無自覚な関係シリーズ 第十章

混 乱



 平次は差し向かいで食べている新一の表情をそっと窺った。
 先ほどまでは隣のリビングで放送されているテレビのニュースが気がかりだったようで、そちらばかりを気にしていたが、内容が政治的なものに変わって興味が薄れたらしい。今では目の前の夕食に集中している。
 本日の献立は魚がメイン。
 つまり快斗がいない夕食ということだ。
 彼は探の通う大学の学祭に出かけている。上機嫌で出ていったきり、メールも電話もない。
 新一は文句も言わず、平次の作った鯖の煮付けを食べている。どうやら舌だけは肥えている新一の及第点は取れたようだ。

「どうした?」
 いきなり問いかけられて、平次は皿から目を上げた。視線が真正面から合って内心狼狽える。
「なに?」
「なに、じゃねぇよ。最近どうした? なんか変だぞ。どっか悪いのか?」
「そうか? 別に体調悪いことはないで。よう寝とるし、食欲はあるし」
「ならいいけど」
 新一の探るような視線が逸れて、平次はそっと安堵した。彼の目に見つめられると、心の奥底まで見抜かれてしまうような気がする。この間自覚したばかりの彼への恋心までも知られてしまいそうで怖い。

 食事を再開した平次だが、新一の言うことに心当たりがあった。
 自分の想いに気づいてからというもの、平次は今までどういう風に新一に接していたのかわからなくなっていた。ふたりきりの時間にしていた会話も、彼に向けていた笑顔も、なにもかもすっかり記憶から抜け落ちてしまった。
 結局どうしていいかわからずに、変にぼけて新一にあきれられたり、会話に詰まって笑って誤魔化したりしている。挙動不審もいいところだと平次は自嘲気味に思う。初恋というわけでもないのに、新一の前ではどうしても緊張してしまうのだ。もう笑うしかない。
 ついため息をついた平次を新一が見る。
 その視線を笑顔で誤魔化して、平次はテレビから流れてきた明日の天気の話題を新一に振った。





「それじゃ、また連絡しますから」
 運転席の窓から探が快斗を見上げている。工藤邸の門の灯りに照らされたその顔を、悔しいが端正だと快斗は思った。
 探の通う大学の学祭が終わった後、快斗は彼と父のファンだったというマジシャンと食事を楽しんできた。料理は美味しく、話も弾んで、楽しい時間を過ごすことが出来たことについては、探に感謝している快斗だったが、場所選びを彼に任せたことについては後悔していた。出来ればもうちょっと庶民的な店がよかった。
「じゃあな」
 連絡することについては答えを与えず、快斗は探に手を振った。
 今日の彼の感じがよかっただけに、あまり近寄りすぎてはいけないという勘がしたのだ。無警戒に踏み込んでしまったら、引き返せなくなるような、そんな気がする。
 走り去るテールランプを横目に見て、快斗は重たい門扉を押した。リビングの灯りがついているのが、庭からも見える。ふたりともまだ起きているのだろう。寝る時間には早すぎる。

「ただいま」とリビングの扉を開けると、探偵ふたりがテレビを見ていた。お帰りという声が揃ってあがる。
 振り返った平次の表情が心なしかほっとしているように見えた。
「遅かったな。楽しかったか?」
 コーヒーでも淹れようかとキッチンに立つ平次を目で追いながら、新一が快斗に尋ねる。
「まぁね」
 快斗は新一の隣に腰を下ろした。
「会うって言っていたマジシャンは?」
「期待の若手だって。おもしろい人だったよ。思い出話もたくさん聞けたしね」
「よかったな」
 新一が優しく笑う。
 平次の髪は濡れていたが、彼の髪は乾いている。
「まだ風呂に入ってないの?」
「さっきまで昔の事件の特番が組まれててさ。それを見ていたから」
 明るいCMを流しているテレビを新一は視線で指す。
「コーヒー飲んだら入る。おまえ、先に入ってくるか?」
「いいよ。お先にどうぞ」

 疲れたと背もたれに寄りかかる快斗を素通りして、新一の視線がキッチンに流れる。平次のいるキッチンに。
 心配とも怒りともつかない複雑な目をしている新一に快斗は内心ため息をついた。
 平次がこの間、新一への恋心を自覚したらしい。
 それ以来どうも平次の挙動不審が続いているようなのだ。新一の前でだけ。
 快斗がいるときには以前と変わらないのだが、ふたりでいるときおかしくなっているらしい。新一はそんなことは口に出さないが、彼らの間に流れる空気で快斗は察している。
 さっきのように、ふたりきりの場所に快斗が現れたときにわかるのだ。
 平次は安堵し、その彼の様子に新一が苛つく。
 揃いも揃って不器用なんだから、と快斗は思う。
 事件を解くときのスマートさが嘘のようだ。

