紫野 第二話

 

かぎりなき 雲ゐのよそにわかるとも

人を心に おくらさむやは

 



 軽く閉じていたまぶたの裏に光が射した。目を開いてみると、窓の外が赤かった。夕日が鮮やかに空を染めている。地上を覆っていた雨雲を突き抜けたようだ。機体はまだ上昇を続けている。
 少し揺れる座席に身を任せ、新一は眩しさの消えた太陽を眺めた。下界ではもう日が暮れている時間だろう。
 新一はふと息を詰めた。

 ――雨はまだ降っているんだろうか。

 新一の乗る飛行機が発ったのは、関西国際空港だった。
 大阪にどうしても別れを告げたい相手がいると無理を言ったせいだ。それでも、平次に会えたのは、三十分に満たなかった。

 大阪は、雨が降っていた。
 その中を息を切らして駆けつけてきてくれた彼。
 夏服の学生服が、傘を差していたようには見えないほど濡れていた。
 交わした会話のすべてを新一は覚えている。
 引き留めるようなことはいわず、同行を申し出てくれた平次。
 それがどれだけ嬉しかったか、彼は知らないだろう。
 もっとも頼りになる、自分と同じ目を持つ相手。そばにいてくれれば、どれほど心強かったか。
 だが、彼には彼の生活がある。
 組織と直接関わった自分はともかく、彼の将来まで巻き込むわけにはいかなかった。
 だから彼には後を任せた。
 平次ならばきっと、新一が大事にしてきたものたちを守ってくれるだろう。

 ――あの雨は、まだ降っている。

 新一は右手を握りしめた。
 別れる間際、握った平次の手の熱さを覚えている。
 それ以上に熱かった、平次の目も。
 傘を叩く雨の音も、車道を走り抜けていく車の音も、聞こえなくした彼の目。
 彼の抱えている想いがすべて表れているような目だった。
 共鳴するように、自分の中からも想いがあふれた。一生隠しきるつもりだったのに。

 新一はいつからか、平次のことを親友として見ることが出来なくなっていた。
 彼もまた同じ想いと知ったのが、別れの時だったのは皮肉なことだ。
 いや。
 と、新一は思い直す。
 最後の最後まで知らなかったのは、おそらく幸いなこと。
 新一は右手を見やった。
 きつく握られていた手を振り払ったのは、平次があのときなにかを言いかけたから。
 彼にはなにも言わせてはいけなかった。
 言葉にすれば、それはきっと彼を縛る鎖になる。

 ――服部。おまえは自由だから。

 組織との対決で死ぬ気はない。
 だが、だからといって、必ず無事に帰れるという保証もない。
 そんな自分が彼の未来を縛って良いわけがない。
 待つと言えば、いつまでも彼は待ち続ける。
 好きだと言えば、その想いを忘れない。
 平次のそういう律儀なところも新一は好きだった。
 しかし、だからこそ、言葉にさせてはいけなかった。

 ――服部。
 新一は心の中だけで、恋しい人の名を呼んだ。
 思い出はたくさんある。
 ふたりが顔を合わせれば、必ずと言っていいほど事件に巻き込まれた。おかげで思い出もすべて事件がらみだ。
 競うように、補い合うように、推理を進めるのは不謹慎だが楽しかった。

 ――服部。
 新一は目を閉じた。
 まぶたの裏に浮かぶのは、笑顔の彼。
 最後に見た、彼らしい強気な笑み。

 ――服部。
 平次に対する想いも、思い出も、彼に関することすべてを心の中にしまい込む。
 封印の鍵は、彼の名前だ。

 ――服部。
 無事に戻るまで、彼の名前は口にしない。
 願掛けではない。
 ただ、堪らなくなりそうな気がするのだ。
 名を呼べばきっと、声が聞きたくなる。
 顔が見たくなる。
 会いたくなる。
 別れたばかりの今でも、これだけ苦しいのに。

 新一は目を開き、窓の外を見た。
 半ば雲に沈んだ夕日が低く雲海を照らしている。
 ――服部。おまえの面影だけは連れて行くからな。
 新一は最後に触れた右手を握りしめた。

 飛行機は日本を離れていく。


 

かぎりなき 雲ゐのよそにわかるとも 人を心に おくらさむやは

古今和歌集 巻第八 離別歌 367 読み人知らず

果てしない雲のそのまた遠くに別れても、あなたを心の中に連れて行きます。

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