無自覚な関係シリーズ 第七章

困 惑




 眠い目をこすりながら快斗が階下に降りてみると、平次はすでに起き出していた。キッチンで朝食の支度をしている彼に、おはようと声を掛ける。
 平次が振り返って「おはようさん」と返してきた。
 彼の笑顔はいつもと変わらない。快斗は感嘆の意味を込めて「うわばみ」と呟いた。
 それを耳にした平次が快斗に向かってにやりと笑う。
「二日酔いの気配もないおまえにはいわれとうないわ」
 同類やろ、と彼はいう。
 だが、酒量は平次の方が多かった。それだけは確実だ。
 快斗も笑って、ふわぁと大きなあくびをした。

 昨夜はふたりとも寝たのが遅い。ただでさえ家に帰り着いたのが遅かったのに、それから軽い食事をとりながら酒を飲んだのだ。さっさと自室に引き上げた主人をおいての飲み会だったが、積もる話もいろいろあって居候ふたりは盛り上がった。父の思い出話などしてしまったおぼろな記憶が快斗にはある。
「食欲、あるか」
 パンを片手に平次が聞く。
 あくびをしながら頷いて、快斗はコーヒーをふたり分淹れた。
 夏休みに入ってからの朝食の席に新一がいないのは珍しいことではない。いつもふたりが食べ終わる頃に寝ぼけた顔で起きてくるのが常だ。

 平次が二階を視線で指した。
「どうや?」
「よく寝てるようだったよ。一応声はかけておいた」
 覗いた扉に背を向けるようにして、新一は眠っていた。効き過ぎないように自分が改造したエアコンを快斗は止めて、カーテンを開き窓を全開にしてから降りてきたのだ。今頃新一は蝉の声で二度寝出来なくなっていることだろう。
 昨夜、突然「寝る」といって部屋にこもった新一を快斗は何度か覗きにいった。灯りを落とした暗い部屋で、彼はよく寝ているようだった。だから安心して酒盛りに興じたのだ。
「ならええんやけど」
 平次が心配げな顔を二階に向ける。
 彼は酒を飲んでいるときから新一の体調ばかり気に掛けている。ここのところ頻繁に起きている新一の発作の前兆が自分のせいだと知ってからずっとだ。かなり落ち込んでもいた。

「食べ終わっても起きてこんようやったら、起こしに行ったってや」
 焼き上がったトーストを快斗の皿に置き、平次がいう。
「俺が行って発作起こされたらたまらんし」
 自分の椅子に腰掛け、彼は困ったように笑う。
「平次」
「わかっとるって。せやけど、俺のせいであいつが苦しむんやったら、なるべく顔を見せんようにしてやったほうがええと思うて」
 目を伏せてトーストをかじる平次をどうやって元気づけようかと快斗は悩んだ。
 新一が起こす発作の前兆は、実のところ発作ではない。
「新一も悩んでいると思うよ。平次と暮らすことを楽しみにしていたんだから」
 平次が目を上げる。
 快斗は真顔で頷いて見せた。
「大丈夫だよ。新一はきっと乗り越えるから」
 新一自身が自分の抱えた想いの正体に気づけばこの症状は収まるはずだ、と快斗は考えている。
 彼の胸の痛みは、恋なのだから。





 蝉の声が部屋の中で反響している。
 新一は寝不足の頭でそれを聞いていた。快斗が全開にしていった窓からは、抜けるような夏の空が見える。今日も暑くなりそうだった。
 ぼんやりと空を眺めていた新一は、大きく息を吐き出してベッドに身を起こした。頭が重いのは睡眠不足のせいだけではない。考え事のせいだ。
「……なんだって、また」
 青空とは対照的な声で呟いて、頭を抱える。これで何度目になるかなど、新一は覚えていない。どれだけ考えても一晩で答えが出るような問題ではなかった。

 親友に惚れている。
 気づいた瞬間の衝撃は、頭を殴られたときのものよりも大きかった。全身の血が一気に足下まで引き、それが瞬く間に心臓に駆け上がって、顔から火を噴くかと思った。
 とりあえず、同居人たちの目から逃げるように部屋にこもったのだが、混乱し動揺したままでは眠ることも出来なかった。ふたりがリビングで話している気配がしたものの、とても降りて仲間に加われる状態になかった。時折快斗が様子を見に来ていたが、新一は狸寝入りでやり過ごした。
 新一はため息をついて、ベッドに倒れ込んだ。よく効いたスプリングが新一の身体を受け止める。

