月に背いて 1

このまより もりくる月のかげ見れば

心づくしの秋はきにけり

 



 平次はカーテンを引き開けた。
 昇りかけている満月の光が、部屋に差し込んでくる。
 日の沈む頃まで空一面を覆っていた雲は、切れ端となって漂っているようだ。
 こもった空気を入れ換えようと、平次は窓を開けた。
 ようやく涼しさを感じさせるようになった風が、庭の虫の声を運んでくる。
 窓枠に手を掛け、平次は月を振り仰いだ。
 工藤邸に暮らして、約半年。
 今夜がこの部屋で眠る最後の日だ。
 明日、平次は工藤邸を出る。

 春先、平次は引っ越しラッシュにともなう部屋探し競争に出遅れた。条件に合う部屋をなかなか見つけられずにいたところを、見かねた新一が同居を勧めてくれたのだ。
 大学を卒業するまでいればいいという彼に、いい部屋が見つかるまでと平次は断った。
 いくら親友といえど、そこまで甘えていいとは思えなかったからだ。

 新一との同居は、始めてみると楽しかった。
 気も合うし、当然のように話も合う。大学が違うせいもあってすれ違いもあったが、お互いあまり気を遣わずにもすんだ。多少の喧嘩もあったけれど、後を引くようなものはなかった。
 だが、と平次は目を落とす。
 バルコニーの向こうには、広い庭が見えている。月が庭木を明るく照らし、かえって影の闇が濃い。
 本当に楽しくて幸せな生活だったからこそ、平次はこの家を出ていかなければならない。

 夏の盛り、平次は新一に惚れている自分に気が付いた。
 親友に向かう想いを認めたくなくて、平次は必死に足掻いた。
 気の迷いか何かだと思いこもうとした。思いたかった。
 しかし、シャワーを浴びたあとの半裸の姿、濡れた髪。酒に酔った赤い顔や寝顔に、欲情を掻き立てられた。推理小説を読む真剣な横顔、トリックを語る得意げな顔にまで、そそられるようになった。

 だから平次は、楽しさにかまけさぼり気味だった部屋探しを、真剣に始めたのだ。
 新一から離れるために。
 そばに居続けるのは、きっと彼のためにならない。
 自分のためにも、おそらくならない。

 ノックの音がして、新一の声がした。
 すぐ戻るといいながら部屋に戻ったきり、リビングに帰ってこない平次の様子を見に来たのだろう。
 どうぞと答えると同時に、ドアが開く。
 廊下の灯りが部屋を照らした。
「なにやっているんだよ。電気もつけずに」
 荷物のチェックは済んだのかと、彼は部屋の隅に置かれた段ボールを見やる。明日は彼に車を出して貰って、荷物を運ぶことになっている。家具はないのだ。おそらく一度で済むだろう。

「月がな」
 窓辺に立ったまま平次は空を指さした。
 新一がドアを閉めると、暗い部屋はまた月明かりだけになる。
 月は窓近くの庭木をかすめるように昇ってきている。色づく前の木の葉がシルエットになって揺れている。
 月光が平次を照らす。
 闇を照らす美しい光。
 だが古来、西洋では月は狂気を孕むものとされてきた。
 ひとの気を狂わす、けざやかな白い月。

 新一が平次の横に立った。
 彼も月明かりに照らされる。
「ああ、中秋の名月だったか、今夜は」
 庭に出て月見酒でもするかと、新一が笑う。
 平次は曖昧に頷いた。
 酔うと彼は色気が増す。笑顔も感情表現も幼くなってしまうのだ。そして無防備に平次に寄り掛かるようにして眠ってしまう。

「最後なんだし、いいじゃねぇか」
 快諾が返ってこないのが意外なのか、新一が平次の顔をのぞき込む。
「借りた部屋からだと、ここまでバイクで来ることになるだろ。そうしたら泊まっていく日でないと飲めなくなるぜ」
「そやな」
「そうだ、着替えを何組か置いて行けよ。急遽ここに泊まることがあるかもしれないしな」
 俺のもおまえのところに置いてもらうか。
 独り言のように付け加えた彼に、平次はうなずいた。
 夜風がふたりの間を吹き抜ける。
 束の間の沈黙を、涼やかな虫の声が埋める。