「工藤と黒羽はアイスコーヒーな」
 盆の上にグラスを二つ載せて平次が戻ってきた。
「自分だけビールかよ」
「風呂上がりなんやからええやんか」
 しっかり彼の手には缶ビールが握られている。
 いつも通りの彼の明るい笑顔を新一が複雑な顔で見ている。
 自分のグラスを受け取りながら、快斗は平次をつついてみようと心に決めた。





 風呂にはいると言って、リビングから新一が出ていった。
 ふと肩の力を抜いた平次を快斗が見とがめて声を立てずに笑う。彼のいたずらっぽく輝く目に平次は嫌な予感を覚えて快斗を睨んだ。
「怖いなぁ、平次」
「おまえが妙な顔で笑うからや。言いたいことがあるんならゆうたらどうや」
「新一も可愛いけど、平次も結構可愛いところがあるんだなぁと、ちょっと意外に思っているだけ」
 ソファにだらりと寝そべり、快斗はくすくすと笑い続けている。
「どういう意味や」
 缶ビール片手に床に腰を下ろしたまま、平次はさらに快斗を睨む。
「怖い怖い」
 言葉とは裏腹に目は笑っている。
「こら、黒羽。ふざけるなや」
「そのままの意味だよ。意外な発見っていうのは、どんなことでも興味深いじゃん。だから笑っていたわけ」
「ほう、それで俺のどこが可愛いゆうんや」
 すごんだ平次に快斗がにやりと笑った。
 まずい、と平次が思ったときには手遅れだった。

「だってさ、新一の前で緊張しているじゃん、平次。もしかして初恋?」
 さらっと快斗に言われて、一瞬平次の目の前が白くなった。動揺のあまり缶ビールを握りつぶしそうになる。
「な、な、なにをゆうて……」
「なにって、真実」
 ぴしりと快斗が人差し指を立てる。
 狭いソファの上で器用に寝返りを打って、快斗は腹這いになった。平次と視線の高さを合わせて、彼はますます笑みを深める。
「否定しても無駄だね。その動揺っぷりじゃ、ばればれだよ。もしかして初恋っていうのも当たり?」
「ちゃうわ! もしかしておまえ、かまかけたんか?」
 どうにか立ち直って平次は叫んだ。
「十中八九そうだろうと思っていたけどね」
 あっさりと肯定されて、平次は身体から力が抜けた。ずるずると床に懐く。片手で顔を覆って呻く平次の頭上から、快斗の声が降ってくる。
「ビールこぼれるよ」
「やかまし」
 力無く言い返して、缶をテーブルの上に戻す。

 しばらく呻いた後、平次は大きくため息をついた。
「なんでわかった?」
「やっぱ、観察力かな」
 変装の基本だからね、と彼はうそぶく。
「……さよけ」
 自分の中でも想いの収拾がつかないままでいるというのに、よりによってやっかいな相手に知られてしまった。
 快斗は目をきらきらさせて平次の顔を覗きこんでいる。
「なんかめっちゃ楽しそうやな。自分」
「まぁね」
「ひとが悩んどるっちゅうのに」
 男に惚れたという衝撃は、未だ去っていない。だからどうしても新一の前で緊張してしまうのだ。
 この想いは自分の常識の範囲内には入らない。おそらく多くの人にとってもそうだろう。当然新一にとっても。
 だというのに。

 平次は快斗の顔をまじまじと見つめた。
「おまえはやっぱりようわからんやっちゃな」
「そうかな」
「そうや。なんでそういう反応なん?」
 普通嫌がるのではないか。
 平次から見ても快斗は新一をとても大事に思っている。その新一に対して男の自分が惚れてしまったのだ。引き離そうとしてもおかしくはない。
「どう考えてもおもしろがるゆうんは、普通の反応ちゃうやろ。俺も工藤も男なんやで」
「そうだけどさ。それがなにって感じかな」
 あっけらかんと答えられて、平次は言葉を失った。
「俺は新一が幸せになってくれれば、それでいい」
 にっこりと快斗が笑う。
 その揺るぎない信念を潜ませた笑みを平次は見つめ返した。

