玄関を開けると、空は相変わらずどんよりと曇っていた。吹く風も湿り気を帯びていて、またいつ雨が降り出してもおかしくはない。
玄関で靴を履きながら外を見て、新一は阿笠邸の庭先に見慣れない植木鉢を見つけた。
小さくて柔らかそうな葉が風にそよいでいる。来たときに気が付かなかったそれを、見送りに来ていた博士に尋ねると、もらい物のハーブだという。気に入ったら持って帰っても良いと言う博士に、新一は笑って首を振った。
扉を閉めて、植木鉢に歩み寄る。
「良い香りがするんじゃよ」
別れ際の博士の言葉に誘われるように、新一はかがみ込んで爪の先ほどの葉を一枚むしって、鼻を近づけた。
それからは、レモンの香りがした。
思いがけない、香り。
目を見開いた新一の前に、二ヶ月前の情景が広がった。
キッチンテーブルの上に転がる鮮やかな黄色。新一が抱えていた紙袋から出てきた大量のレモンに、平次が目を丸くした。
「どないしたん? これ」
「お裾分け。博士のところから貰ってきた」
新一は平次にエプロンを押しつけると、レモンを洗う。嫌そうな顔をしながらもエプロンをつけている平次に、新一はレモンを差し出した。
「レモンの砂糖漬けを作ろうと思ってさ。スライスしてくれ、これ」
「ええけど……。もしかして、全部漬けるんか?」
「バーロ! そんなに食えるか! あ、そうだ。なんならいくらか土産に持って帰るか? 夕方にはこっちを出るんだろ?」
高校時代最後のGWを利用して平次は上京してきていたのだ。いきなり押し掛けてきた友人を新一は文句を言いながらも泊めた。ホテル代わりにしたお礼も兼ねて、と平次から贈られた誕生日プレゼントは万年筆。ネーム入りのそれは机の引き出しにしまわれている。その連休ももうすでに最終日、明日からはまた学校が始まる。
「せやな。工藤ひとりじゃ食いきれんやろな。貰っていったるわ」
にっと笑う平次に、新一はまな板とナイフを渡した。
平次が切るレモンを新一がタッパーに並べ、まんべんなく砂糖を振りかける。
「好きなんか? これ」
「甘くて美味しいじゃん。サッカーやっていた頃にはしょっちゅう食っていたぜ」
「俺は苦手やねん。酸っぱいまんまの方がまだましや」
甘い物が苦手な平次がうんざりしたように言う。その本当に嫌そうな表情に新一は笑った。
キッチンテーブルの上をきれいに片づけた平次が、自分の鼻先に手をやって声を上げた。
「うわ! 洗ったんやけど、めっちゃレモンの匂いが残っとる」
ほれ、と突き出された手首を、新一はつかんで引き寄せた。
勢いが余って、新一の唇に、平次の指先が、触れた。
はっとしてあげた視線が、平次のそれと絡む。
見慣れた顔の、見慣れない表情。
浮かんでいるのは、むき出しの、感情。
驚きと、戸惑いと、なにか。
新一は、平次の手を放すことも出来ずに、彼を見つめていた。
新一の視線の先で、平次の表情がゆっくりと変わる。
苦しそうに細められた目。陰って深みを増す黒い瞳。
胸の奥を締め付けてくるような平次の視線に絡めとられて、新一は動けなくなった。
平次が自分の手首を握っていた新一の手を引き寄せる。
そして、その指に平次がそっと口づけた。
瞳は新一を見つめたまま。
触れた唇がもたらすしびれるような感覚に、新一は身を震わせた。
心臓の音がうるさくて、息が出来ない。
もつれた視線が、ほどけない。
やがて、平次が瞳を閉じて、新一の指を解放した。口元に自嘲するような笑み。
目を開けたとき、平次はいつもの彼に戻っていた。明るい声が、今までの空気を払う。
「これで、おあいこやな」
鉢に刺さっている土で汚れた札には、レモンバームと書かれているのが読みとれた。
新一はつまんだ葉を見つめた。
あのとき、タイミングよく電話が鳴らなければ、新一は平次を蹴り上げていたに違いない。警察からの呼び出しに、二人はいつものように応じた。
あのあと、平次はいつもと全く変わらなかった。事件現場でも、荷物を取りに新一の家に寄ったときも。そして、いつも通りに大阪へ帰っていった。
何事もなかったように……。
平次の指先から香った、レモン。
彼の唇に触れた、自分の指。
俯きがちに新一の指に口づけて、切なそうに見上げてきた、彼の瞳。
胸を締め付けてくるそれは、決して不快なものではない。
ただ、心の一部が、ちりちりとする。レモンの酸で火傷でもしたようだ。
頬に細かい雨粒が当たって、新一は立ち上がった。
指先の柔らかな葉から香る、鮮やかなレモンの香り。
新一は、自分の指を唇に押し当てた。
しびれるような、あの感覚は、無い。
――これで、おあいこやな。
新一は、つまんでいた葉を雨の中にはじき飛ばした。
どこが、おあいこなものか……。
今、おまえはなにをしている?
そして、なにを想っているんだ?
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