紫野 第四話

 

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ

我が身ひとつはもとの身にして

 


 自宅の最寄り駅の改札を抜けて、新一は駅前のロータリーへ向かった。荷物は手提げ鞄ひとつ。身軽な帰国だが、出国したときは身ひとつだったことを思えば増えている。
 春の暖かな陽気のせいか、すれ違う人たちの服装も軽い。子供連れが多いのは春休みのせいだろう。壁に貼られたポスターには、桜祭りの文字が踊っている。場所は三駅離れた大きな公園。今日から一週間催されるらしい。人出が多い原因はそれかも知れない。

 昼下がりの日差しの下、駅を出た新一は一瞬足を止めた。
 駅前の広場は様変わりをしていた。
 敷かれている煉瓦や街路樹こそ自分の記憶にあるままだが、並んでいる店が変わっている。
 高校生の頃ときどき立ち寄ったファーストフード店は別の系列のものになっている。ボーリング場やビリヤード場の入っていた古いビルはなくなり、ショッピングセンターの入ったビルに建て替えられている。二つあった銀行は合併され、その新しく建ったビルの一階に収まっている。タクシー乗り場で客待ちをしているタクシーのなかにも、見知らぬ会社のものがあった。
 馴染んでいた街が、変わっていた。
 車窓から見た街並みも新しいマンションのせいで変わって見えたけれど、実際に降り立ってみて新一は改めて時の流れを実感した。

 日本を離れたのは、五年近く前。
 高校に通うことを諦め、組織の黒幕を追って海を渡った。
 梅雨の大阪からだった。
 『気ぃつけてな』
 耳の奥に声が甦る。
 ――服部。

 新一は使う予定だったタクシーをやめて歩き出した。
 街のメインストリート、高校時代の通学路にも、新しい店やビルがある。
 行きつけだった書店は改装され、その隣にあった酒屋はコンビニになっていた。蘭の気に入っていたケーキ屋は、店舗を拡大したようだ。
 馴染んでいた店も時と共に移ろっている。
 新一はゆっくりと歩きながら、唇をかんだ。
 時の流れるままに、街は姿を変えてゆく。
 ひとの心もまた、変わってゆくのだろう。

『無事に戻れや』
 また声が甦る。
 彼の眼差しも、甦ってきた。
 雨の中で握った彼の手の熱まで甦って、新一は拳を硬く握り込んだ。
 ――服部。
 彼の抱えていた想いが眼差しに乗って、熱になって伝わってきたあのときのことを新一は忘れたことなどない。

 日本からもたらされる情報は、些細なことでも集めた。
 残してきた哀や阿笠博士のこと、蘭のこと、少年探偵団のこと。彼らに組織からの干渉はなかったようで安心した。
 そして、平次のことを。
 東京の大学に進学した彼が、探偵として活躍していること。時折工藤邸に出入りしていること。自分の送り続けていた絵はがきを受け取っていること。
 自分の安否が知りたいと言った平次のために、新一は毎月一枚ずつ自分宛に絵はがきを送り続けた。
 世界中を転々としながら、なにも書かずに絵はがきを送る。工藤邸に届く郵便物は隣家の阿笠博士が回収するのがコナンだった頃からの習慣だ。写真の景色と投函した地が食い違う謎めいた絵はがきに博士は暗号の可能性を考えるだろう。そして、その解読を平次に頼むはずだ。
 新一の推測通り、絵はがきたちは平次の手に渡った。
 彼には新一の筋書きもおそらく読めているに違いない。
 絵はがきに暗号などない、ただ自分の無事だけを知らせているのだと。
 
 ――服部。
 心の中で呼ぶたびに、思い出が甦ってくる。
 彼の声、笑顔、仕草。
 自分を支えてくれた、彼の存在のすべて。
 ――服部。
 彼の名を鍵に封印した想いがふくれあがってくる。
 声にしてしまったら、きっととめどなくあふれてしまうだろう。
 封印したときと変わらない、あの強さのままで。

 月日が変えてしまった街を、新一は自宅に向かって歩き続ける。
 離れていた自分の知らない営みがあって、街は変わる。
 新一の知らない出会いや別れが、平次にもきっとあったはずだ。
 ならば、彼の心も。
 ――服部。

 記憶の中のあの眼差しは、どうなってしまっただろうか。
 伝わってきた熱は、冷めているのだろうか。
 充分あり得ることに、新一は一抹の寂しさを覚えた。
 だが、彼の未来を縛らないように、別れ際の彼の言葉を封じて旅立ったのは自分。それを後悔などしていない。たとえそのせいで、彼の想いが消えてしまっていても。

 平次はこの三月で大学を卒業した。
 四月からの彼の進路を新一は知らない。
 このまま東京に残るのか、大阪に帰ってしまうのかさえ。

 路地にはいると、景色は昔のままだった。
 だが、隣の阿笠邸には用途の知れないパラボラアンテナが三個もついていた。
 新一は自宅の前で足を止めた。
 閉まった門扉の向こうに、見慣れた我が家がある。
 少し白っぽい春の空を背景に静かに建っている。
 庭の桜の木が今を盛りに咲いている。
 馴染んだ春の光景だ。
 だが、桜の枝振りも、屋敷の様も、気のせいか昔と違う。

 ――服部。おまえは変わったか?
 新一は門扉を押し開け、玄関に向かった。
 昔と変わらない、平次への想いを抱えたまま。


 

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして

古今和歌集 巻第十五 恋歌五 747 在原業平

月は同じではないのか、春は昔の春ではないのか。自分だけが昔のままで、周囲のものすべてが変わってしまったような気がする。

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