無自覚な関係シリーズ 第十二章

共 犯




「しんいち、新一ってば。おーい、起きろ」
 快斗の声で新一は眠りの世界から引きずり出された。髪の毛をかき混ぜている彼の手を払いのける。
「……起きる」
「朝食出来てるんだからさ、早くしないと冷めるよ」
 最後にぽんと新一の頭を叩いてから、彼は部屋を出ていった。
 新一は大きくのびをして、重いまぶたをこすった。頭が少し重い。
 もぞもぞとベッドから起き出したところで、新一はようやくそこが自分の部屋でないことに気がついた。一瞬で目が覚める。
 新一は信じられない思いで部屋を見回した。
 自分は平次の部屋にいる。
 その上、彼のベッドで眠っている。
 新一は思わず胸を押さえた。
 動悸が激しくなっている。
 深呼吸を繰り返して、新一は起き抜けの脳みそに酸素を送った。それでもいまいち頭は回転してくれない。

 ――酒を飲んだんだった。
 自分といるよりも快斗といる方が楽しげな平次の真意を聞き出そうと、酒の力を借りた。そしてそれが、まるで焼き餅を焼いているようだと平次に指摘されたのだ。
 新一は頭を抱えた。
 酔っぱらいの戯言と聞こえるように、わざわざ禁止されていた酒を飲んだというのに、墓穴を掘ったとしか言いようがない。彼が本当に戯言として受け取ってくれていればいいのだが。
 しかし、問題はそこからだ。
 そこから先の記憶が新一にはない。
 図星を突かれた動揺を隠そうと、ビールを一気飲みしてしまったせいか。たかがあれぐらいのアルコールで記憶をなくすとは、やはり体調が万全ではないのだろう。
 ――どういう経緯でこういうことになったんだ?
 腰掛けているベッドをため息をつきながら眺める。
 平次に聞くのがいいのだろうが、それもまた恥ずかしい話だ。
 リビングから新一を呼ぶ快斗の声が響いてきた。
 やけくそのように大声でそれに答えて、新一は平次の部屋を後にした。





 キッチンには光があふれていた。暦の上ではとっくに秋だが、今日も真夏のような日になりそうだ。
 新一は用意されていたトーストをぱくついていた。濃いめのコーヒーがマグカップになみなみと注がれている。快斗が出してくれた目覚ましだ。
 とっくに食事を終えた彼は頬杖をついて新一が食べるのを見ている。時折湯気の消えたマグカップを口に運んでいた。
「俺が帰ってきたのを覚えていないなんてね」
 信じられない、と大文字で顔に書いて、快斗が深々とため息をつく。
「哀ちゃんに飲むなっていわれていたのに、飲んだりするからさ」
「わかっているって。それはいいから何で俺は服部の部屋で寝てたんだって、さっきから聞いているだろ」
 にやっと快斗が笑う。
「ま、いろいろあったんだってば」
 それっきり彼は口をつぐむ。
 口は語らないが、目が思い切り語っている。
 すっごくおもしろいことがあったんだよ、と。
 快斗にはおもしろくても、自分には重大なことだ。
 とりあえず、最近快斗との方が仲がいいんじゃないかと聞いた自分に、気のせいだと平次が断言したのは覚えている。それだけが収穫だ。

 新一は黙々と食事を再開した。サラダとスクランブルエッグが載った皿は、彩りがきれいだ。もちろん味もいい。
 起き出してすぐ、昨夜自分がなにをやってしまったのか、思わず尋ねた新一に彼は柄にもなく絶句していた。それだけは演技ではなかったと思うが、現在の彼は充分に演じている。新一で遊ぶために。だから今はそれ以上聞かない。
 食卓にはふたりきりだ。
 一限からある平次は新一が目覚めたときにはすでに家を出ていた。快斗は午後からしか講義がないので、本日の午前中の家事担当になっている。

