月に背いて 2
乱れんと思ふ我ならなくに
新一は平次を支えてようやく階段の上にたどり着いた。情けのないことに息が切れている。 「部屋まであと少しだぞ」 酔いつぶれ足下のおぼつかない平次に話しかける。しかし、肩を貸した彼からは頷いたような、うなったような声が返ってくるだけだ。 新一が彼と酒を飲んだ夜は何度もある。彼が工藤邸に住むようになってからだけでも、回数など覚えていない。 いつもは新一が先に酔う。 平次が先に酔いつぶれるいうのは、初めてのことだ。 新一が誘った庭での月見酒の席で、彼はいつも以上に賑やかに軽口を叩きながら、ハイペースで酒を飲んでいた。同居解消の最後の夜を楽しく過ごしてくれているようで、新一としてはうれしかった。ただ、時折見せる寂しそうな横顔と、月を見る睨むようなきついまなざしが気にかかった。 月見酒を始める少し前、いや、一ヶ月ほど前からだっただろうか、新一は平次の様子がどことなくおかしいことに気がついていた。落ち込んでいるのを隠した空元気が目に付くようになったのだ。悩みでもあるのかと、さりげなく酒の席で水を向けてもはぐらかされる。話せないのか、話したくないのか。どちらにせよ触れてほしくないようだったので、新一は平次をそっとしておいた。 だから今夜も酒のペースを咎めずにいたら、いきなり彼は敷物の上に伸びてしまったのだ。呂律の回らない舌で意味の繋がらない言葉を話している平次を見下ろして、新一はあきれを通り越して本気で驚いたのだ。 部屋の前で、着いたぞ、と言っても、返ってくるのはやはりうなり声。 苦笑とともにため息をはき出して、新一は平次の部屋の扉を開いた。 先ほどと違うのは、カーテンが閉まっていることだけだ。引っ越しを前に、部屋はきれいに片づけられている。暮らしていたときの様子をよく知っているだけに、寂しい光景だ。 部屋の中まで平次を連れて行き、新一はベッドに彼を座らせた。 「ベッドだぞ、服部」 「ベッド」 彼がつぶやいた。 抱きかかえていた腕を解きながら、新一は平次を見た。 「そうだよ。着いたぜ」 彼と目があった。 熱を孕んだ目にぶつかり、新一は驚いて一瞬動きを止めた。 「くどう」 言うなり、平次が動いた。 引きづり込まれるようにベッドに押し倒される。 「服部!」 思わず押しのけようとした腕も、まとめて平次に抱き込まれる。 焦った新一はもがいたが、動きがとれない。 「くどう」 新一の首筋に顔を埋めた平次がつぶやく。 押し殺したような声だった。 「なんだよ、服部」 暴れるのをやめて、新一は問いかけた。 今夜の平次はおかしい。 先ほどは窓辺でいきなり抱きしめられた。 そして今度はベッドの上でだ。 「おい、服部」 抱きしめる腕はそのままに、平次が顔を上げた。上から新一の顔をのぞき込んでくる。 先ほどの熱は、もう目の中にない。 代わりに平次はひどくつらそうな顔をしていた。 「なんでやろ」 彼は独り言のように言う。 新一は黙って平次の目を見つめ返した。 「なんで、おまえなんやろ」 腕を解いた彼は、指先で新一の額の髪をよける。 「なにが、なんでなんだよ」 「どうして、工藤やないとあかんかったんやろ」 問いの答えは返ってこない。 「なんで、よりによって、工藤やったんやろ」 腕の弛んだ隙にと、新一は逃れるために身をよじった。 平次が覆い被さってくる。 横を向いた首筋に、平次の唇が落ちた。 その唇がささやく。 新一の身体にしびれるような感触が走った。 「やめろ、服部!」 思わず叫んだ新一は、思い切り彼を押しのけて転がるようにベッドから降りた。 息を荒げてベッドを振り返った新一が見たのは、寝息を立てている平次だった。 安らかとはほど遠い、苦悶するような顔で彼は眠っていた。 首筋を手で強く押さえる。 燃えるように熱い。 新一はその場に座り込んだ。 最後のささやきが耳に残っている。 ――なんで惚れてしもうたんやろ。 「なんでって、俺がおまえに聞きてぇよ」 寝顔に向かってつぶやく。 もちろん答えはない。 「惚れる、ってなんだよ。俺は男だぞ。おまえだって男じゃねぇか」 そういう世界の知識はある。 だが、平次はノーマルだったはずだ。 初恋の相手が大阪にいる幼なじみだということも知っている。 彼女を作ろうとしないのは、ただ単に事件を追いかける彼にとって、女が二の次になっているだけだと思っていた。 