傘の雫を切るのももどかしく、平次は喫茶店の扉を開けた。放課後の時間帯にあたるスタンドカフェの店内は、学生が大半を占めてうるさいほどだった。
ぐるりと見渡すと、窓際のカウンターに平次を呼びだした相手が腰掛けていた。振り返って小さく手を振っている、親友工藤新一だ。
平次は柄にもなく立ちすくんだ。
数えるほどしか会ったことのない、本当の姿をした新一。元の姿に戻ってから一週間と経っていないはずだ。
平次は奥歯をかみしめた。
心臓が壊れるほどの勢いで鼓動を刻んでいる。
泣きたいほど嬉しいのに、心の底から喜ぶことが出来ないのは、新一がなんのために自分を呼びだしたのか想像がついているせいだ。
平次はアイスコーヒーを買うと、新一の元に向かった。空いていた彼の隣のスツールに腰掛ける。濡れた鞄は床に置き、傘はカウンターに引っかける。雨のしみこんだ学生服が重かった。冷房にシャツが冷えていく。
「悪かったな。急に」
笑う新一のカップにはほとんどコーヒーは残っていない。待たせたかと平次は思った。だが、ホームルーム直後に電話を受け、高校からほど近いこの場所まで平次は十五分ほどで走ってきた。雨さえ降っていなければもう少し早かっただろう。
「かまへんて」
アイスコーヒーで喉を潤して、平次は笑って見せた。
「それより、どうや? 体調。その格好でおるときの工藤で、元気なとこを見たことないんやけど」
「平気だ。だからおまえを呼び出したんだ」
苦笑した後、彼は表情を引き締めた。目に強い光が宿る。
平次は来るべき時を知って、わずかに息を飲んだ。
「行くんか」
疑問ではなく確認に、新一が頷く。
「今日、これから」
貫くような眼差しで、彼は平次を見た。
ふたりの間にだけ息苦しいほどの沈黙が降りる。店内の有線もざわめきも彼らの邪魔は出来なかった。
平次は新一の顔からゆっくりと視線を落とした。手元のグラスを意味もなく撫でる。
新一が日本を離れると平次に告げたのは、追っていた組織が崩壊し、黒幕が海外にいるとわかったときだった。完全に潰すまで協力すると子供の姿で彼はいった。
専門家に任せておけと平次は言えなかった。新一の決意も意地も手に取るようにわかる。
「俺を連れて行くゆう選択肢はなかったんか」
電話でも平次は同じことを聞いた。彼の力になれるなら、学生生活など投げ出してもかまわなかった。
新一は首を振る。
答えは結局電話と同じだったが、彼はまじめな顔で付け加えた。
「おまえがいれば心強いだろうけど、それよりもこっちに残ってもらったほうが、俺としてはいろいろと安心だ」
帰る場所が平穏であることが、残していく者たちが無事であることが、何よりも大切だと彼はいう。
「俺に前だけ見させてくれ」
「……おだてんの上手いで。工藤」
あえて軽く茶化した平次に、新一が表情をゆるめた。
「こっちは任せる」
「しゃあない。任せられたろか」
にっと笑った平次に彼もまた笑む。
平次はアイスコーヒーを飲みながら、窓の外へ目をやった。歩道よりも一段高い窓からは、行き交う人の傘がよく見える。日の長い季節だが外はもう薄暗い。雨雲が厚いせいだろう。
窓には新一の姿も映っていた。
出会った頃から惹かれていた相手。
生き様を見続けていたいと思った相手。
支え合い、欠点を補い合っている親友のはずだった。なのに、気づいたときには平次は新一に惚れ込んでいた。いつのまにか、ごく自然に。同性であることも平次の気持ちを抑える力にはなってくれなかった。
その相手が遠く離れていく。
いつ戻れるか、無事戻れるか、わからない。
平次はじっとガラスに映る新一を見つめた。
彼もまた平次を見ている。
雨に滲み、半透明でも新一の瞳は、真っ直ぐだった。
今度この目を見ることが出来るのはいつだろう。こうして会話を交わすのは。笑いあえるのは。
これが最期になるかもしれないとは、平次は意地でも考えなかった。
「電話ぐらい欲しいんやけど」
「無理言うな」
予想通りの答えに平次は奥歯をかみしめた。声を聞くことも出来なくなるのだ。
これまでも毎日電話していたわけではない。顔を見るのも月に一度あればいい方だった。だが、いつでも会うことが出来た。自分が望めば、すぐにでも。明日からはそれが出来なくなる。そして、いつまで出来ないのか、予想がつかない。
「どうやっておまえの安否を知ったらええんや」
「報せがないのが良い報せと言うだろ」
ガラスに映った相手との会話は、隣にいるのに切ないほど遠い。どれだけ望んで手を伸ばしても、触れるのは硬質な冷たさだけだ。だが、それは致し方のないこと。
新一の行動の理由が理解できても、やりきれない思いだけはどうしても残る。自分の中の想いが押し潰せないのと同様に。
「いい連絡方法があったら、それを使う。けど、期待するなよ」
「わかった」
外を見据えた新一が背筋を伸ばした。
店の前の歩道に黒塗りの高級車が横付けされるところだった。スモークガラスで中は見えない。
「時間切れだ」
平次は彼と車とを見比べた。
「迎え、か」
新一が名残惜しげな顔をちらりと見せた。
「もう少し時間取りたかったんだけどな、いろいろあって割けなくてさ」
「ええよ。会うてくれただけで」
最後の会話が電話越しでなかったことだけで嬉しい。
それ以上に新一が自分のために時間を作ってくれたことが、平次には嬉しかった。
グラスとカップを返却カウンターに返し、ふたりは店を出た。
雨はまだ降っている。
平次は自分の傘を新一にさしかけた。迎えの車までは走ってしまえばほとんど濡れない距離だが、少しでも別れの時を先送りにしたかった。寄り添うようにして、雨の中を歩く。その一歩一歩が大切なものに思えた。
後部座席のドアに手を掛け、新一が平次を見た。
「今生の別れじゃねぇんだ。そんな顔して見送るな」
そう言う新一の表情も硬い。
平次は学生鞄を道に落とした。空いた手を新一に差し出す。
そして、笑った。
「無事に戻れや」
「当たり前だ。死ぬ気はねぇよ」
新一が平次の手を握り返す。雨の中、彼の手は熱かった。
ふたりの視線が強く絡んだ。
新一の想いが彼の目からあふれ、平次の心に落ちてくる。
手から伝わる熱が胸の中に満ちてくる。
お互い口に出せなかった秘めた想いが、無言のまま交わされる。
――工藤。
口を開こうとした平次を制するように、新一が手をほどいた。振り切られたのは、手だけではなかったのかも知れない。
「じゃ、行って来る」
「……行ってこい。気ぃつけてな」
「おまえこそ」
握った拳を軽くつき合わせて、ふたりは強気な笑みを交わした。
新一が乗り込むと、待ちかねていたように車は発進した。彼の様子はスモークガラスに阻まれて、見ることが出来なかった。
テールランプが混み始めた車道にまぎれていく。
平次はそれを見えなくなるまで見送った。
別れ間際に知ることが出来た新一の想いが、離れたつらさをなおいっそう深める。
交わすことが出来たのは視線だけ。
せめて言葉で想いを伝えてしまえばよかったのだろうか。
たとえそれが彼の枷になったとしても。
――待っとるよ。おまえ以上のやつ、俺にはおらんから。
平次は深く傘を差して、家路についた。
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