ときはなる松のみどりも 春くれば

今ひとしほの色まさりけり

 



 本館の掲示板の前。
 そこがいつも落ち合う場所だ。
 新一は鞄を肩に掛け、講義室をゆっくりと出た。急ぎ足の友人たちが追い抜きざまに新一に手を振っていく。
 四階の窓から見る景色はすっかり夜になっていた。おそらく外は寒いのだろう。廊下も階段の空気も冷え切っている。
 マフラーに手袋をした学生たちが大声で笑いながら階段を下りていく。新一もその後に続いた。冷たい両手はコートのポケットの中だ。

 ――こけたら危ないやんか。
 平次の声が耳の奥に甦る。
 いつでも彼は新一のことを気に掛けてくれる。
 それがたまらなく嬉しいから、新一は彼の言うことを聞かない。
 これまではそうだった。
 これからもおそらくそうだろう。

 ふと見た廊下の窓ガラスに、自分が映っていた。
 その顔を見て、新一は慌てて表情を引き締める。
 知らぬ間に口元がゆるんでいた。
 事情を知らない他人が見たら不気味だろう。
 それでもこれから会う平次のことを考えると、新一の心は自然と弾んでしまうのだ。
 ――昨夜。





 いつものように新一は平次と酒を飲んでいた。場所もいつものように工藤邸。
 ほろ酔いのままソファに寝そべって、新一は飲み続ける平次の横顔を眺めていた。この時間が新一は好きだ。片想いの相手との穏やかで静かな時間。共に事件を追うのも緊張感があっていいが、心安らぐこういう時間もいいものだ。
 だが、今夜の彼のピッチは早すぎる。
「おい、ちょっと飲み過ぎじゃねぇか」
 声だけでとがめた新一に、平次が視線を流す。目には酔いの気配はない。自分の倍以上は飲んでいるはずなのに、不公平な話だと新一は思った。
 このザル、と新一が笑うと、平次が日本酒の入ったぐい飲みを空けて、にっと笑った。
「この酒を、止めてくれるな、飲ませておくれってな」
「とてもしらふじゃ言いにくいってか」
 平次の後を継いでやると、彼は声を上げて笑う。
「そうや、しらふではちょお言いにくいかもしれへんな」
「ほお。なんか俺に言いたいのかよ。けどな、酔っぱらいの言葉なんて信用できねぇぜ」
 ソファから身を起こし、新一は平次と相対した。
 ぐい飲みをテーブルの上に戻して、平次は自分の頬を手のひらで挟んでみたりしている。
「俺、酔っとるように見える?」
「見えないから、ザルっていったんだろうが」
「そんなら俺の言葉は信用してもらえるんやな」
「内容によるな。実は空が飛べますとか言われても、すぐには信じられないぞ。なんの仕掛けもなく目の前で飛んで見せたら信じるけどな」
 笑う新一に、平次が「証明できたら信じるゆうわけか」と真剣に考え込む。
「まさか本当に空を飛ぶのか?」
「あほ!」
 素早い突っ込みに新一は声を上げて笑った。
「ま、おまえにとったら、それぐらい衝撃的なもんかもしれへんけどな」
 強気に笑った平次の表情が真剣なものにすり替わる。
 新一も笑いを収めて、彼の目を見つめた。
 なにを言い出すのか、息を飲む。
「好きや」
 新一は大きく目を見張った。
 信じられない言葉を聞いたような気がする。
 平次がゆっくりと笑みを浮かべる。
 噛んで含めるように、彼はもう一度言った。
「おまえが好きなんや」
 言葉が、頭の中をこだまする。
 意味を意識するよりも早く心臓が反応した。一気に頬に熱が集まる。
 声の出せない新一に、平次が目を細めて笑う。
「証明されるまで、信用せぇへんの?」
「……はっとり」
 かすれた新一の声に呼ばれるように、彼の腕が伸びた。強く抱きしめられて、息が詰まりそうになる。
「めっちゃ嬉しい」
 耳元の声に身体がしびれたようになる。
「俺は、まだ、なにも言ってない」
 平次の腕の中で新一はようやく言い返す。
 自分の想いが予想外の展開を見せて叶ったのは、本当に嬉しい。
 だが、彼に主導権を取られっぱなしというのは、悔しいのだ。
「ひとりで勝手に話を進めるな」
「せやけど、工藤の顔にはちゃんと書いてあったで。俺のことが好きや、って」
「嘘つけ」
 しかしそれに説得力がないのは、新一自身わかっていた。自分の頬は燃えるように熱いのだから。
「もうネオンサインみたいやったで」
 彼の腕がゆるむ。楽しげに笑う平次の顔が正面に戻ってきた。
「顔、真っ赤やし」
「酒のせいだろ」
「ま、そういうことにしといたろか」
 余裕の表情がまた小憎らしい。
 それでも新一は平次の顔が近づいてくるのを見て、おとなしく目を閉じた。





