思ふには忍ぶることぞ負けにける

色にはいでじと思ひしものを

 



 ブラインドが下りているにもかかわらず、その隙間からは真夏の強烈な日差しが射し込んでくる。小さな会議室はじりじりと焼かれるように暑い。冷房は入っているはずなのだがあまり利いているようには思えなかった。

「ふたりとも申し訳ないね。服部くんなんかこっちにいるのは明日までなのに」
 せっかくの休日を、と高木が本当に申し訳なさそうに言う。
 細長い折り畳みの机の上には資料の山が四つ出来ている。一人ひとつと、見終わったものを重ねた山だ。
 昨日起きた事件が以前起きた事件に類似していた。同一犯であることを窺わせるため、三人で以前の捜査資料をあたっていたのだ。しかし今のところめぼしい情報は出てこない。
「事件が起きたらそっち優先や。なぁ工藤」
 話題を振られて新一も頷いた。

 平次が高校最後の夏休みを利用して上京してきたのは一週間前。ふたり揃って受験生なのだが、そのあたりのことは一時棚上げしてある。そして高木の言うように、平次は明日、大阪に帰ることになっている。
「しかし、おまえが来ると必ず事件が起きるよな」
「それ、工藤にだけはいわれとうないわ」
 平次がすかさず言い返してくる。
 笑ったのは高木だった。
「仲いいね、本当に」
「そら相方やし」
「せめて相棒といえ」
 睨んだ新一に平次が「ええやんべつに」と笑う。

 相棒。もしくは親友。
 ふたりの関係を言い表すなら、そのどちらかがもっとも相応しいだろう。
 だが新一にとって、平次はその範疇を越えている。
 誰よりも大切で、憎らしいほど愛おしい相手。
 その感情に気づいてしまったときの衝撃は、すでに遠いものになっている。

「じゃ、とりあえずこの資料を返してくるから」
 終わった資料の山を両手で抱えて、高木が部屋を出ていく。
 彼のために扉を開けていた平次を新一はじっと見つめた。
 この姿も明日には見られなくなってしまう。
 振り返った平次と目があった。
 とっさに視線をそらせた新一の耳は、鍵のかけられる音を拾った。
「おい、服部、なにしているんだ」
 ひとつしかない出入り口を閉ざした平次が新一の正面に座る。
 狭い机を挟んで、距離はわずかに四十センチほど。
 平次が真正面から新一を見た。
 その目に新一は密かに息を飲んだ。
 彼は苛立っている。
 突然豹変した平次の態度に新一はとまどった。しかし思い当たる原因はない。

「工藤」
 平次の声は低い。
 睨み据えるような瞳も相まって、まるで喧嘩を売られているようだ。
「なんだよ」
 彼が売るなら買ってやろうと言い返した新一に、平次の表情がさらに厳しくなる。
「おまえ最近、俺のことよう見とるやろ」
「そんなことねぇよ。自意識過剰じゃねぇか」
 言葉では否定した。
 だが、心では頷く。
 上京して自宅に泊まっている平次を、新一はいつも見ていた。
 自分に笑いかけてくる顔も、本を読む真剣な横顔も、阪神の負け試合に悔しがる顔も、すべて記憶にとどめておきたかった。だから時間の許す限り、彼を視界に収めようとしていた。
 またいつ会えるかわからない相手を、見つめていたかっただけだ。

「ちゃう」
 平次はきっぱりと否定する。
「俺の勘違いちゃうわ。しかもただ見とるんとちゃう。えらい熱い目をして俺のことを見とる。視線で焦げるかと思うたわ」
 平次が茶化す言葉を真剣な目で言う。
 新一は内心で自嘲した。
 一生隠し通す気だったのに、知らないうちに目に想いが表れていたらしい。
 腹を括らないといけない。
 抱えた想いを彼に知られてしまっているのなら、ここでかたをつけなければならない。
 欺くことも、誤魔化すことも、新一には出来なかった。

