口の中をじわりと焼く。
熱のこもった息をはき出して、新一は青い切り子の中の酒を揺らした。まだ五杯目だというのに、頭の芯に霞がかかってきている。
工藤邸の庭に吹く夜風が、新一の熱くなった頬をなでていく。昼間の暑さが尾を引いて、吹く風はまだ涼しいとはいえない。それでも新一はその気持ちよさに目を閉じた。そのまま空を仰ぐと、瞼の裏を月明かりが差す。
「ほんま、ええ月や」
幾度目かになる感嘆のつぶやきをこぼしたのは、平次だ。
薄目を開けて窺うと、彼は飽きずに空を眺めている。皓々とした月の光が陰影をくっきりと刻んで、平次の姿を照らし出していた。
庭に敷いたシートの上であぐらを組んだ彼の手の中には、新一とそろいの切り子のお猪口。手酌で次々と杯を空ける平次が今飲んでいるのがいったい何杯目なのか、新一はとっくに数えることを諦めている。とにかく、ゆうに自分の三倍にはなっているはずだ。彼の持ってきた四合瓶の吟醸酒が、そろそろなくなりそうになっているのだから。
無造作に膝の上に置いていた手を上げて、平次が水でも飲むように酒をのどに流し込む。速いペースにもかかわらず、平次の顔色は変わらない。
静かな横顔を盗み見て、新一は酒を口に含んだ。空になったお猪口を掌でもてあそぶ。
何があったのか知らないが、今夜の平次は月ばかり眺めている。
普段うるさいほど口数の多い片想いの相手の沈黙に、新一はこっそりとため息をついた。
東京の大学に進学してきた彼は、たびたび新一の元を訪れる。通う大学は違うのに、週末には必ずと言っていいほど一緒に食事をしているぐらいだ。事件が起きれば当然のようにふたりで現場に赴く。
平次の隣に立つことの心地よさは、コナンの頃にも感じていた。それが実は恋の前兆だったのだということを、元の姿に戻ってから新一は気がついた。
新一の押し隠した気持ちを知らない平次は、昔と変わらず新一をかまう。
見たい映画があると外へ連れ出し、読んだばかりの推理小説について楽しげに語り、事件現場では頼れる相棒ぶりを発揮する。
そして、酒を飲もうと誘う。
『月がきれいやから、月見酒をしようや』
すっかり日の落ちた頃やってきて、玄関先でそう言った平次が抱えていたのは、日本酒の瓶が三本とつまみの入った袋。買ったにしろ貰ったにしろ、未成年が持っていてほめられた物ではない。
庭にビニールシートを持ち出したのも、食器棚の奥からお猪口を探し出したのも、平次だ。
何かとこまめに動くのは普段と同じ。
だが、庭に出てからの平次は、静かだった。
いつもなら何かと新一に話しかけ、ひとりでにぎやかなのだが、その会話がない。
ただ時折思い出したようにつぶやくのだ。
「ええ月やなぁ」
それは独り言めいていて、新一は言葉を返すのをためらう。
悩み事でもあるのだろうか。
新一は瓶を取り上げた。
「服部」
振り向く平次のお猪口を視線で指すと、新一は軽くなった瓶を傾けた。空いた切り子の中に酒を満たして、新一は尋ねた。
「どうした?」
酒を飲みながらまた月を眺めていた平次が、視線を新一に戻した。
「何かあったのか?」
「……別になんも。ただ、あのお月さん、俺のもんやったらええのになぁて思うとるだけや」
新一は月を見上げた。
雲一つない夜空に、満月が浮かんでいる。
「無理だろ」
「せやな」
返事はあっさりとしたものだ。
新一は肩をすくめてシートの上に寝転がった。草の香りが間近に迫る。
「非現実的なことを言うなんて、らしくねぇぞ」
「わかっとるよ」
月にのどをさらすように、平次が酒をあおった。
「独り占めしたいのにできへん。触れることもできへん。ただ見ていることしかできんゆうのは、きっついもんやな」
好きやのに。
想いのこもった最後の言葉に、新一は息を詰まらせた。
火照っていた身体の芯が、一気に凍りつく。だが、心臓だけは激しく自己主張をはじめ、新一は胸に手を当てた。押さえておかないと鼓動が平次に聞こえてしまいそうだ。
「……報われない片想いでもしているのか」
平静を装って聞いた新一に、返事はなかった。
しかし、平次の横顔にはほろ苦い笑みが浮かんでいる。
肯定を確信して、新一は目を閉じた。
忌々しい月を見ていたくない。
「気ぃついてしもた。自覚せんまんまやったら、なんも考えんと今まで通りでおれたのに」
自嘲を含んだ声が、頭の上から降ってくる。その切ない響きに、新一は耳をふさぎたくなった。
「月は誰のものにもならねぇよ」
吐き捨てるように言ったつもりが、弱々しい声になって、新一は唇をかんだ。
「月は、な」
平次が言う。
「ああ」
月は誰のものにもならない。
だが、ひとは、誰かのものになってしまうかもしれない。自分以外の誰かを好きになってしまうかも知れない。
平次のように。
新一の閉じた瞼の裏には、月を眺める平次の横顔が焼き付いている。
熱のこもった眼差しで、月を見ている彼の、静かな横顔が。
新一はきつくきつく目を瞑った。
平次が想い人を重ねている疎ましい月を忘れるために。
月の代わりに自分をその視線で見て欲しいと思う心を諫めるために。
「……けど、月ちゃうから、諦める気はないねん」
目を閉じていた新一は、だから見逃した。
新一に注がれている、平次の眼差しを。
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