月に背いて 4

あふことのもはら絶えぬる時にこそ

人の恋しき事も知りけれ

 



 冬の日は、とっぷりと暮れていた。
 新一は自宅にたどり着いて、小さくため息をついた。
 広々とした家は、暗く寒々しい。
 クリスマスイルミネーションに彩られた街を抜けてきたからなおさらだ。もうすぐ冬最大のイベントが来る。
 灯りをつけても、新一の目にはどこも暗く映る。同居人が消えて以来、この家は生気をなくした。
 リビングにぼんやりと立ち、新一は寄り道した先で買った紙袋を見やった。しらず、ため息がこぼれる。
 衝動的に買ってしまった、品。
 自分でもどうしてなのか、わからない。

 コートも脱がないまま、新一はふらりと二階へ向かった。
 自室のひとつ手前。
 そこが同居人の住んでいた部屋だ。
 扉の前で足を止めると、「工藤」と平次の声が聞こえたような気がした。扉を開く彼の笑顔まで見える。
 頭を振って、新一は扉を開いた。
 人気のない、冷たい無機質の部屋が新一を出迎える。
 平次が住んでいた頃の温みなど拭ったようにない。

 月明かりがカーテンの隙間からほの白く射していた。
 あの夜と同じように。
 新一は窓辺によって、大きくカーテンを開いた。
 上弦の月に照らされた庭が見える。
 冬枯れした何もない庭だ。
 「反対せんかったやん」
 かすれた声が耳によみがえる。
 引き留めたなら、彼は聞き届けてくれたのだろうか。
 何度自問しても、答えは否。
 彼の決心は揺らがなかっただろう。

 新一はシーツを剥いだままのベッドの上に、クリスマスデザインの紙袋を置いた。コートもそのままに、その横に寝転がる。
 平次の眠っていたベッド。
 彼に押し倒されたベッド。
 思い出というには、まだあまりにも生々しい。

 プレゼント包装された薄い箱を取り出し、目の前に掲げた。
 一番大切なあの人へ。
 通りがかったウィンドウディスプレイに踊っていたポップ。西洋風の暖炉を背景に置かれた、様々なクリスマスプレゼントたち。
 そこには確かに幸せがあった。
 贈られる幸せ。
 贈る人のいる幸せ。
 新一はディスプレイの前で立ちつくした。

 大切な人。
 新一の脳裏に浮かんだのは、平次だった。
 つい目をとめる商品も、男物ばかり。それらを彼に似合うかどうか、吟味している自分がいた。
 そして、買ってしまったプレゼント。
 もちろん渡す予定などはない。
 新一は箱を枕元においた。
 コートの上から携帯電話を探る。

 平次からの連絡は間遠になった。
 一緒に住んでいる頃は、毎日顔を合わせているというのに、必ずメールがあったものだ。
 遅くなるから夕飯はいらんわ。
 本屋で新刊を見かけたが買って帰った方がいいか。
 どこにおる? はよ帰ってこい。
 たわいのない内容でもしょっちゅう送ってきた彼。
 今では本当に用件がなければ、メールも電話もしてこない。

 このまま忘れられていくのか。
 顔を合わせるのは事件現場でだけ。
 謎に相対してともに味わう緊張感や高揚に、探偵としての絆は強くなっていくような気がしているのは、自分だけなのだろうか。
 事件が解決し、探偵の出番がなくなると、平次はそそくさと新一の前から消えようとする。まるで用がなくなったように。

 新一は寝返りを打って、ベッドに顔を埋めた。
 もう彼の残り香はない。
 こうして時が経てば何事も薄れ消えていくのだろう。
 彼の抱えている想いごと、自分の存在までも消えていくのだろうか。

 新一は首筋に手をやった。
 平次が口づけた跡は、今でも時折炙られたように熱を帯びる。
 抱きしめられた腕の力も、額に触れた指の感触も、まざまざとよみがえってくる。
「なんで惚れてもうたんやろ」
 苦しそうな声は片時も耳を離れない。

 彼の残した想いの残滓が、新一にまとわりついて心までも絡め取ろうとする。
 広い寂しい家の中で、彼の幻を追ってしまう。
 ソファで本を読む姿。
 キッチンで包丁を握る後ろ姿。
 視線を向けた、その一瞬前まで、そこに彼がいたような錯覚を起こす。
 そのたびに、新一は平次のいない現実を突きつけられるのだ。
 恋した彼を恨むか。
 想いを受け止められなかった自分を悔やむか。
 過去は変わらずそこにある。
 ただ時間だけが淡々と流れて、ふたりを押し流し、間に距離を作っていく。

 新一は箱を見やった。
 大切な人へ。
 思い浮かんだ平次の顔は、楽しそうに笑っていた。
 最後に見たのはいつだったか定かではない、心からの笑顔。
 次にあの笑顔を見ることが出来るのは、いつになるのだろう。
 彼が自分への恋心をなくしたときだろうか。
 思わず新一は起きあがった。
 胸が苦しい。
 自分の肩を抱いて、新一はため息をついた。

 大切な人と問われ、誰をも差し置いて平次を思い浮かべた。
 それが答えだ。
 だが、彼自身は、そこから抜け出そうとしている。
 もうすでに抜け出しているのかもしれない。
 自分は過去の存在になりはて、だからこそ、汚点に目を背けるように避けられているのかもしれない。
 肩に爪を立てる。
 コート越しにでも、痛みを感じた。
 なぜ、今頃気づくのだ。
 平次が離れていった、今になって。

 新一は固く目を閉じ、そして開いた。
 景色が色を変える。
 まだ、間に合うかもしれない。
 引き留められるかもしれない。
 上弦の淡い月明かりに向かい、新一は立ち上がった。
 窓辺に立ち、月の光を浴びる。
 彼が抜け出そうとしているのなら、引き戻してしまえばいい。
 この道ならぬ恋に。

 天高く昇った上弦の月を新一は見上げた。
 満ちゆく月に決意を固める。
 まだ宵の口。
 平次は起きているだろう。
 彼の部屋まで時間は大してかからない。
 新一は少し早いプレゼントを手に、部屋をあとにした。
 平次をこの部屋へ連れ戻すために。


 

あふことのもはら絶えぬる時にこそ 人の恋しき事も知りけれ

古今和歌集 巻第十五 恋歌五 812 読み人知らず

会うことが全くなくなったそのときに初めて、あの人を恋しいと思っていることに気づくのだ。

  

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