淡雪のたまればかてに くだけつつ
わが物思ひのしげきころかな
起き出してみると、雪が降っていた。 日の出の時刻はとうに過ぎているが、空は薄暗い。その中でうっすらと積もった雪だけが、ほんのりと明るい。 隣の家の屋根、自宅の庭木が白く色を変えている。春先の名残の雪は、これ以上積もることはないだろう。 ガラス越しに庭を眺める平次の前で、音もなく雪は降り続けている。 ――東京でも降るゆうてたな。 昨日見た天気予報ではそういっていた。 すぐにでも東京在住の親友に電話をして確かめてみたい。だが、宵っ張りの朝寝坊である彼が、この時刻に起きているとは思えなかった。 平次は新一の寝起きの不機嫌そうな声を思いだして、小さく笑った。 しかしその笑みは苦いものに変わってゆく。 電話をする理由が出来たと思う自分がいる。 声を聞くための口実が出来たと喜んでいる自分がいる。 新一は親友だ。 頼りになる相棒で、尊敬できるライバルだ。 平次はそう自分の心に何度も言い聞かせている。 こんなにも彼が気にかかるのは、彼が薬で幼児化していたという後遺症をどこかに引きずっていないか心配だからだ。 だから自分は声を聞いて、安心したいのだ。 そうやって平次は電話の理由を自分に言い聞かせている。 そうしなければ、自分の行動の説明が付かない。 平次の視界の端で、雪が落ちた。 積もった雪をはねのけて、椿の葉が緑を覗かせている。 白の中、濃い緑色が鮮やかだ。 その上にまた雪が乗る。 平次はふと息を吐いた。 行動の理由など、とうに見当がついている。 ただその感情に名前を付けるのを躊躇っている。 名付けてしまったら、後戻りは出来ない。誤魔化すことも出来ない。 しかし、抱え込んだ感情を見て見ぬ振りをするのも、そろそろ限界だと平次は思っている。 なだめ、諭し、叱りつけても、自分の心は彼へと向かってしまう。 声が聞きたい。 顔が見たい。 出来ることならば触れたい。 彼を求める感情と、それを無視しようとする理性の狭間で、増えていくのはため息ばかりだ。 また、雪が滑り落ちた。 照りのある緑が雪の中で光って見える。 春の淡雪がまたそれを覆い隠してゆく。 彼への想いも絶え間なく平次の心に積もってゆく。 ため息をつき、見ぬ振りをして払いのけても、またいつの間にか降り積もる。 雪は春になれば溶けるだろう。 だが、自分の抱えた想いはどうなるのか。 平次は春から進学のため上京する。 新一と同じ大学だ。彼の誘いで、同居することも決まっている。 春からは、毎日彼の顔を見ることが出来るだろう。 これまで以上にそばにいることが出来るだろう。 それがまだ名前のない感情にどんな変化をもたらすのか、平次にはわからない。 それでも上京を決めたことを後悔はしていない。 ――決着、つけんとな。 雪のように消えてなくなれば、それもよし。 降りつづけ、積もりつづければ、そのときは腹を括るしかない。 また雪が崩れ落ちた。 降り続く雪の中現れたのは、寒椿の鮮やかな赤。
淡雪のたまればかてに くだけつつ わが物思ひのしげきころかな
古今和歌集 巻第十一 恋歌一 550 読み人知らず
春の淡雪(淡い思い)も、積もれば持ちこたえることが出来ずに木の枝から崩れ落ちる。積もっては崩れ、崩れては積もる。それはまるで物思いの多い近頃の自分のようだ。
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