 起き出せば、平次と顔を合わせる。
 普段通りに接することは出来ると思う。出来なければならない。
 もし、出来なかったら。
 想像して新一はぞっとする。
 もしもこの想いを知られてしまったなら、彼の晴れやかな笑顔は曇るだろう。いつでも真っ直ぐに向けられてきた眼差しは、逸らされてしまうに違いない。
 ライバルでは居続けることが出来るかも知れないが、親友としてはいられない。
 想いを受け入れられないなら、きっぱりと断る。そういう男だ。
 そしてきっと彼はこの家を離れ、新一の前から姿を消してしまうだろう。
 同性の自分の想いなど、はじめから彼の心には届かない。

 新一はため息をついた。
 昨夜からつき続けているため息が見えるなら、きっと部屋はため息で埋まっている。
 吹き込んでくる風が部屋の空気を入れ換えるが、新一の心はよどんだままだ。
「なにが発作の前兆だよ」
 うめくようにいって新一は頭を抱える。
 平次との接触の度に感じたあの胸の痛みは、前兆などではなかった。だというのに、そのことを哀にまで報告していたのだから、目も当てられない。
 ――あいつのことが気になってますって報告していたようなもんじゃねぇか。
 だから、哀や快斗にも原因を知られてはいけない。こちらは単純に恥ずかしいからだ。
 うう、と唸って新一はベッドの上を転がった。





 快斗はノックをして、新一の部屋の扉をそっと開けた。覗くと彼はベッドに横たわっていた。目は開いている。
「新一、おはよう。入るよ」
 枕元に近寄ると、新一の目だけが動いて快斗を見た。
「起きるって。もう飯出来てんだろ」
「とっくに食べたよ。ふたりとも」
 快斗は新一の顔を見て眉をひそめた。目の下にクマができている。
「早く寝た割には寝不足みたいだね。夜中に目でも覚めた?」
 屈み込んで寝癖のついた頭を撫でる。
 新一の顔が嫌そうにゆがんだ。
「そんなことねぇよ。でも、おまえらが下で騒いでたのは知ってるぜ」
「あ、ごめん。うるさかった?」
 新一が首を振って起きあがる。ちらりと快斗を睨んでいたずらっぽく笑った。
「どうせ酒でも飲んでいたんだろ。俺のいない間に」
 彼は酒を飲めない。哀から禁酒令が出ているためだ。発作が理由だが、それ以前に未成年なのだからもっともなことだ。
「ちょっとね。ばれちゃって気も抜けて。なんか打ち上げみたいな感じだったよ」
 笑った快斗の肩を新一が叩く。
 大きな隠し事をしていた快斗の気苦労を新一はよく知っている。

 着替え始める彼の背に快斗は質問をぶつけた。
「どうしたの、昨日は?」
 新一は答えない。一瞬手が止まったのだから、聞こえていないわけでないだろう。
「発作じゃなかったみたいだし……」
 発作なら寝不足になることはない。直後は必ず熟睡してしまうのだから。
 快斗はそのまま新一の答えを待った。
 着替え終わってようやく新一が振り返った。
「急に頭が痛くなったんだよ。だから早いところ寝ようと思ってさ」
「頭痛? そんな症状これまでなかったのに。哀ちゃんに知らせておいた方がいいよ」
「何でも発作に関連づけるなよな。ただの風邪の引きかけかも知れないだろ。眼精疲労とか、肩こりからかもな。ここのところ本ばっかり読んでいたから」
「それでも一応さ」
 わかっている、と新一が煩わしげに手を振る。
 しかし、それでは寝不足との関連がわからない。痛みがひどくて眠れなかったのだとしたら、リビングに置かれている薬を取りに来ればよかったのだ。
「飯より先にシャワー浴びるか」
 ひとりごちて新一が部屋を出ていく。
 その背中が質問を拒絶しているように見えて、快斗はいったん引き下がることにした。

 廊下の窓辺で新一が足を止めた。並んで外を見てみると、車がガレージから出ていた。運転席には腕を組んだ平次の姿がある。
 昨夜の再現をしているのだと快斗にはぴんと来た。平次も新一の行動には疑問を持っていたようだったから、彼なりに考えているのだろう。
 そっと窺った新一の横顔には、柔らかい苦笑が滲んでいた。
「平次も心配していたんだよ」
 新一は快斗に視線を戻して、悪かったと言った。
「ガレージとは関係ないのにな。あんなことしても無駄だ」
 快斗を置いて、新一が階段を下りていく。
 快斗は最後に呟くようにいった彼の言葉を反芻していた。
『あいつにはわからねぇよ』





