月に背いて 5
色もかはらぬ物にはあるらん
チャイムの音に、平次は玄関を振り返った。 夜はもう遅い。人が訪ねてくるような時間ではなかった。 見るともなしにつけていたテレビを消して、そっと玄関に向かう。 またチャイムが鳴った。 時間を気にしてか、潜めたような平次を呼ぶ声がした。 「服部、いるんだろ」 平次は一瞬足を止めた。 事件か、それとも別の緊急事態か。 頭の中を彼の用件が駆けめぐる。 「工藤。どないしたん、こんな夜遅くに」 ドアの向こうには紙袋を抱えた新一が立っていた。 「おまえに用事があって。部屋、入れてくれないか」 「電話やあかんかったんか」 新一を招き入れながら、平次は聞いた。 彼は苦笑して首を振った。 「今、直接、会う必要があったんだ」 「緊急事態か」 「ある意味な」 曖昧な返事をする新一のコートを受け取り、平次はそれをハンガーにかけ鴨居にかけた。コート掛けなどしゃれたものはない。六畳一間の部屋には最低限の家具しか入れなかった。大きいものはレンタルしたハイベッドぐらいだ。 ホットカーペットの上に新一を座らせ、電気ストーブを強めに設定する。それでも彼にとっては寒いかもしれない。 「こたつは使ってないんだな」 小さなキッチンでインスタントコーヒーを入れていた平次は首を振った。 「こたつ布団で部屋が狭くなるさかいな」 「おまえにはこたつに座椅子が似合いそうな感じがするけどな」 「やかまし」 マグカップを持って部屋に戻ると、新一が悪いなと笑う。 折り畳めるテーブルの上にマグカップを置いて、平次は彼から少し離れて床に座った。 狭い部屋にふたりきり。 平次は緊張する自分を嗤った。 渇く喉をコーヒーで潤す。 「で、なんやねん。用事って」 沈黙が恐ろしく、平次は尋ねた。 マグカップを両手で包み込むようにしてコーヒーを飲んでいた新一が、目を上げて平次を見た。 刺すような視線だった。 心を奥底まで透かし見るような視線だった。 たじろいだ平次は思わず目をそらした。 「これをおまえにやる」 抱えて来た紙袋から、新一が薄い箱を取り出した。 「なんやねん」 白地に銀の雪模様が入った包みに、金で縁取りされた緑色のリボンがかかっている。受け取りながら平次が聞くと、彼は至極まじめな声で答えた。 「見ての通りクリスマスプレゼントだ。少し早いけどな」 「なんで、おまえが俺に?」 「贈りたかったから」 開けて見ろと言われ、平次は包装を解く。 箱から出てきたのは真っ白なマフラーだった。両端に細い黒のラインが入っている。触り心地だけで値の張るものだと知れた。 顔を上げた平次の視線の先で、新一が挑むような顔をして言った。 「縄の代わりにそれをおまえの首に付けて、俺の家に引きずっていくために」 「そら無理や。それにそういうもんやったら、受け取れん」 平次は箱を閉めた。 うれしかった。 新一が自分のために選んでくれたプレゼント。 どんなものであれ、大切にしたかった。たとえ露店で買ったようなものだったとしても。 だが、受け取ることが、新一の元へ帰ることになるのなら、それは拒絶するしかない。 まだ自分は戻れない。 彼の代わりにマフラーを抱きしめたくなるようでは、まだ。 テーブルの上に戻した箱に一瞥もくれず、新一は平次のことを見つめている。 「ごめんな、工藤。せっかくのもんやったけど」 「もう俺の家に戻る気はないのか。それとも」 新一の目が鋭さを増す。 「それとも、まだ戻れないのか」 含みのある問いかけに、平次は息を詰めた。 なぜ彼が「まだ」と言うのかわからない。 本当に心を透かし見られたのかも知れないと平次は思った。 もっとも信頼する相棒の目は、決して侮れない。 「どういう意味やねん、それ」 笑って見せても、新一の表情は変わらなかった。 「そのままの意味だ」 「そのまま、て」 「出ていきたくて、出ていった訳じゃねぇだろ」 「そらまぁな。けどおかんがうるさかったし」 新一が口元だけで笑った。 「その口実はもう通じないぜ」 彼は平次に反論を考える時間を与えてはくれなかった。 「電話やメールが減った理由はなんだ? 事件を解いたあと逃げるように帰るのはなぜだ? 俺とふたりきりになりたがらない理由はなんだ?」 畳みかけるように言って、新一は一呼吸おいた。 「俺との同居を解消した本当の理由と、みんな繋がっているんだろ。