春雨 第四話

 

残りなく ちるぞめでたき 桜花

有りて世の中 はての憂ければ

 



 平次は捜査一課の扉を閉め、ひとつ息を吐き出した。
 密室で殺人事件が起きたと連絡がきたのは、平次が朝食の後かたづけを終えた直後だった。
 携帯電話に出た新一の目が輝くのを見て、平次は慌ててそれを奪い取った。当然蹴られたのだが、まだ微熱の残る彼を外出させるわけには行かなかった。
 もうすぐ彼の風邪は治る。
 明日にはきっと治っているだろう。

 ――治ったら話す。
 そう約束して、平次は新一の看病を続けてきた。
 彼の体調が万全となったなら、平次は新一に自分の抱え続けてきた想いを告げなければならない。
 玉砕はもとより覚悟の上だ。
 そもそもの発端を作ってしまったのは自分。
 友人としてでも彼の側にあり続けたいと願っていたというのに、想いの欠片を新一に知られるという失態を犯したのは自分だ。

 新一は謎を謎のままにしておくような事を好まない。
 その謎が自分に関することとあって、よけいに真相を知りたがっている。
 なにが起きようと、あくまで真実を求める。
 それが新一という探偵で、平次の惚れた男なのだ。

 廊下の突き当たりの窓から外を覗くと、ようやく切れてきた雨雲の隙間から夕焼けが射していた。明日からは晴れると天気予報も告げている。
「なんだ。もう終わったのか?」
 平次ははじかれたように振り返った。
「工藤!」
 家で寝ているはずの新一が廊下に立っていた。
「なんでここにおんねん」
「探偵だからな。事件があればここに来る」
 一瞬平次はまた新たに事件が起きたのかと思った。だがそうでないことは、今まで捜査一課にいた自分がよく知っている。

「そういうことを聞いとるんちゃうわ」
 まだ熱が。
 言いかけた平次の手首を無造作に新一が掴んだ。そのまま自分の額に平次の手のひらを押しつける。
「もう引いた」
 手のひらの下から、新一が笑う。
 その顔色がまだ悪いように見えたのは、平次の心配のしすぎか。
 だが、確かに伝わってくる熱は朝より低く感じる。

「風邪治ったぜ。服部」
 手首を放し、新一が平次を見据えた。
 もう逃がさないと彼の目が語る。
「そらよかった」
 逃げる気など毛頭ない。
 すべてを話す心構えも出来ている。

「家で待っといてくれたらよかったんやで。動くのしんどくないんか」
「待つのは性に合わねぇ。雨もやんだし、散歩がてら出てきてみたんだ。捜査が難航しているのなら、飛び入りする気だったんだけどな」
 予想通り終わってたけど。
 新一は笑って平次を手招いた。

 てっきり家に帰るものだと思っていた平次を、彼は休憩所に誘う。
「ここでいい」
「家の方が落ち着くと思うんやけど」
「ずっと待たされていたんだ」
 今すぐ聞きたい、と彼は言う。
 一本ずつ缶コーヒーを手にして、ふたりは休憩所の硬いパイプ椅子に座った。
 目の前に並ぶ自動販売機の列に、時折ひとが立ち寄っていく。ふたりはしばらく無言でコーヒーを飲んでいた。

 人影が途絶えたところで、平次は口火を切った。
「どっから話そか」
「まず、結論を言え」
 ひたと新一が見つめてくる。
 平次はその瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
 もうなにも隠す必要はない。

「惚れとる」
 新一が息を飲んだ。
「俺はおまえにめっちゃ惚れとる」
 新一は目を見開いたまま、なにも言わない。
「進学で上京してきたんも、おまえの側におりたかったからや。いつでも顔の見られるとこにおりたかった」
 平次は話し出すと止まらなくなった。

「おまえが俺のことを探偵として評価してくれとるんは、ほんま嬉しかった。相棒ゆうてくれとったって聞いたときには、信じられへんほど嬉しかったんやで」
 抱え込んだ想いが、堰を切ってあふれる。
 側にいたくて上京して、会うたびに想いは募った。
 話せば話すほど新一に惹かれた。
 自分を魅了する笑顔の前で、理性がどれほど保っただろうか。
 遅かれ早かれ、勘づかれていたに違いない。
 彼を誰かに奪われる不安や嫉妬に、自分がどれだけ耐えられたかもわからない。
 苦しんだその果てに、彼を失うような暴挙に出ていたかもしれない。
 それぐらいなら今ここで、すべてをさらけ出してしまう方がいい。

 新一が片手で顔を覆って、うつむいた。
 平次は口を閉ざした。
 伝えるべき事は伝えた。
 もう思い残すことはない。
 思い出して缶コーヒーを飲み干すと、平次は新一に声をかけた。

「ごめんな。ほんまに。相棒のまんまでおりたかったんやけど、そういうわけにはいかんようになってしもた。もう連絡せえへんよ。大学もちゃうし、この先会わんでもすむやろ。今工藤のとこに置かしてもろてる荷物だけ、取りに行かせてもらうな。それで終いや」
 新一が顔を上げるのを横目に、平次は立ち上がった。
 もう終わった。
 工藤邸に戻って荷物を引き揚げてしまえば、それで彼との関係は切れるだろう。
 携帯電話のメモリから彼のデータを消すまでには、きっと時間がかかるだろうが。

「けど、事件現場とか警察署で会うてまうのだけは許してな。俺も探偵はやめられへんねん」
 いきなり新一が平次の手首を掴んだ。思い切り引かれてパイプ椅子に座り込む。
「探偵はやめられないくせに、俺との関係はやめられるのかよ」
 紅潮した新一に睨みつけられて、平次の反論が遅れた。
「その程度なのかよ。そんな簡単に諦められるようなもんなのかよ」
「簡単ちゃうわ」
 親友に惚れてしまったと自覚して以来、悩まなかった日はない。
「俺がどんだけ……」
 言いかけて、平次は新一の目に拒絶がないことに気がついた。

 もしかして、という希望が平次の中に湧く。
 見つめる平次に新一が照れたように笑う。
「俺もだ」
 ささやく声が平次には大きく聞こえた。
「だから、ずっと相棒のままでもいろ」
 恋人となったこれからも。
 平次は新一の頬に手を伸ばしかけ、止めた。
 新一が平次の後ろに目をやる。
 平次の耳も近づいてくる複数の足音を拾っていた。

「帰ろうぜ」
 新一が立ち上がる。
 平次に当然否はなかった。
 誰にも邪魔されることのない新一の家で、話したいことがたくさんある。
 平次の手首を掴んだまま、新一が先に立って歩き出す。
 逃がさないとでもいうように、彼の手には力がこもっている。
 引かれるように歩きながら、平次は彼の赤い耳にもう一度ささやいた。
「惚れてんで、工藤」


 

残りなくちるぞめでたき 桜花 有りて世の中はての憂ければ

古今和歌集 巻第二 春歌下 71 読み人知らず

桜の花のように、散るときには潔く散ってしまうのがいい。たいがい世の中のことは最後が見苦しいものだから。

  

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