春雨 第三話

 

起きもせず ねもせで夜を あかしては

春の物とて ながめくらしつ

 


 ふと目が覚めた。
 ぼんやりと開いた目で天井を眺める。
 かすかに雨の音が聞こえた。
 新一はゆっくりと寝返りを打った。
 閉められたカーテンの隙間はうす暗い。雨が降っているからなのか、日が暮れているせいなのか。新一には判然としない。
 寝苦しいままうつらうつらとし、時間の感覚が乏しくなっている。

 昨日からの熱は、まだ引いていない。
 枕元の窓際には、背もたれに毛布を掛けた椅子がある。
 これまで目が覚めるたびにそこにいた、平次の姿はない。
 新一はため息をついた。その息も熱い。

 遠慮がちなノックの音がした。
 新一が首を巡らせると、扉を開いた平次と目があった。
「起きとったんか」
 忍びやかな足取りで、平次は新一の枕元に立った。
 喉の渇きは? 食欲は? と彼はささやくように尋ねてくる。普段の賑やかさが嘘のようだ。
 それらを無視して、新一は時刻を尋ねた。
「そろそろ夕方になるところや」
 平次がカーテンを開く。
 曇った空は、それでも新一の目にはまぶしかった。

「雨、まだ降っているのか」
「降ったりやんだりしとる」
 また降り出したようや。
 外を眺めながら、平次が答える。
 目を細めている新一に気づいて、彼はカーテンを閉めようとした。
「そのままでいい。閉めきられていると気が滅入る」
「明るいと寝にくいやろ」
 新一は首を振って、なお閉めようとした彼の手を止めさせた。

 枕元に歩み寄ってくる平次を、新一は見つめた。
「どうや、熱は」
 平次の手が額に乗る。
 剣道の有段者である彼の手のひらは硬い。
 だが、新一にとっては何よりも心地よいものだ。
「冷たい手だ」
「熱、引いとらんな」
 新一は目を閉じて、ため息をつく平次の手を自分の手で押さえた。
 もう少しこのまま触れていたい。

「顔も赤いで」
「熱があるからな」
 平次がもう片方の手の甲で、新一の頬を撫でた。
 まぶたを開くと彼と目が合う。
 平次はただ優しい目をしていた。
 昨日、やはりこうして目が合った。冷たい彼の手に、自分の熱い手を重ねて、視線が絡んだ。

 あのときの彼は、熱を孕んだ目をしていた。
 身体の中心を炙られるような目だった。
 思い返すだけで、心臓が暴れる。
 あの目は風邪の熱に浮かされて見た幻ではなかったと、新一は信じている。
 それなのに今、彼の瞳は穏やかだ。
 包み込むようないたわりだけが読みとれる。

「服部」
 勘違いではなかったはずだ。
 同じ想いを抱いているはずだ。
 彼もまた、自分を。
「なんや」
 答えはやはり穏やかだ。
 新一は言葉に窮した。
 なにを問いただすべきかわからない。

 平次の目がますます優しくなった。
「起きたんなら、なんか食うか」
「食欲ねぇ」
「あかんて。腹にもの入れんと、薬も飲めんやろ」
 粥作ってくるわ。
 額から平次の手のひらが離れていく。
 追った新一の指先を彼は握った。

「はよ治し」
 細めた平次の目が、一瞬熱を帯びた。
 新一の指を握る彼の手に力がこもる。
「治ってからやろ?」
 哀しいほど清々しい笑みを平次が浮かべる。
 新一の手を布団の中にしまい込んでから、彼は部屋を出ていった。

 治ってから。
 あのときも彼はそういった。
 答えをはぐらかしているわけではない。
 彼は自分から逃げない。
 それはわかっている。
 だが新一は、今すぐ答えが欲しかった。
 楽になりたかった。
 しかし、彼が一度決めたことを翻すとも思えなかった。

 平次の消えた扉を見つめ、新一は寝返りを打った。
 窓の外は曇天だ。雨粒は見えない。
 それでも雨の音は部屋の中に忍び込んでくる。
 自分の思考も、平次の態度も、なにもかもが雨に霞んでいるようだ。
 熱の残る身体を抱いて、新一は暗い雨雲をじっと眺めた。


 

起きもせずねもせで夜をあかしては 春の物とてながめくらしつ

古今和歌集 巻第十三 恋歌三 616 在原業平

起きているわけでも寝ているわけでもないまま夜を明かして、長雨(ながあめ=ながめ)を春の物として物思いに沈みながら眺めて過ごしました。

  

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