「おまえがそれ以上焦げたら、真っ黒だな」
 平次に据えた視線はそのままに、新一はあえて軽口を返した。口元には挑発的な笑みを浮かべる。
「なんでも知りたがるのは探偵の性か。服部」
「ちゃうな。おまえやから気にかかってしゃあないねん。答えてもらおうか、工藤」
 隠しきることが出来なかったのなら、白日の下に晒すしかない。
 そのせいで、二度と彼に会えなくなってしまったとしても、それは自分のせいだ。心の内を顔に出してしまった自分の。

 新一は机の上に身を乗り出して、平次の首に腕を回した。
 そのまま彼の顔を引き寄せる。
「知りたいのか、本当に」
 瞳を覗きこみ、ささやく。
「後悔しても知らねぇぞ」
 知らずにいたほうが、彼は幸せだろう。
「知りたいわ」
 と、平次が答える。

 新一は一瞬息を止めた。
 目を閉じ、平次の唇に自分の唇を押し当てる。
 新一の腕の中、平次の身体が強ばった。
 顔を離し、目を大きく見開いた平次を突き放す。

「こういうことだ。おまえにとっては迷惑な話だよな」
 触れた唇のぬくもりは自分にとっては大切な思い出になるだろう。
 これで終わった。
 だが、意地でも挑発的な笑みは崩さない。
「わかったんなら、俺に近づくな」

 平次の目が剣呑に光った。
 乱暴に胸ぐらを掴まれ、新一の身体が平次に引き寄せられる。勢いで机が揺れ、書類の山が崩れた。
 おい、と抗議をしかけた新一の唇を平次が奪う。

 いきなり仕掛けられた激しい口づけに、とまどう余裕は新一にはなかった。
 いいように口中をなぶられ、頭の芯がかすんでくる。
 逃れようにも、平次の手が新一の後頭部を固定して動けない。
 突き放すはずだった手で、彼のシャツをすがるように掴む。
 早くなる鼓動も、上昇していく体温も、自分ではどうすることも出来なかった。

 不意に平次の唇が離れた。
 自分がこぼした吐息の甘さにも新一は気づけなかった。
 喘ぐように呼吸する新一の耳に、平次が濡れた唇で触れた。
 新一の肩が大きく揺れる。
 彼は抱きすくめる腕を解くことなく、吐息ごと耳に囁きを吹き込んだ。
「迷惑ちゃうで」
 新一の背筋にしびれるような感覚が走った。
「前からずっとこうしたいと思うてた」

「はっとり」
 かすれた声で名を呼ぶと、彼の顔が目の前に来た。
 瞳が熱っぽく潤んでいるのは、彼のなかにもキスの余韻が残っているせいだろう。
「おまえほんとに」
「めちゃめちゃマジや」
 言うなり、平次は新一の唇をついばんだ。

「俺、大学はこっちにするわ。そしたら一緒に暮らそうや」
 笑う平次にようやく新一の理性が戻ってくる。
「絶対受かれよ」
「任せとき」
 平次を抱き寄せようとして、新一の肘が書類の山を崩した。
「今はこれが優先か」
「せやな。ま、続きはゆっくり今晩な」
 平次が余裕を見せてにやりと笑う。

 くすぶる熱を煽られて、新一は悔し紛れに机の下で彼の足を蹴飛ばした。
 平次が大げさに悲鳴を上げる。
 新一はザマミロと笑って見せて、書類に手を伸ばした。
 平次もまた崩れた山から一冊取り出す。
「さっさと済まそうな」
「鍵、開けておかないと高木刑事が入れないぞ」
 上機嫌の平次にドアを指し示す。
 肩をすくめて平次がそれを開けに行く。

 新一は彼の背中に目を細めた。
 しなやかで力強い、悔しくなるような男の背。
 抱き寄せられた腕の力と翻弄されたキスが新一のなかに甦る。
 まだ身体にこもる熱は冷めない。
 今夜はきっと暑い夜になる。


 

思ふには忍ぶることぞ負けにける 色にはいでじと思ひしものを

古今和歌集 巻第十一 恋歌一 503 読み人知らず

とうとう恋しく思う心に忍ぶ心が負けてしまった、顔色には出すまいと思っていたのに。

  

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