ゆたのたゆたに

 

 



 ――なんでなんだろう。

 新一は眠る平次の顔を見つめた。深く穏やかな寝息がかすかに聞こえる。
 平次の横たわるソファを背にして、新一は床に座って本を読んでいた。先ほどまでは確かに平次も本を読んでいたはずなのに、気が付いたら彼は眠っていたのだ。文庫本は腹の上に乗り、片腕はだらりとソファから落ちている。

 同じ大学の他学部に籍を置く平次は、休みごとに新一の家に遊びに来る。今日もそうだ。昼食を外で済ませ、コーヒーを飲みながらのいつもの昼下がり。彼が寝てしまうのは初めてだろう。昨日遅くまで起きていたのか、疲れているのか。とにかくカフェインはまったく効かなかったようだ。
 新一は残りのコーヒーを飲み干した。

 春。平次は進学にともなって上京してきた。
 大学近くに部屋を借り、独り暮らしをしている。
 その彼が上京してきてまずしたことが、告白だった。


 引っ越し業者が運んできた荷物は、たいした量ではなかった。繁忙期の彼らはてきぱきと動いて、さっさと引き上げて行った。次の仕事があるのだろう。
 新一は平次の新居をぐるりと眺めた。
 八畳ほどのフローリングの部屋に、ユニットバスとキッチン。その上にはロフトが付いている。ベランダは狭そうだが、日当たりはよい。
 大学には歩いていける距離だ。おそらく他の部屋も学生が住んでいるのだろう。

「なかなかいい部屋じゃないか」
 上京することを聞いたとき、新一は彼に同居を持ちかけたのだが、彼は部屋をもう契約しているからと断ってきたのだ。確かに新一の家から電車を使って通うより楽だし、敷地内にバイクも止められる屋根付きの駐輪場があるのも見ている。彼にとっては良い条件だろう。
「せやろ」
 床に座り込んだ平次が新一を見上げ、にっと笑う。

 久々に会った彼は高校時代よりも体格が良くなっていた。並んで歩いて視線の高さが違うことに気が付いたのだ。なんとなく悔しくて、すでに一回蹴りを入れてある。
「親戚の知り合いゆうんが前にこの部屋使うててん。俺と入れ違いに卒業して、部屋が空くゆうんを聞いてな。合格がわかったときに予約入れてん」
 美味い飯屋の場所とかの情報もばっちりやで。
 平次は楽しそうだ。
「さて、手伝いの俺としては、なにをすればいいんだ」
「ざっと掃除から頼んでもええか」
 新一は目に付いた掃除機に手を伸ばした。


 あらかた片づいた部屋の中で、新一はローソファに足を投げ出して座っていた。
 隣では同じように平次が伸びている。
 ふたりの手にある缶コーヒーは、平次がそばのコンビニで買い求めてきた物だ。
 時計はそろそろ夕食の時間と告げている。
「おおきに工藤。助かったわ。ひとりやったら寝るまでかかったかもしれん」
「だったら、礼に美味い飯屋でおごってくれ。腹が減った」
「せやな」
 新一に向き直った平次が表情を改めた。

「その前に、ゆうておきたいことがある」
 新一もつられて背もたれから身体を起こした。
「俺は、おまえに、惚れとる」
 噛んで含めるように、平次が言った。
 意味が理解出来なくて目を瞬かせた新一を見て、彼は微苦笑した。
「おまえのことが好きやねん」
 固まる新一に彼は畳みかける。

「せやから、同じ家に住むわけにはいかんかってん。そら一緒におれたらめっちゃ楽しいと思うねんけど、そのうちきっとおまえに触れとうて堪らんようになる」
「それを、なんで、今」
「そら腹を括ったからや。おまえを絶対口説き落とす」
 強気に笑った平次に、新一は目眩を覚えて座ったまま蹴りつけた。


 結局、美味いという飯屋の味は、おかげでさっぱり覚えていない。
 あの日以来、平次は普通に新一のそばにいる。
 共に事件を解き、学び、遊んでいる。
 ふたりきりになったときに、時折好きだの惚れているだのと口にする。人前では決して想いの欠片も見せない。

 ――なんでなんだろう。
 どうして男になんか惚れたのか。
 精悍といってもいい顔だちに、回転の良い頭。剣道の腕も全国レベルだ。探偵としても、警官としても、将来は有望だ。
 実際、平次はもてる。
 彼は口にしないが、この数ヶ月で片手では足りない数の女を振っているらしいという噂が、新一の耳にも入ってくる。