「なんちゅうか、おまえ」
 平次はため息半分に言った。
「ようわからん」
「それは褒めているわけ?」
「いや、ちゃうし」
「褒めてくれてもいいじゃん」
 快斗はずいぶん不満げだ。
「敵に回って欲しいなら、今からでもそうするけど?」
「それは困るわ」
 平次の即答に快斗が声を上げて笑った。
「味方になってくれるわけか?」
「平次が新一を幸せにしてくれるならね」
「そらもちろん、不幸にする気はないわ」
 だが、周りの人間はどう見るだろう。
 惚れてしまった自分は仕方がないとしても、惚れられてしまった新一も白い目で見られるのではないだろうか。
「けどな。男に惚れられたこと自体、不幸やとは思わんの?」
「さぁ、そればっかりは新一に聞かないとね」
 意味深長な笑みを浮かべて、快斗はまた器用に寝返った。
 床に寝転んだまま、平次は快斗の癖毛を見つめた。
 ――ほんま、ようわからん男や。





「なぁ、快斗」
 新一は先に階段を上る快斗の背中に声を掛けた。
 先ほどまで三人で過ごしていたリビングの電気はすでに消え、一階に寝室のある平次の姿はもう廊下にはない。
 なに? と快斗が振り返る。
「話がある」
 見上げて言えば、彼はちょっと目を見張って頷いた。
 自室に快斗を引っ張り込んで、新一は椅子に腰掛けた。快斗は勝手に新一のベッドに寝転がる。
「話ってなに?」
 快斗から見つめられて、新一は言葉を探した。うまい聞きだし方に悩むなど、自分らしくないのはわかっている。
 口ごもる新一に、快斗がにやりと笑う。
「もしかしてさ、平次のこと?」
 驚いた新一を見て、快斗がさらに笑みを深めた。
「当たりだね」
「そうだよ。それでおまえ、どこまで知っているんだ?」
 快斗は自分の抱えている平次への想いに気づいていると新一は考えている。時折自分に見せる彼の意味深長な言動が、その理由だ。

「どこまでって言われても。春先から増えていた新一の発作が恋わずらいの結果だったということぐらいかな」
 思わず新一の頬に血の気が上る。
 思い出したくない事実だ。
 知らない内に平次に抱いていた想いを、自分よりも先に快斗は知っていたというのか。
「快斗、おまえ……」
 慌てる新一に快斗が追い打ちを掛ける。
「それで最近平次の様子が変なのが気になる。だから俺がなにか知っているかもしれないと思って、部屋に呼んだわけでしょ」
 快斗の謎めいた微笑が新一の神経を逆撫でる。
「そうだよ、悪かったな。わかりやすくて」
 椅子の上で開き直った新一に、快斗がベッドから身を起こした。

「悪くないって。稀代の名探偵も恋に悩むと可愛いねぇ」
 新一は思わず快斗の足を蹴り上げた。
 叫び声を上げて、快斗がまたベッドに倒れ込む。
「よけいなことは言わなくて良いんだよ。それで、服部のことなんだけど、なんか理由を知っているのか?」
「思いっきり蹴っておいて、聞くことだけはしっかり聞くんだから」
 快斗のぼやきはこの際無視をする。
「それでどうなんだ?」
「知らないといえば知らないし、知っているといえば知っている」
 快斗の顔に笑顔の仮面が張り付く。
 彼に正直に話す気がないと新一は見て取った。ポーカーフェイスを得意とする彼は口も堅い。

「……おまえがらみか?」
「違うよ」
 あっさりと答えて、快斗がベッドから立ち上がった。座る新一の髪の毛をくしゃりとかき混ぜる。
「ただちょっと混乱しているだけだよ、平次は。すぐに元に戻ると思うな。新一はそのままでいればいい。なにも心配はいらないって」
 そう言い置いて快斗が部屋を出ていこうとする。その背に新一は問いかけた。
「おまえ、なにを考えている?」
「前にも言ったじゃん」
 快斗が肩越しに振り返って、極上の笑みを浮かべた。
「新一の幸せ。それだけだよ」
 じゃ、おやすみ。と快斗は出ていった。
 彼の消えた扉を見つめて、新一は大きくため息をついた。
 結局、平次の様子が変な理由はわからずじまいだった。
「快斗のやつ、なに考えているんだ」
 ぼそっとつぶやいて、ベッドに潜り込む。
 ――俺の幸せより、自分の幸せを考えた方がいいと思うけどな。
 快斗と探との関係を少し気にしながら、新一は目を閉じた。
 



 
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