夏むしをなにかいひけん 心から

我も思ひにもえぬべらなり

 



 深夜の静寂を破る騒音が常夜灯に照らされた部屋に響いている。
 平次は音源を睨んだ。
 当の小五郎は気持ちよさそうに眠っている。
 上京するたびに世話になる毛利家だが、毎回夜の騒音には閉口する。
 鼻をつまんでやろうか、それとも口を塞いでやろうかと、平次は半ば真剣に考えた。彼のいびきのおかげでまったく眠れないのだ。とうに日付は変わっている。
 いびきの合間に穏やかな寝息が聞こえる。
 だが、平次はそれを気にしないように努めていた。その眠る人も見ないようにしていた。気にし始めると、ますます眠れなくなる。
 しかし、一度彼を視界に入れてしまうと、視線が吸い寄せられてしまう。そうなってしまえば、外せない。

 子供の姿の親友が、自分の横で眠っている。
 慣れているのか、小五郎のいびきも彼の眠りを妨げるようなことはないようだ。
 今の姿が仮のものであると証明する瞳は閉じられ、寝顔はまさに子供のものだ。あどけないといってもいい。
 眼鏡を外した顔には、高校生の彼の面影がある。本人なのだから当たり前なのだが。
 平次は想い人の面影を息を殺して見つめた。
 平次の夢に、彼はよく出てくる。
 見慣れているのは子供の姿なのに、夢の中の彼はいつも本来の姿だった。数えるほどしか見たことのない、工藤新一の姿で彼は平次の前に現れる。

 夏布団を蹴飛ばして、彼が平次の方に転がってきた。距離がぐっと縮まる。
 平次は息を飲んだ。
 少し腕を伸ばせば、小さな身体を抱き込める。
 夢であれば、迷うことなく腕を伸ばすだろう。
 新一を抱くのに、ためらうことはない。
 もう何度、彼を組み敷いていることか。
 平次の腕の中で、新一は乱れた姿を見せてくれる。
 すべては平次の心が求める、新一の姿だ。
 押さえ込んだ想いが見せる、みだらな夢。
 正夢になることは、おそらくない。

 平次はそっと腕を伸ばし、彼の頬に触れた。
 柔らかな子供の肌。
 大人に近づいた自分の肌とはまったく違う。
 平次は奥歯をかみしめた。
 胸の奥に苦いものがせり上がってくる。
 本来なら、同い年である彼もまた自分と同じ肌であったはずなのに。
 警察の信頼も厚い、高校生探偵であったのに。
 今はこうして子供の身体に押し込められている。
 一番悔しいのは新一であるはずだ。
 平次にはそのほんの一部しかわかりはしない。

 指先を頬から離して、眠る彼を抱き寄せた。
 片腕でも簡単に抱き込めてしまう、小さな身体。
 平次は指先で子供の髪を梳った。やはり、細くて柔らかい。
 愛おしいと素直に思う。
 もし、今腕の中にいるのが本来の姿の新一だったのなら、平次は穏やかな気持ちでいることなど出来なかっただろう。
 夢の中でしたように、欲望のままに彼を求めてしまうことは間違いない。

 コナンが身じろぎ、ぼんやりと目を開けた。
 眠たげながらも疑問符を浮かべる瞳に笑いかける。
「おっさんのいびきがな」
 ささやくとかすかに苦笑して、彼はまた目を閉じた。
 そのまま、彼は眠りの世界に戻ってしまう。
 今度は平次が苦笑を浮かべる番だった。

 抱かれていることには、疑問を持たなかったのだろうか。
 鼻先が触れ合うほど近くにいるのを、不思議には思わなかったのだろうか。
 この距離を許されているのだろうか。

 平次の苦笑に苦みが増す。
 残酷だ。
 いっそのこと拒絶してくれた方が優しい。
 暑苦しいと蹴飛ばして、腕から逃げてくれればいい。
 自分から彼を手放すことは出来ないのだから。

 コナンの額にかかる髪をかきあげて、あきることなく寝顔を見つめる。
 こうして触れた記憶が平次の中で勝手に新一にすり替わり、夢になってしまうということはわかっていたが、やめることはできなかった。
 触れれば触れるだけ、自分は追いつめられていく。
 追いつめているのも、また自分。

 それでも平次は新一を求め続けてしまう。
 惹かれる心は、もう引き返せないところまできている。
 このまま新一に向かって堕ちていくしかない。
 彼が子供の姿でいる間が、平次に許されている幸福な時間だ。
 戻ってしまえばもう、新一を手に入れるか、自分の心を失うか、そのどちらかしか道はない。
 新一に戻っても自分の腕の中でこうして眠って欲しいと、平次は祈りながらコナンの髪を梳いていた。


 

夏むしをなにかいひけん 心から我も思ひにもえぬべらなり

古今和歌集 巻第十二 恋歌二 600 凡河内躬恒 

火に飛び込んでいく夏虫をなぜ馬鹿になどしたのだろう。今、自分も夏虫と同じで、自ら飛び込んだあなたへの思い(ひ=火)に身を焦がしている。

  

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