あやなくて まだきなき名のたつた川

  わたらでやまん ものならなくに

 



 大学の帰り道。
 秋の空は暮れなずんでいる。
 昼間こそまだ汗ばむこともあるが、日が暮れれば吹く風も冷気をはらんで肌寒い。
 平次は新一と連れだって警視庁へ向かっていた。先日関わった事件の詳細の確認をしてほしいと連絡が来たのだ。

 平次は隣を歩く新一の様子をそっと窺った。
 不機嫌というか、苛立っているように見える。
 朝、一緒に工藤邸を出たときにはなかった、妙に不穏な気配。大学で何かあったのだと思うのだが、学部が違うので知るよしもない。
 とにかく学部内の出来事ならば自分が原因ではないと、平次はそっと胸をなで下ろしている。

 平次は今、工藤邸で新一と一緒に暮らしている。同じ大学に進学すると知って、彼が同居を勧めてくれたのだ。平次は喜んでその話に飛びついた。上京したのは、新一のそばにいるためだったのだから、一緒に暮らせることほどうれしいことはない。
 バラ色のスタートを切った平次の大学生活は、秋を迎えた今も色あせることなくバラ色のままだ。ただ最近すこし物足りなさを感じている。そろそろ新一の恋人の座に収まりたい。



 すっかり見慣れた捜査一課の雑然とした部屋で、なじみの刑事がふたりを出迎えてくれた。
 悪いね、と笑う彼に部屋の隅のテーブルに案内された。もう資料が積んである。
 ふたりは並んで席に着いた。
 高木が書類をテーブルに広げながら、何気なく言った。
「ふたりは本当に仲が良いね」
 新一が鋭く目を上げる。

「それは、怪しく見えるほど、ですか?」
 予想外の反応に高木が驚く。
「あ、いや、別に、そんな意味があっていったわけじゃなくって」
 彼は救いを求めるように平次を見たが、平次としても新一の反応がらしくなくて驚いたのだ。当然助け船など出せない。

「ただ、一緒に住んでいるし、大学も一緒だし、現場に来てくれるときもたいがい一緒じゃないか。よほど仲が良くないと、出来ないだろうな、と」
 あたふたと言い訳をする高木に新一が首を傾げる。
「それってやっぱり普通じゃないんでしょうか」
目暮の声が高木を呼んだ。
 そんなことはないから、と弁明しながら、彼は上司のもとに向かった。

 新一が背もたれに寄り掛かる。パイプ椅子がぎっと鳴った。
「どないした。なんかあったんか」
 平次はテーブルに頬杖をついて、新一を見やった。
 彼は腕を組んでため息を吐いた。
「今日さ、おまえと俺がデキてるって噂が耳に入って」
 ああ、と平次は声を上げた。

 その噂は自分も聞いている。後期が始まった日だった。友人のひとりが怪文書ならぬ怪メールが来たと見せてくれたのだ。講義中だというのに思わず声を上げて、教授に睨まれたのはまだ記憶に新しい。
 とうとう彼の耳にも入ったか。

 新一がちらりと平次を見る。
「知ってたんだな。噂」
「まぁな。おまえよりも俺の方が、そうゆう話を知らせやすいんやろな。冗談の延長ゆう感じで」
 新一には見せにくい内容のメールだったのは確かだ。
「一ヶ月ぐらい前に教えてもらったわ。変なメールが出回っているゆうて」
「だからか。後期が始まってから周りの空気が変だと思っていたんだ。親しくもない連中から妙な目で見られたり、変な笑顔を向けられたり。別に害はないから放っておいたんだが、そういうわけだったんだな」

「無視しといたら消えるやろと思うて、おまえにはゆわんとおいたんやけど」
 新一が苦笑する。
「そんなに怪しく見えるのか、俺たち」
「そういうわけちゃうと思う。おまえに対する妬みとか、恨みとか、そんなもんが原因ちゃうんか」
 両親が有名人で金持ち。本人は頭脳明晰な上に容姿端麗、運動神経も良い。
 天は彼に二物を与えるどころか、大盤振る舞いをしている。

「おまえに振られた女とか、その女に惚れている男とか。ただ単にもてるおまえが妬ましい奴の仕業かもしれへん。男とデキとるゆう噂流して、おまえの評判を下げたいんやろな」
「ちょっと待てよ。なんで俺ばっかりが原因なんだよ。おまえだって女振りまくっているだろ」
「せやけど、こっちでは俺より工藤の方が有名人やもん。有名な方がターゲットになりやすいと思うで」
 納得がいかずに新一はむくれている。

「それにしても、いやな感じだぜ」
 なぁ服部、と彼は平次に向き直った。
「家を出ていったりはしないよな」
「当然やろ。放っておいたらええねん。こんな噂も、そんなもん信じる連中も。もし俺が出ていったりしてみぃ、格好の噂の種や」
 そうだな、と新一がほっとしたように笑う。

「それにや。もし、噂がほんまやったとしても、出ていったりせぇへん」
 平次は新一の瞳をのぞき込んだ。
「噂をええことに、正々堂々、人前でおまえといちゃついたるわ」
「それはやめろ」
 さすがに新一が突っ込んできた。
「人目をはばからないカップルは嫌いだからな」
「そんならべたべたすんのは、家の中だけゆうことで」
「そうしろ。って、おい服部。話を妙な方向にずらすなよ」
 新一が顔をしかめる。だがその目が笑っていて、全く威力はない。
 ええやん、と平次が声を上げて笑うと、彼もつられたように笑い出した。

「お待たせ」
 高木がようやく戻ってきた。その手には紙コップが二つ。お詫びのつもりか、彼はふたりの前にそのコーヒーを置いた。
「工藤君が砂糖とミルク入りで、服部君がブラックだったよね」
 礼を言うふたりに、高木が正面の椅子に腰掛けながら聞いてきた。
「ずいぶん盛り上がっていたね」
「ちょっと大学でありまして」
 新一が笑う。
 ここに来るまで彼が纏っていた不穏な気配はもうない。

「おもしろいことかい」
「あほらしいことや。なぁ工藤」
 平次は新一と見交わして笑った。
 もう彼が噂を気にすることはない。
「あとでお話ししますよ」
 もういつも通りの新一だ
 ――ざまぁみさらせ。
 噂の元を平次は嗤った。

「じゃあ、始めようか」
 高木が開いた書類をふたりの前に示した。
 平次は身を乗り出した。
 さりげなく身体を寄せて、新一の肩に手をかける。
 まるで自分が工藤邸を出ていくことを恐れていたような新一の問い掛けが、平次を心強く支える。

 誰が出ていったりするものか。
 ――もし噂がほんまやったとしても。
 彼に言った冗談は、本心だ。
 噂をそろそろ本当のことにする。
 平次は振り払われない腕にそっと力を込めた。


 

あやなくてまだきなき名のたつた川 わたらでやまんものならなくに

古今和歌集 巻第十三 恋歌三 629 御春有輔

なんの根拠もないというのに、早くもなき名(事実ではない恋の噂)が立ってしまった。だからといって、この恋を渡らずにすますようなことはないけれど。

  

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