紫野 第三話

 

大空は恋しき人のかたみかは

物思ふごとにながめらるらむ

 



 空はからりと晴れている。
 石でもぶつけたらキンと硬い音がしそうな透き通った青い天蓋。雲はひとつもない。
 冬の冷たい風の中、主の帰らぬ工藤邸がひっそりとした佇まいを見せていた。
 平次はいつものように門扉を押し開いた。玄関に至る煉瓦敷きの道には枯れ葉が舞っている。

 平次は卒業後、東京の大学に進学した。新一に後を任されたからには、半端なことは出来ない。新一の大切なものたちの多い東京にいる方が、彼らに目が届きやすいと思ったのだ。そして一週間に一度は換気のために工藤邸を訪れていた。優作の許可を得て、彼の蔵書を読むことも楽しみであった。
 平次にとって東京での二度目の冬が過ぎようとしている。

 歩きながら平次は手にした絵はがきに目を落とした。工藤新一宛に届いた白紙のはがき。裏には白い壁と青い空のコントラストが鮮やかなエーゲ海の観光地の写真が使われている。だが、消印はアメリカ西海岸のものだ。リターンアドレスはない。
 そして、宛名の文字は、間違いなく新一のもの。彼は自分宛に絵はがきを出しているのだ。
 平次は足を止めた。

 ――工藤。
 なにも書かれていないメッセージ部分を睨んでも、文字が浮かんでくるわけではない。
 実際、毎月一枚ずつ届く白紙の絵はがきには、なんの仕掛けもなかった。阿笠博士と哀がふたりがかりで調べてもなにも出てこなかったのだ。消えるインクも使われていないし、切手の裏にチップが仕掛けられているわけでもない。
 ただ、毎回投函された場所と、絵はがきに使われている場所がかけ離れている。そこになにか意味があるのでは、と平次の元に持ち込まれたのだが、今のところ規則性も見つかっていない。すでにはがきの枚数は三十枚を越えた。

 宛名から目を逸らし裏返すと、地中海の海の青、空の青が目にしみる。
 平次はつられたように空を見上げた。
 関東の冬の硬質な青。寒風の磨き上げた青が頭上に広がっている。
 ――どこにおるんや。
 なにも書かれていないはがきは、新一の無事だけを知らせてくれる。
 今どこでなにをしているのだろう。
 投函された場所は通過点なのか、それとも拠点のひとつなのか。
 体調を崩してないだろうか。怪我はしていないだろうか。
 知りたいことは山ほどあるのに、はがきはそれらを知らせてはくれない。

 平次は玄関に向かわず、庭へ出た。芝生の敷き詰められたそこに腰を下ろす。冬枯れの芝がコートの下でかさりと音を立てた。そのまま後ろに倒れると、視界はすべて空になる。

 ――工藤。
 こっちは平和やで。
 阿笠のじいさんも元気やし、ちっこいねーちゃんも相変わらずや。ふたりにちょっかい掛けてくるようなやつもおらん。
 蘭ちゃんは年上の彼氏が出来たらしいわ。この間ふたりで歩いているとこ見たけど、仲良さそうやった。で、毛利のおっさんはぼちぼちやっとるようやな。まだ嫁さんには戻ってきてもらえんようやけど。
 少年探偵団も相変わらずやっとるで。たまに俺までひっぱりだそうとすんねん。勘弁して欲しいわ。

 俺は――。
 平次は脳裏に浮かんだ新一の面影に目を閉じた。
 新一は雨の中に立っている。
 最後に別れたあのとき、大阪は雨だった。
 ――俺は明日からの後期試験が終わったら、三回生や。こっちの刑事の知り合いも増えたで。ややこしい事件があると、連絡くれるようになったわ。はじめの頃は親父に遠慮しとるんか蚊帳の外やったもんやから、無理矢理首を突っ込んだりしててんけどな。あ、別におまえのシマを荒そうゆうわけちゃうからな。誤解したらあかんで。
 平次は心の中の彼に向かって慌てて弁明した。しておかないと、次に夢に見たとき蹴られそうな気がしたからだ。

 ――それにしても、こっちの冬は寒いなぁ。まだ慣れへんわ。それに大阪よりも晴れの日が多いな、こっちは。雨がぜんぜん降らん。
 雨が降ると思い出す。
 濡れた冷たい空気を忘れさせた、新一の熱い手。
 秘めていた想いを隠すことなく伝えてきた、新一の眼差し。
 雨音とともにまるで昨日のことのように、生々しく甦ってくる。
 だが、手を振りほどいた新一のあの思いがけない力が、平次の心に影を落としている。
 平次自身を振りきるようにした彼。
 抱きしめることも、想いを言葉にすることも、彼は許してくれなかった。

 目を開くと、晴れた空。
 平次は寝ころんだまま、絵はがきを空にかざした。
 彼はしかし、覚えている。安否が知りたいと言った自分の言葉を。
 だからこうして律儀に絵はがきを送ってくるのだ。
 宛先こそ新一だが、最終的に平次の元に届くように計算されている絵はがきが、心の影を小さくしてくれている。
 彼は雨の中で交わした想いも覚えているだろう。
 だが、今もなお新一が同じ想いでいるのか、それは平次にもわからない。
 ただ約束を守るためだけに、彼ははがきを出し続けているのかも知れない。しかし、その度に、平次のことを思い出しているはずだ。きっとあの雨の日のことも。

 ――工藤。
 おまえの帰ってくる場所は、望んだとおり平穏無事やで。
 せやから、おまえも無事に帰ってこいや。
 青く澄んだ空に向かって語りかける。
 この空の続く先に、新一はいる。

 ――なぁ、工藤。


 

大空は恋しき人のかたみかは 物思ふごとにながめらるらむ

古今和歌集 巻第十四 恋歌四 743 酒井人真

大空は恋しい人の形見ではないのに、どうして思うごとに大空を眺めてしまうのだろう。

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