駅を出て初めて、新一は雨が降り出していたことを知った。
車内でもホームでも、ぼんやりとしていて気づかなかった。
駅の庇の下にいても細かな春雨が吹き付けてくる。風もまた冷たい。背筋がぞくぞくとする。
新一は軽くため息をついて空を見上げた。傘はない。
低くたれ込めた雲は重たげだ。天気予報通り明日まで降りつづけるのだろう。駅前ロータリーの人々も、雨を避け小走りに駅に駆け込む人、折り畳みの傘を鞄から取り出し町中へ出ていく人、様々だ。春休みのせいか、学生風の集団がちらほらと見える。
新一は雨の中を歩き出した。新しい傘をわざわざ買う気も起きない。
あっという間に全身を細かな水滴が覆っていく。
――あなたには一生わからない。
女の言葉が耳から離れない。
濡れていく髪が、少しうつむく新一の額に張り付いた。
刑事に引かれていきながら、彼女は自分の犯行を暴いた探偵に向かって、落ち着いた声で言ったのだ。
『あなたのように恵まれている人には、私の気持ちなんて絶対にわからない。顔も頭も良くて、警察からも信頼されているようなあなたには、誰からも愛されない私の寂しさなんて、わからないのよ』
愛した男を手にかけた女は、静かに泣いていた。両手にまだ彼の血が付いているように見つめ、微笑みながら頬をぬらしていた。
――何でもわかっているような顔、しないでよ。
わかる、と新一は思った。
少なくとも愛するものに愛されない寂しさだけはわかる。
友人としてどれほど大事にされていても、自分が求めているものは友情ではない。そのずれが、苦しみを生む。
彼女と違うのはただ、告白すら出来ないということだ。
想いを告げれば、すなわち相手を失う事になる。
自分の想いが受け入れられることはない。
髪から滴る雨が新一の頬をぬらした。
「工藤!」
目を上げると、平次が立っていた。
「なにしてんねん。傘もささんと!」
足を止めた新一に、駆け寄ってくる。
自分の差していた傘をさしかけ、平次が新一の顔を覗きこむ。そして、なぜかほっとした顔を見せた。
「サンキュ。なんでおまえ、こんなところにいるんだよ」
彼がいたのは、独り暮らしをしている彼の家とはまったく別方向だ。むしろ新一の家が近い。
「新刊買ったついでにおまえのとこ寄ったんや。そしたら留守やし」
平次は抱えていた書店の袋を示した。
そういえば自分も買いに行くはずだったと新一は思った。その途中で事件に巻き込まれたのだ。おかげで本のことなどすっかり忘れていた。
「携帯には出てくれへんし。事件かもしれへんって、高木さんにでも電話したろうかと思とったら、びしょぬれで歩いとるし」
携帯電話にかけたと聞いて、新一はポケットを確かめた。着信のマークが出ている。
「悪い。捜査中、マナーモードだったんで、気づかなかった」
今日は朝から集中力が散漫だ。事件のときは気を張っていたのでミスはしなかったが、どうにもぼんやりとする。だから、いつもなら跳ね返せる容疑者の言葉が、気にかかるのかも知れない。
「やっぱ事件やったんかい。呼んでくれや」
「たまたま行きあったんだよ。巻き込まれたようなもんだ。それに単純な事件で、探偵の出番はあまりなかったしな」
平次は進学のために上京してきたばかりだ。春休みの間はバイトを探しながら、独り暮らしに慣れるために奮闘しているという。
送ったると、新一を促して平次が歩き出す。
ひとつ傘の下、身を寄せ合って歩くのは、正直に言えば嬉しい。しかし、新一は平次ならば誰が相手であれ、同じ事をするだろうと思っていた。傘のない相手を家まで送ることなど、彼にとっては当然のことなのだ。
ふと新一はため息をつく。
いくら優しい男でも、同性からの想いは受け入れられないだろう。
きっぱりと断って、自分の前から姿を消す。彼の優しさは、そんな行動で現れるに違いない。
怒らんといてな、と前置きして彼はいった。
「なんかなぁ、工藤が泣いているように見えてん。さっき。近寄って気のせいやったて、雨で濡れとっただけやったって、わかったんやけど」