 皿の上のものを片づけて新一はふと気づいた。快斗が静かだ。視線も感じられない。
 目を上げると、彼は珍しくぼんやりとしていた。焦点の合わない目で窓の外を眺めている。少し寄せられた眉が悩ましげだ。
 新一は初めて見る憂い顔の快斗に内心かなり驚いていた。
 新一の知る快斗という男は、ポーカーフェイスの達人で自分の内面を滅多なことでは表に出さない。協力関係になった直後など、お互い腹のさぐり合いで疲れ果てたこともあるほどだ。友人として、共犯者として、信頼関係を築いた今でさえ、自分の仕事に関する愚痴や悩みを快斗はほとんど打ち明けない。新一が水を向けて初めて、苦笑と共にぽつぽつと話すぐらいだ。

 持ち上げたマグカップの影に隠れるようにしながら、新一は快斗を観察した。
 まだ彼は新一の視線に気づかない。
 それがそもそもおかしい。
 観察力も注意力も格段に鋭い彼が、無防備になりすぎている。いくら気を許しているとはいっても。
 ――昨日の仕事で何かあったのか。
 遅くなるとシンプルなメールをしてきた、あれからして普通ではなかった。
 新一はそっとマグカップを置いた。
 快斗を問いただしたとしても、もしそれが触れられたくないような事柄なら、彼は必ず反撃してくる。自分の記憶にない昨夜の出来事で、からかわれるのは勘弁してもらいたい。
 快斗が新一の視線に気づいた。
 彼は笑顔を浮かべる。取り繕ったように見えないのはさすがだ。
「なに?」
「いや、別に」
 新一は首を振って残っていたコーヒーを一息に飲み干した。
 ごちそうさま、と席を立った新一の背に快斗の声が飛んだ。
「そうそう。昨日、新一をベッドに運んだのは平次だよ。抱き上げてさ」
 一気に新一の頬が熱くなった。
「嘘つけ」
 振り返りもせずに決めつける。赤くなった顔を見せたらなにを言われるかわからない。そのまま足早にキッチンを後にした新一は、さっきの憂い顔など幻だったかのような明るい快斗の笑い声を聞いた。





 新一を送り出し、炊事掃除洗濯と一通りの家事を終えて、快斗はソファに寝転がっていた。開け放したリビングの窓から心地よい風が吹き込んでくる。そろそろ家を出なければならない時間だが、動く気にはなれなかった。特に重要な講義が入っていないので、よけいに行く気が出てこない。
 快斗はぼんやりと天井を見つめてため息をついた。
 気がつくと探のことを考えている。
 昨日見た、真剣な瞳が忘れられない。
 ――俺としたことが。
 囚われてしまったらしい。
「力に、か」
 快斗はぽつりと呟いた。
 今朝の出来事が甦る。

 ***


 寝不足といいながら、平次が起き出してきた。
「寝不足? 新一といたから?」
 にんまりと笑いながら聞いてやると、彼はじろりと快斗を睨んできた。
「そうや、悪かったな。わかりやすうて」
 一晩で彼は開き直ったらしい。
 トースターにパンを入れるのを見ながら、快斗は彼のコーヒーをマグカップに注いだ。講義が一限からある彼にはゆっくりしている時間はないはずだ。フライパンに火を入れ、卵を落とし、手早くスクランブルエッグを作る。

「俺はな、うぬぼれることにしてん」
 どっかりと椅子に腰を下ろして、平次は快斗に向かってにやりと笑った。
 コンロから振り返って、快斗はわざとらしく片眉を引き上げた。
「おお、強気」
「なんとでも言えや。だいたい守勢に回るのは柄ちゃうねん」
 彼らしい結論を新一のためにも快斗は喜んだ。だが、心の中だけでだ。顔には出してなどやらない。
「ふうん。攻勢に出るっていうんだ。まさかと思うけど、寝てる新一にちょっかいかけたり……」
「せんわ!」
 すべてを言う前に否定した平次に、快斗は声を上げて笑った。攻勢だろうと守勢だろうと、からかいがいがあるのには変わらない。