おまえのお母さんの話は、家を出ていくのにちょうどいい口実だっただけだ」 怒っているような、哀しんでいるような、複雑な目の色で新一は平次のことを見据えていた。 「……もしかして、俺に嫌われたとでも思ったんか」 あえて軽く平次は笑った。 少しでも重たい空気を消してしまいたかった。 自分の部屋にいつにない閉塞感を感じるのは、ただひとえに新一の存在の大きさのせいだ。息が苦しい。 新一がぽつんと言った。 「おまえは俺に惚れている」 平次の肩が大きく揺れた。 目を見開いたまま答えの返せない平次に、新一が続ける。 「おまえが出ていく前の夜、酔いつぶれたおまえは俺をベッドに押し倒した」 「くどう。俺は……」 平次は絶句した。 自分は何をしたのか。 傷つけるようなまねをしでかしたのではないだろうか。 しないがために、離れようとした前夜に。 新一は首筋に手をやって小さく笑う。 「別に何もされてないぜ。そのとき、おまえが言ったんだ。どうして俺に惚れたんだろうってさ」 覚えているわけないよな。 平次は頷くことしか出来なかった。 酔った自分を彼が部屋まで運んでくれたということすら、次の朝言われるまで知らなかったのだから。 「受け取ってくれ」 新一がテーブルの上の箱を平次の方に押しやる。 「引きずってでも、つれて帰りたいんだ」 平次は箱を見やり、新一に視線を移した。 「俺の気持ちを知った上で、帰ってこいゆうんやな」 彼はゆっくりと頷いた。 「押し倒されたんやで。襲われそうになったんやで。俺がそういう風におまえのことを見とるんやって、わかっとってなんでや」 「襲って、俺との関係を壊したくないから、おまえは家を出ていったんだって事までわかっている」 「したら、なんで出ていった俺の気持ちを無視するん」 理不尽な怒りについ声が低くなる。 ふとした拍子に湧き上がってくる凶暴な衝動を抑え続けるのに、どれだけ気力を使っていたのか、彼は知らない。知らないから帰ってこいなどと簡単に言うのだ。 衝動は今このときも平次の中で渦巻いている。 「押し倒されても、おまえのことを嫌えなかった。そういう目で見られていると知っても、気色悪いとは思えなかった。ただ俺は、寂しいと思った」 彼はひっそりと笑う。 「おまえが出ていく理由がわかっても、俺には引き留められなかったから。おまえが俺のことを本当に大事に思っているからなんだと、理性ではわかってもどうしようもなく寂しかった」 「寂しさを埋め合わせるために、俺に戻れゆうんか」 そして自分にまた狂おしい日々を送れというのか。 「ずっと一緒におって、なんもせぇへんゆう約束は出来へんぞ」 欲情をはっきりと視線に乗せて、平次は新一を睨んだ。 「抱くとか、抱かれるとか、そんなことより大事なのは、おまえが俺のそばにいるかどうかなんだ」 新一は置かれた箱を指でなでた。 「一番大事な人へ、ってショッピングモールのポップに書いてあった」 彼は平次をまっすぐに見た。 「一番大切な人。そういわれて真っ先におまえの顔が浮かんだんだ。ほかの誰でもなく、服部の顔が。それでわかったんだ。おまえのことを嫌えなかった理由、寂しかった理由が」 新一が微笑う。 「俺はおまえに惚れているって」 平次は飛びかかるように新一を抱きしめた。 力一杯抱きしめても、彼は抵抗ひとつしない。 「目の前から消えるまで気づかなかったなんて、鈍感だよな」 「工藤」 平次は彼の名を呼んだ。 想いがのどに詰まって、言葉がうまく出てこない。 「服部。あのときのおまえの言葉は、まだ活きているのか」 耳元でささやくように新一が言う。 ――なんで惚れてしもうたんやろ。 やはり中秋の月に、狂わされたのか。 秘め続け、忘れ去ることを決めた想いが、口をついて出てしまったのは。 「まだ惚れとるよ。前以上に、惚れとる。離れて、またただの相棒に戻ったら、おまえのところに帰ろうと思っとったんや。けど、離れとったら、よけいに恋しゅうなってもうた」 平次の腕の中で、新一の身体から力が抜けた。ようやく彼の腕が背に回る。 「受け取ってくれるな。マフラー」 「おおきに。喜んでもらうわ。なんか俺も贈るな。工藤の喜びそうなもん」 新一が肩をふるわせて笑う。 「期待しておく」 腕をほどいた新一に、平次はまずキスを贈った。
思ふてふ言の葉のみや 秋をへて色もかはらぬ物にはあるらん
古今和歌集 巻第十四 恋歌四 688 読み人知らず
木の葉は秋には色が変わるけれど、あなたを想うという言の葉だけは色を変えることはありません。
戻る