猪口を持つ手元が翳った。
新一が見上げると、満月が大きな雲に飲み込まれていくところだった。雲の一部を鈍く輝かせながら、月がゆっくりと動いていくように見える。
「雲が出てきてもうたな」
天気予報が当たりそうだと、新一にぬる燗の酒を注いでいた平次が嘆く。穏やかな日は今日でひとまず終わり、今夜遅くから風が出て、明日は荒れた春の嵐となるらしい。
「となると、今夜が最後の花見だな」
新一は目の前の桜を見上げた。
こぼれんばかりの満開の桜。
枝がたわむほどについた花が、咲き競っている。
だが、この木も見頃を迎えもう三日が経つ。近所の桜はもう散り始めている。この桜も嵐は越えられないだろう。
せやなと頷いて、平次は手酌で飲んでいる。
酒を持ってきたのも平次、肌寒いから燗をつけようと卓上コンロを工藤邸の庭に持ち出したのも平次だ。今夜の彼はいつも以上に行動的で、新一はあきれた風を装って、シートとあり合わせのつまみを用意した。
このふたりだけの花見も今年で四回目になった。
初回は平次が大学進学にともなって上京してきた春。それから毎年、約束もなしに恒例となった。
新一は酒を飲み干し、息をついた。
「やっぱり桜はいいよな」
独り言に答えは返らず、徳利が目の前に出てきた。平次が注いでくれるのを黙って待つ。
もうすぐ大学の最終学年が始まる。将来の夢として語っていたものが、現実味を帯びてきた。新一は探偵になると公言し、それを目指すことに迷いはない。だが、平次は未だ悩んでいるようだ。父と同じ道を進むか、新一のように探偵となるか。
その悩みの一端に自分がいればいいと新一は思っている。
上京してきてくれたものの、住む場所も大学も違う片想いの相手。出来ることならば一緒に探偵事務所を開きたい。相棒が彼ならばどれほど仕事がやりやすいだろう。
平次がまた手酌で酒を注ぐ。それをくいと一気に彼は呷った。そしてまた注ぐ。
ペースが違うので、燗をつけるコンロは平次の隣だ。一升瓶も彼の脇にある。
「散るんやな」
ため息のついでのように彼が言う。
桜の盛りは今。あとはもう散るしかない。そよ風が吹けばそれだけで、木を離れる花びらもあるだろう。
「明日は桜吹雪が見られるぜ」
「それはそれできれいやけど。せやけど、なんや惜しいなぁ」
平次が名残惜しげな声を出す。
そこへ月影が差す。
桜がいっそう艶やかに闇に浮かんだ。
声にならない声を上げてふたりはそれを眺めた。
庭に落ちる沈黙が心地よい。
新一は知っている。
平次は自分に惚れている、と。
そして、彼は自分の彼への気持ちをすでに察している、と。
お互いになにかきっかけがあれば、ふたりの関係が変わるとわかっている。
ただ新一はこの居心地の良い関係を壊してしまうことに、ためらいを覚えている。
平次がもし警官を志望し地元に帰るのなら、今の関係を壊さない方がきっとお互いのためだ。だが、もし、一緒に探偵事務所を開くという話に乗ってくれるのなら、彼を手放す気はない。
すっとまた月が翳った。
闇が降りて、平次の表情を隠す。
「工藤」
平次が振り返る。
「この桜はええな。毎年見ても飽きへん」
「桜に限らず、花は何でもそうじゃないか? 結局毎年違う花が咲くんだ。飽きるはずないだろ」
見ている花は違う花。
だが、見ている人は同じ。
いや、見ている自分ですら、変わっている。
一昨年よりも、去年よりも、今年の方が、このふたりの時間を大切に思っている。
「次の桜もみたいわ」
新一は平次を見た。
表情はわからない。
ただ刺さるような視線を感じる。
音を立てて、一陣の風が吹いた。
ざわざわと桜の木がざわめく。
雲が切れて、月の光が庭を照らした。
ひとひら、ふたひら、花びらがふたりに散りかかってくる。
「来春もここにいる気か」
進路を決めたのかと問う新一に、平次がきっぱりと頷く。
「進路やのうて、ここにおる覚悟を決めたんや」
おまえの隣にな。
一瞬笑みを浮かべ、平次はまた表情を引き締めた。
「ええか?」
彼は腹をくくったようだ。
新一は笑んで見せた。
「聞くまでもないだろ」
喜んで彼の覚悟を受け入れる。
これで彼を手放さずに済む。
平次がほっとしたように肩から力を抜いた。
「引っ越してこい。一緒に住もうぜ」
平次の腕が新一に伸びる。
「そないする」
耳元での答えに、新一は彼に回した腕に力を込めた。
抱き合うふたりに、桜が降りかかった。
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