 月を見上げていた新一がぼそりと言った。
「卒業までいるもんだと思っていたぜ」
 視線を月へ投げかけたまま、彼がそっと笑う。
「おかんからちょくちょく部屋を探しとるんかって、催促されとってん」
 これは事実だ。
 母はずっと新一に対して申し訳ないといっていた。
「気にする必要なんてないのにな」
「そういうわけにはいかんのやろ。親としては」
 そんなもんかと新一が苦笑する。
 建前がしっかりあって良かったと平次は思う。出任せの嘘は彼には通用しない。
「明日か」
 彼はつぶやく。

「静かになるな」
 平次は思わず新一を見た。
 横顔が透き通るように白い。
「工藤」
「月見酒するぞ、服部。用意しているから、荷物の最終チェックが終わったら来いよ」
 新一が身を翻す。
 月明かりから出ていきそうになった彼の腕を、平次はとっさに捕らえた。
「静かになる、て」
「おまえはにぎやかな男だからな。きっと落差がでかいと思うんだ。ひとり暮らしには慣れているけど、しばらくは寂しく感じるだろうな」
 自嘲するように笑う新一を、平次は思わず抱き寄せていた。

「おい、服部」
 戸惑ったような声で新一が名を呼ぶが、平次は答えられなかった。
「なんでおまえが、すねた子供みたいな顔になるんだよ」
 抱きしめられながら、新一の手がなだめるように平次の頭を手のひらで軽く叩く。
 子供のような顔はしていないと平次は思う。
 きっと自分は今、ひとを狂わす月の光を浴びて、恋に狂った顔をしている。
 同性の親友を抱き、同じように狂わせてしまいたいと思っている。
 自分と暮らせなくなることを、寂しいといってくれる男の未来を、狂わしてしまうわけにはいかないのに。
 彼の肩越しにベッドが見える。
 平次は固く目を閉じた。

「服部。悪かったって。俺が柄にもないこと言ったから、焦ったんだろ」
 今度は背中をなでられる。
 本当に子供扱いだ。
 自分の腕の中でも、彼は無防備だ。
 抵抗ひとつしない。
「反対、せんかったやん」
 出ていくと言ったとき、彼は驚いてはいたが反対はしなかった。

「初めからその約束だったからな。おい、いい加減放せよ」
 平次は腕の力を抜いた。
 新一が身じろいで腕の中から抜け出た。彼はそのままドアに向かって歩き出す。
 表情を彼に見せたくなかった平次は、月を見上げた。
「反対なんか、出来ねぇよ」
 新一の声が寂しく響いて、平次は拳を握りしめた。手のひらに爪が刺さる。

 庭に月見酒の用意をしておくから来いよ。
 言い置いて、新一は部屋を出ていった。
 平次は重いため息をついて、手のひらを解いた。
 危なかったと思う。
 もし、抱きしめたとき、彼が抵抗していたら、きっと感情を抑えることは出来なかった。
 脇にあるベッドに押し倒していたに違いない。
 それは最悪のシナリオだ。

 月は皓々と平次を照らしてくる。
 狂えというのか。
 平次は月を睨んだ。
 この先、月を見るたびに、きっと彼を思い出す。
 抱きしめた感触や匂いとともに。
 そして、狂おしい思いに駆られることになるのだろう。

 眼下の庭で物音がした。
 見下ろすと人影が見える。
 新一が本当に月見酒の用意をしているらしい。
「そろそろ降りて来いよ」
 月の光を浴びて、彼が手を振る。
 彼には月の魔力は効かないようだ。
 心に闇を抱えていないからか。
「すぐ行くわ」
 平次は手を振り返して、カーテンを閉めた。
 月明かりを遮断する。

 月光の降る庭で、狂わぬように心して、平次は新一の元へ向かった。


 

このまよりもりくる月のかげ見れば 心づくしの秋はきにけり

古今和歌集 巻第四 秋歌上 184 読み人知らず

木の間よりもれてくる月の光を見ると、物思いに心をすり減らす秋が来たのだなと思う。

  

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