 叶うはずがないと思っていた彼への想い。
 それが昨夜、叶った。
 しかも彼からの告白という思ってもいなかった形で。
 だが、その後展開されるはずだった平次との甘い時間は、突然の闖入者によって壊されてしまった。
 闖入者は正規の工藤邸の所有者。つまり新一の両親だったのだ。なんの前触れもなく帰国して、連絡などいっさいないまま帰宅。いつものことだが、タイミングが悪すぎた。
 そのときの混乱を新一はあまり思い出したくない。
 結局這々の体で帰っていった平次とは、その後顔を合わせてはいなかった。朝と昼にメールが来た程度。ただ平次のメールの内容がいつも以上に浮かれていて、新一はこみ上げてくる笑みを抑えるのに苦労した。



 本館につくと、掲示板の前には学生たちがたむろっている。待ち合わせをするのにちょうどいいため、自然と人が集まるのだ。
 その人込みの中に、平次がいた。
 大きな柱に寄りかかるようにして、暗い外を眺めている。手には時計代わりの携帯電話。このまま新一が来なければ、きっと彼はメールでもしてくるのだろう。
 新一は足を止めて彼の姿に見入った。
 これまでも彼の姿は新一の目を惹いた。
 しかし今日はさらに目立っているような気がする。おそらくはただの気のせい。惚れた欲目というやつに磨きがかかったのだろう。

 視線を感じたのか、平次が新一のいる方を見た。
 ぱっと彼の表情が明るくなる。
 大きく手を振る平次に、新一は苦笑しながら軽く手を挙げて見せた。
「工藤!」
 駆け寄ってくる彼は満面の笑みを浮かべている。
 ストレートに感情をぶつけてくる平次が、本当はとても嬉しい。
 抱きついてきそうな勢いの彼を蹴りで牽制して止める。
「蹴ることないやん」
「蹴ってはいないぞ、蹴ろうとしただけだ」
「せやけど……」
 せっかく恋人になったゆうのに待遇が冷たいわぁ、と平次はぶつぶつこぼしている。
「人前でいちゃつくのは嫌いなんだよ」
 新一が小声でささやいてやると、彼の機嫌はすぐに直った。
「そっかそっか、誰もおらんかったらええんやな」
 笑み崩れている横顔には、竹刀を振っているときの精悍さの面影はかけらもない。

 普段から表情豊かでよく笑う彼だが、今日はそれに輪を掛けて上機嫌だ。
 そして、とても幸せそうだ。
 新一の心の底から温かいものがこみ上げてくる。
 惚れた男が自分といることで、こんなにも嬉しそうにしていて。
 その理由が自分と想いが通じたことだなんて。
 自分はとても幸せだと新一は思う。

「なぁ、まだ両親おるん?」
 平次がこっそりと聞いてくる。
「そりゃ自分の家だからな。ゆっくりするつもりとか言っていたぜ」
「なぁ、そんなら俺の部屋に泊まりに来いや」
 下心が透けまくっている平次の言葉に新一は笑いをこらえながら答えた。
「しばらくは無理だな」
 平次ががっくりと肩を落とし、たまらず新一は声を立てて笑った。その頭を平次が小突く。
「今日は母さんが手料理を作るらしいぜ。おまえも誘って来いって」
「へぇ、工藤のおかんの手料理か。そら楽しみやな」
 本気で楽しみにしている彼に、母の料理の腕前については教えないで置こうと新一は決めた。

 外は冷え込んでいた。
 空には星も瞬いている。
「また手をポケット入れたまま歩いとる。こけたら危ないゆうてるのに」
「転びそうになったら支えてくれ」
「しゃないな。任しとけ」
 ふたりして声を上げて笑う。
 冬本番はまだこれから。
 だが、新一の心にはもう春が来ていた。


 

ときはなる松のみどりも 春くれば 今ひとしほの色まさりけり

古今和歌集 巻第一 春歌上 24 源宗于

一年中色の変わらない常緑の松の緑も、春になればよりいっそう色が鮮やかになる。

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