「まったく、おまえは」
 ぶつくさと言っている平次の目の前に、スクランブルエッグの入ったフライパンを差し出す。
「あれ? トーストは?」
 あ、と叫んで、平次が慌ててトースターを開ける。そこから危うく焦げそうになっているパンを取り出した。
「おまえがよけいなことをゆうたりするから」
 ひとのせいにされた仕返しに、快斗は皿の上に載せられたトーストに直接スクランブルエッグを盛ってやった。
「こら、マーガリンぐらい塗らせろや」
「いいじゃん。細かいことは気にしない」
 笑いながら席に着く。
 快斗がなにも食べないのを見て、トーストを頬ばった平次が目で尋ねてくる。
「もう食べた。ちょっと早く目が覚めちゃってさ」
 本当はよく眠れなかっただけだ。
 昨夜の探のことが気になって。

 美味しそうに食べている平次は幸せそうだ。進むべき道が決まったからだろうか。
「コナンだった頃から新一のことが好きだったわけ?」
 快斗はからかい半分に平次に聞いた。
「今思えばそうやったんやろな。気づいとらんかっただけで」
 開き直ったせいか、平次はあっさりと答えてくれた。
「ガキの格好にされてもうて、それでもあいつは組織潰すのに躍起になっとった。命の危険ゆうもんも省みずにな。そういう無茶なところが気にかかってしゃあないんやと思うてた」
「子供の姿であることをちゃっかり利用してもいたけどね」
 せやせや、と平次が笑う。
「したたかやで、工藤は。けどほんま、今になって考えてみると、ほっとけへん、工藤の力になりたい、思うてたんが事の始まりやったのかもしれへん」
「力になりたい……」
 殴られたようなショックを受けて、快斗は呆然と呟いた。
『僕はきみの力になりたい。力になりたいんです』
 探の声が頭の中をこだまする。
 あの言葉はただ単に共犯者の名乗りを上げただけだったのだろうか。
 ――それともまさか、平次のように。
 快斗の頬に知らず血の気が上ってくる。
 まさか、まさかと否定しても、探の真摯な眼差しが肯定しているような気がしてくる。

 平次が席を立って、快斗は我に返った。見れば彼の皿はいつの間にか空になっている。
「ごちそうさま」
「あ、どういたしまして」
 とっさに返して、快斗は表情を取り繕った。
 どれぐらいの間自分の中に沈み込んでいたのだろうか。
 キッチンから出ていく間際、平次が振り返っていった。
「白馬が俺と同じとは限らんけど、よっぽどの覚悟がなかったら、怪盗に向かって探偵がゆうたりせえへんと思うで」
 ポーカーフェイスの作れなかった快斗に、平次が苦笑する。
「あいつは複雑そうに見えて、単純なやつやさかいな。ほんまストレートや」
「平次は単純そうに見えて単純だけどね」
 ようやくそれだけ言い返す。
「複雑怪奇なおまえにゆわれとうないわ」
 笑いながら切り返して、平次はキッチンを出ていった。

***


「力になりたい、か」
 探がどういう意味で言ったのか、それは彼自身にしかわからない。
 ただ、その申し出は、そのままの意味であったとしても簡単に受け入れられるものではない。探偵を怪盗の共犯などには出来ない。
 なのに、彼を共犯にしてしまいたいと思ってしまう。
 新一にも平次にも感じたことのない誘惑。彼らには彼らの立場で見守ってくれていればそれで良かった。
 だが、探は違う。
 違う存在になってしまった。
『おまえには白馬がいる』
 新一には平次が、平次には新一がいたように、自分がすべてを懸ける相手は彼なのだろうか。
 あの真摯な眼差しとともに差し伸べられている手を取ったとき、なにが起きるのか快斗にはわからない。自分が変わってしまいそうな予感だけする。

 次の仕事は二週間後だ。
 下調べと準備の時間を考えると、悩んでいる暇はない。
 キッドとして探と会えば、昨夜の話を蒸し返すことになる。だから次回はいつも以上に入念に準備をして、探をも出し抜かなければならない。
 一瞬よぎった寂しさを快斗は気のせいと無視をした。
 ソファの上で頭を巡らせ時計を見ると、とっくに午後の講義の始まる時間になっていた。自主休講決定だ。
 見やれば窓の外はいい天気。
 布団も干しておけば良かったな、と快斗はぼんやり考えた。




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