紫野 第五話
飛鳥川ふちはせになる世なりとも
思いそめてん人はわすれじ
平次は新一の部屋の窓を閉めた。桜の花が盛りの季節となったが、夕方が近くなるとまだ風は冷たい。今日の換気はこれで終了だ。 カーテンも閉めて、平次は主のいない部屋を眺める。 ベッドに本棚、机の脇にはサッカーボールが置き去られている。見慣れてしまったその光景。家の主人が契約している業者が月に一度掃除に来ているので、部屋は埃もたまらずきれいなものだ。 平次は屈み込んでサッカーボールに手を置いた。 「いつなんやろうなぁ」 新一が、帰ってくる。 その情報を平次が得たのは一週間ほど前だ。阿笠博士が新一の両親からの情報として平次に教えてくれた。日付はわからないが、そろそろだろうと言うことだ。 「最後の絵はがきに日付ぐらい書いとってくれてもええやんなぁ。空港まで出迎えに行ったるのに」 平次はこの春大学を卒業した。就職先は毛利探偵事務所。助手などいらねぇという小五郎を口先で丸め込んで、ちゃっかり潜り込んだ。数年後には独り立ちして事務所をかまえ、新一が帰ってくるのを気長に待つつもりだった。 その予定が嬉しい報せで狂ってくるかもしれない。 ボール相手にひとしきり愚痴ってから、平次は新一の部屋を出た。廊下の窓からは暖かい日差しが射し込んでいる。庭の桜の枝が窓を半分、薄紅色に染めている。ちらほらと花はもう散り始めている。 「もうちょい辛抱してや」 せめて彼がこの家に帰ってくるまで。 自宅の桜だ。見慣れているだろうが、それでもやはり新一に見せたい。 その窓のカーテンを閉めようとして、平次は門扉のところに人影を見つけた。 その人は手提げ鞄をぶら下げ、工藤邸を見上げていた。 「くどう……」 平次の口から言葉がこぼれた。 間違えようがない。そこにいるのは工藤新一だ。ずっと待ち続けた、大切な人だ。 佇んでいた新一が、門を開き中に入ってくる。 平次は身を翻して階段を駆け下りた。 もっとそばで姿が見たい。 顔が見たい。 声が聞きたい。 靴を履くのももどかしく、平次は身体で玄関の扉を押し開けるようにして外へ飛び出した。 煉瓦敷きの道の先、新一が立っていた。 彼の周りに桜が散りかかっている。まるで別れたときの雨のように。 大きく目を見開いた彼の指先から鞄が滑り落ちた。 「工藤!」 平次は駆け寄って、呆然と立ちすくむ新一の身体を抱きしめた。勢いで新一が数歩後ずさる。 「おかえり。おかえり、工藤。よう無事で……」 想いで喉が詰まって言葉が途切れる。 夢にまで見た新一が、腕の中にいる。無事に帰国して、目の前に。 見覚えていたより、しっかりとした体格になったような気がする。おそらく身長も伸びているのだろう。それでも彼は平次の腕の中に収まった。 確かに生きている新一を抱きしめて、平次は大きく安堵のため息をついた。 「ほんま、おかえり。予定教えてくれたら、空港まで迎えに行ったんやで。食事の用意かて、ちゃんとやっといたったのに」 平次は彼の肩先から埋めていた顔を上げた。 抱きしめている新一からはなんの反応もない。ただ人形のようにされるがままになっている。不安を覚えて、平次は背に回していた腕をほどき新一の顔を覗き込んだ。 「工藤?」 新一が瞬きを忘れたような目で、平次を見つめていた。 「工藤、どないした? もしかしてしんどいんか?」 もしかすると、抱きしめられることが不快だったのかも知れない。自分の想いは別れたときと変わってはいないが、彼は違うかも知れないのだ。 平次はそこに思い至って、自分の行動を後悔した。 「ごめんな、いきなり抱きついてしもて。帰ってきてくれたんが嬉しゅうて、ついな」 目を伏せた平次の耳に、かすかな新一の声が聞こえた。 「はっとり」 桜を散らすそよ風にまぎれてしまうほどの細い声で、彼は平次の名を呼んだ。 「工藤?」 「服部」 今度ははっきり聞こえた。 瞬きをするごとに、新一に表情が戻っていく。 「服部」 唇が笑みを刻み、目が柔らかに細められる。 瞳の奥には懐かしい光があった。 別れる間際に見た、あの光が。 呼吸を忘れて見入る平次に向って、新一の腕が伸びる。 「服部」 新一の指先が平次の頬に触れた。 「おまえは、変わらないんだな」 嬉しそうに笑う目が潤んで見えた。 平次はためらうことなく彼の身体をかき抱いた。 「変わるかい。変わるわけ、ないやろ」 背にまわった新一の腕の力が、平次は嬉しかった。 彼は覚えている。 別れたときの想いをそのままに。 「俺には工藤しかおらん」 「服部……」 耳元でささやく新一の語尾がふるえる。すがりつくように抱きしめてくる彼を、平次はしっかりと抱き返した。 「ずっと待とう思とった。おまえが帰ってくるまで、何年でもな」 「バカだろ、おまえ」 あきれたような物言いなのに、声はひどく優しい。 「俺が帰ってこない可能性を考えなかったのかよ」 「おまえは死ぬ気はないゆうてたやろ。せやから、絶対に帰ってくると思うてた」 そして、帰ってきてくれた。 しかも自分の腕の中に。 平次は腕を解き、新一の顔を真っ正面から見つめた。 縁の染まった潤んだ目を覗き込む。 「好きや」 別れ際に告げられなかった想い、ずっと抱え込んできた想いを、平次はようやく口にすることが出来た。 「好きや、工藤。俺は、おまえが」 好きや、と繰り返す平次に、新一の表情がみるみるうちに泣きそうにゆがんでいく。 顔を隠すようにうつむいて、彼は平次に抱きついてきた。 「一回言えばわかるんだよ」 明らかな涙声で、新一が言う。 彼は大きく深呼吸を繰り返して、平次の耳元にささやいた。 「俺もおまえが好きだ」 風に舞う桜の花びらが、雨の代わりにふたりに降り注いだ。
飛鳥川ふちはせになる世なりとも 思いそめてん人はわすれじ
古今和歌集 巻第十四 恋歌四 687 読み人知らず
飛鳥川の淵が瀬になるような変わりやすい世であるにしても、この人をと深く思った人のことは忘れない。
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