 ――なんでなんだろう。
 どうして自分は彼を避けないんだろう。
 相棒としては最高だ。彼以上に息の合う推理を展開出来る相手はいない。
 だからといって、こうして事件もないのにそばにいることはないはずだ。
 誘ったり誘われたりで、結局一緒にいる時間は他の誰よりも長い。

 新一は本を置いて、平次の寝顔ににじり寄った。
 顔を覗きこむ。
 たまに平次は熱のこもった目をしていることがある。
 露骨には見せないようにしているらしいが、気づいてしまえばやはり気に掛かる。
 『触れとうて堪らんようになる』
 つまりは抱きたくなるというのだろう。
 一緒に暮らせないのはたぶん、同じ家で夜を明かしたくないせいだ。眠って無防備になる自分のそばにいたくないのだろう。彼のために。自分のために。
 そこまでわかっていて、なぜ自分は彼のそばにいるのか。

 新一はそっと平次の髪に手を伸ばした。
 触れるか触れないかのぎりぎりで、髪の毛を撫でる。
 自分を抱きたいと思っている男。
 言い寄ってくる女をすべて袖にしてまで、自分を口説く男。
 平次が女を振ったと聞く度、新一はかすかな満足感と安堵ともに、焦燥に駆られる。
 このままでは、彼は自分から離れて行くのではないか。
 引き留めるには、彼の想いを受け入れるしかない。
 自分の気持ちがわからないまま、それは出来ないと新一は思う。

 ため息を吐いたとたん、平次の目が開いた。
 髪に触れていた手を掴まれる。
「工藤」
 顔をしかめて平次が新一を軽く睨んでいる。
「なにしとるん」
「起こしたか」
「工藤が触っても起きんようなら、そら死んどる俺やで」
 にいっと平次が笑う。

「誘ってくれとるんかと思ったわ」
 冗談を言う彼の目には熱があった。
 引き寄せられるように近づいて、新一は自由な方の手で平次の頬に触れた。
 平次の瞳の熱が燃え上がるのがわかった。
「工藤。なにしてんねん」
 低い声にも怒りと共に欲情がにじむ。

「わかんねぇ」
 平次の目を魅入られたように覗きこみながら、新一は小さく首を振った。
「自分で自分がよくわかんねぇんだ」
「なにがわからん」
「俺はおまえをどう思っているのか」
 平次が片腕で新一を抱き寄せた。
「逃げろや。抵抗せぇ」
 耳元で恫喝するように彼が言う。
 新一は逃げる代わりに身体の力を抜いた。

「工藤」
 平次がため息を吐いた。
 降参とでも言うように、彼は新一を拘束していた腕を外す。
 それでも新一は平次の胸の上から動かなかった。
「おまえなぁ。俺はおまえに惚れとるんやで。その俺に対してこの態度はないやろ。ほんまに誘っとるんか」
「いや。ただ、こうしていたいだけだ」
 平次が唸って身体を起こした。
 新一は彼の胸から滑り落ちる。

「あんなぁ、工藤」
 ソファの上で腕を組んで、平次が新一を見下ろす。
「煽るんはやめや。これでもかなり我慢しとるんやで。限界来たらぶち切れるで、ほんま」
 厳しい顔で言う彼の目の中に欲情の炎がちらちらと見えた。
 新一はソファに乗り上がった。隣に座る。
「煽っている気はない。自分がおまえをどう思っているのか、知りたいだけだ」
 真面目な顔で答えると平次がやれやれと肩をすくめた。

 彼は両腕を伸ばして新一の身体を抱きしめた。
「嫌か」
 首を振ると、「これは」と彼は頬に口づけた。
「嫌じゃねぇ」
 平次が新一の顔を見て、嬉しそうに笑った。
 彼は顔を寄せると、ついばむように唇に触れて、離れた。
「工藤。顔、真っ赤やで」
 からかうように笑われて、新一は彼の顔を押しのけた。触れた自分の頬は驚くほど熱くなっている。

「答え、これでわかったやろ」
「わかるかよ」
 即答すると、彼は困ったような呆れたような、それでいて嬉しそうな顔をした。
「そんなら、わかるまでやな」
 平次の腕に力がこもる。
 抱き寄せられて、ささやかれる。
「明日の朝には、きっちり答えが出とるよ」
 新一の返事は、平次の唇の中に消えた。


 

初めの設定からあまりにもずれてしまったため、離れ行きとなりました。

元になった歌

いでわれを人なとがめそ おほ船のゆたのたゆたに物思ふころぞ

古今和歌集 巻第十一 恋歌一 508 読み人知らず

ぼんやりしている私を誰も変だと思わないで欲しい。大きな船がゆったりと揺れ動くように、物思いで心が落ち着かないでいるのだから。

  

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