「なんで俺が泣くんだよ。理由がねぇぞ」
泣いていたのは、彼女だ。
自分は泣くことも出来ない。
「せやから、怒らんといてゆうたのに」
平次がすねる。
新一は軽く笑った。
泣いて、泣きじゃくって、それで隣の男の心が手にはいるのなら、自分は人目をはばからず声を上げて泣いてやる。
濡れた前髪から雨が滴り、新一の目をかすめて頬に流れた。
水滴を拭った新一の顔を平次が覗きこむ。
また泣いているようにでも見えたのだろうか。
「雨だよ」
「わかっとるって。せやけど自分、顔色悪くないか」
すっと平次の手が新一の額に伸びた。
ひやりとした手のひらが触れて、新一は思わずそれを振り払った。
「熱、あるで」
平次の表情が厳しくなった。
新一は自分でも額に触ってみた。確かに熱い。もしかすると朝からの不調は、発熱のせいだったのかも知れない。背筋が寒いのは、気温のせいでなく、悪寒か。
「熱あるのに、雨ん中歩いとったんか」
「おまえに言われるまで気づかなかったよ」
「自覚せいよ。ほんま自分の身体に疎いやっちゃな」
熱があると自覚したとたん、身体が重くだるくなる。
急ぐで、と平次が足を速めた。
ついていこうとして、新一はふらついた。
「大丈夫か」
平次がとっさに新一の身体を支える。
「大丈夫だ。熱があるなんて知らないままなら、普通にいられたはずだったんだぜ。知ったとたんに病人になったじゃねぇか。病は気からって言うだろ」
「あんなぁ、工藤はとっくに病人やったんや! 気からもなんも関係ないわ。気づかんと雨の中ふらふらしとって、帰って寝込んで肺炎にでもなったらどないする気や。まったく」
耳元で平次がまくし立てる。
新一は小さく笑った。
「ほんまに大丈夫なんか。負ぶって帰ったろうか」
反論のない新一に平次が心配げに尋ねる。
「もう近いんだし、そこまでしてくれなくていい。ただ、ちょっと肩を貸せ。ああ、でもそれじゃ、おまえの服が濡れるな」
「かまへんって。遠慮なんかええわ。そんなん工藤らしゅうないで」
笑いながら平次が新一の身体を抱き寄せる。じんわりと彼の身体のぬくもりが伝わってくるような気がした。
平次に寄りかかって、新一はゆっくりと歩き出した。
うつむく新一を平次が気遣うように見る。
しばらく経って、新一はだんだん目を開けているのが億劫になってきた。まぶたがやけに重く感じる。
平次が足を止めた。
「負ぶったる」
宣言すると、新一の反論も抵抗も無視して、彼は新一を背負い上げた。
傘と本の袋を無理矢理持たされて、新一は平次の背で困惑していた。恥ずかしいのもある。嬉しいのもある。
だが、それよりも彼の優しさが切なかった。
「さ、帰るで」
ぐいぐいと足早に平次は新一の家に向かう。
すれ違う人に顔を見られないように、新一は深く傘を差した。
気づかなければ良かったのだ。
体調不良と一緒だ。
自覚さえしなければ楽だったに違いない。
他の人間とは違う存在なのだと漠然と思っているだけなら、こんなに苦しむことはなかった。
それまでは友情だけで満足できていたのに、今でもその友情は変わらずあるというのに、自分は貪欲にその先を求めてしまうようになった。
平次の背に身体を預け、新一は目を閉じていた。傘を叩く雨音が遠く聞こえる。
病気を理由に優しい男の厚意に甘える。
卑怯でもうれしいと思う自分を、もうひとりの自分が嗤っていた。
「冷た」
平次が首をすくめた。
「悪い、俺の髪だな」
滴った雫が平次の首筋に落ちたのだろう。
「工藤が泣いとらんならええよ」
「ばーろ」
いつものセリフに彼は笑う。
「もうちょっとの辛抱やで」
病で弱った心に平次の気遣いが染みこんでくる。
そしてまた自分は彼に惚れ直す。
会うたびに惚れて、会うたびに苦しくなる。
新一の頬をまた雫が伝い落ちる。
今なら泣いてもわからないなと、新一は思った。
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