新一はゆっくりと立ち上がった。 揺れるカーテンが目に入った。 窓が開いているらしい。 閉めようと外を見ると、庭の宴のあとが見える。 片付けをしないといけない。 新一は窓を閉めると、もう一度平次を見た。 苦しそうな顔だ。 見ていられず、新一は平次から目を背けた。 部屋をあとにし、音を立てないようにドアを閉める。 新一は足音を殺して階段を下りた。 月の明るい庭に、宴の残骸がある。 倒れた一升瓶に、底に少し残っているだけのウィスキーのボトル。氷の溶けきったアイスキーパーに、半分以上残った水のペットボトル。転がるビールや酎ハイの空き缶。テーブル代わりの盆に乗ったグラス。つまみにしていたお菓子はずいぶん残ったままだ。 ビニールシートの上に散乱する空き缶を、新一は一つ一つ拾い上げていった。 飲み会の後片づけは、いつも平次がしていた。 必ずと言っていいほど、先に新一が酔いつぶれてしまうからだ。 抱きかかえられるように部屋に運ばれ、朝起きだしたときにはリビングはきれいに片づいていた。夜の名残など、キッチンにもなかった。 ――服部。 新一は首筋に手をやった。 抱えていた空き缶が腕からこぼれ落ちる。 新一はビニールシートに膝を突き、空を見上げた。 月が皓々と照っている。 涼しい風が新一の身体を撫でていく。 平次の触れた首筋が、火傷でもしたようにひりつく。 「なんで、俺なんかに惚れるんだよ」 月に向かって新一はつぶやいた。 流れる雲が月を隠す。 光が翳り、吹き抜ける風が冷たさを増す。 落ちた木の葉がシートの上を転がっていった。 「だから、おまえは出ていくんだな」 様子のおかしくなった夏頃から、彼は悩んでいたに違いない。 明るい笑顔の裏に、あの苦悶の表情を押し隠していたのだろう。 抱きしめられ、ベッドに押し倒された。 押しつけられた唇の感触は今も生々しい。 彼は自分に欲情する。 手のひらの下でキスの名残がうずく。 新一は翳る月を睨んだ。 親友はこの家を出ていく。 自分から離れて行こうとしている。 おそらくそれは本心からではない。 なぜなら、「寂しい」と漏らした自分に、彼は動揺していた。 欲情を煽る対象から離れたいだけならば、そんなことはしないだろう。 しないと、新一は思う。 ――服部。 新一は彼の眠る部屋を見上げた。 彼の気持ちを知った今でも、彼が出ていくことを寂しいと思う自分がいる。 彼の想いを気持ちが悪い、迷惑だと切り捨てられればよかった。 「顔も見たくねぇと、思えないんだよ」 あのとき彼が眠ってしまわずに、酔った勢いのまま抱かれていたかもしれないというのに、それでも新一は嫌うことも憎むことも出来なかった。裏切られたとも思わなかった。 彼が自分を抱く気になれば、いつでも出来た。 酔った自分は無防備だっただろうし、素面だったとしても腕力では彼の方が一枚も二枚も上だ。自分の抵抗を奪うことなど、彼にとっては簡単だっただろう。 しかし、彼はそうしなかった。 この先もしないがために、悩み、出ていくことを決めた。 自分を傷つける前に。 今の関係を壊してしまわぬうちに。 「服部」 親友を、相棒を失いたくはない。 自分に欲情する彼を、嫌うことも出来ない。 新一は目を落とす。 月の光がくっきりと新一の影をシートの上に落としていた。 彼の抱えた想いを知っていながら、今までのようにそばにいて欲しいと願うのは、酷だろう。 自分のわがままの押しつけだ。 しかし、このまま彼が離れていくのは、阻止したい。 「俺はどうしたら」 焼け付くような首筋を押さえたまま、新一は誰にともなくつぶやく。 うつろな声を風がさらっていった。
陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり たれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに
古今和歌集 巻第十四 恋歌四 724 河原左大臣(源融)
陸奥の信夫(しのぶ)の布模様のように心が乱れるのは、私自身のせいではなく、君ゆえなのです。 百人一首では「乱れそめにし」となっています。
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