 平次は玄関に入って息をついた。外の日差しはもう強くなっている。今日も暑くなりそうだ。
 先ほどまで平次は車の中にいた。
 昨日新一の様子がおかしくなったとき、彼は運転席でガレージの奥を見つめていた。だから、同じ場所から眺めてみれば何か発見があるかも知れないと思っていたのだが、無駄に終わった。特に気にかかるようなものはガレージにない。
 とりあえずリビングに戻った平次は、新一の姿を認めて足を止めた。
 彼はキッチンで食事をしていた。背を向けているので表情まではわからないが、快斗を相手に笑っている。

 新一の発作は自分のせい。
 それが平次の足を止めさせる。
 どこまで近づいて良いのだろう。いきなり声を掛けても大丈夫なのだろうか。
 とまどって立ちすくんでいた平次に快斗が気づいた。
「平次。外、もう暑かったでしょ。なにか飲む?」
 新一が振り返って小さく笑った。
「おはようさん」
「おはよう。朝からなにをやっているんだよ。別にガレージは関係ないんだよ。昨日はいきなり頭が痛くなっただけだ。寝たら治った」
 心配するなと彼はいう。

 シャワーを浴びたらしく、新一の髪は濡れている。さっぱりしているはずなのに、目元が腫れているようだ。
「そうなん? その割には寝不足の目をしとるで」
 おそるおそる近づいてみる。
「ちゃんと寝た。眠りが浅かったんだろ」
 新一はまた食事に戻った。
 快斗がアイスコーヒーのグラスを新一の隣の席に置く。思わず平次は彼を睨んだ。発作の原因について指摘したのは快斗だというのに、なにを考えているのか平次にはわからない。
 平次はテーブルにつかずにグラスを取り上げた。新一の隣に座るのはためらわれる。立ったまま飲み始めた平次に快斗が苦笑した。気にしすぎだと目が語っている。
「昨日遅くまで飲んでいた割には、ふたりとも平気そうな顔してるな」
「ビールメインやったからな」
 買い置いてあったビールと平次が持ってきた日本酒、それに快斗がどこかから手に入れてきた洋酒。工藤邸に置かれていた優作のものと思われる酒にはもちろん手をつけなかった。

「平次って見た目以上にウワバミだね」
 新一の正面に腰掛け、快斗が笑う。
「こいつは風邪を引いていたコナンに中国酒を飲ませたやつだからな。根っからの酒好きなんだ」
「工藤。古いことを持ち出さんでも」
「まぁ、おかげであのときこの身体に戻ったんだけどな」
 キッチンの壁に寄りかかる平次を新一がちらと見上げる。眼差しには懐かしげな優しい色があった。
 平次の中で、緊張がほどける。
 あの発作の原因が自分にあったというのに、彼は自分を避けていない。それが意外なほど嬉しかった。
 平次はアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「そうやったな。そんとき初めておまえに会うたんや。俺は」
「昨日も飲みながらその話をしていたね、平次は。よっぽど衝撃的な出会いだったんだ」
 頬杖をついて快斗がくすくすと笑う。
 それを見て新一が平次を睨み上げた。
「なんかいらないことまでしゃべったんじゃないだろうな」
 首を振る平次にさらに快斗がいう。
「いろいろ話してくれたよ。新一と解いた事件のこととかさ」
 快斗がよけいなことを言い出さないうちにと、平次は彼の口を封じにかかった。
「黒羽。おまえかて白馬のこと愚痴っとったやないか。男にこだわられても困るゆうて」
「え? そんなこと話した?」
「覚えとらんのか? 忘れるほど酔っとるようには見えんかったけどな」
 快斗は真剣に首をひねっている。本当に覚えていないようだ。

「愚痴と言えばさ、平次も言っていたじゃん。どうして自分が原因なんだろうって」
 快斗に言い返されて、平次は言葉に詰まった。確かに愚痴った。どうすることが新一にとって一番良いのか、よくわからなかったからだ。それは今もわからない。
「気にするな」
 食事の手を止めて新一が平次を見る。
「せやけどな、工藤」
「もう起きねぇよ。だから、気にするな」
 驚いたように瞬いた快斗の目がきらりと光った。含み笑いをしつつ、彼は席を立つ。
「起きないってなぁ。自分の意志で止められるもんちゃうやろ。無理せんでもええんやで。もう少しようなるまで、俺が近づかんようにしたらええんやし」
 自分の気の遣いようで彼の身体への負担が減るのならそれでいい。
「無理ってなんだよ。そんなもんしてねぇぞ、俺は」
 新一が立ち上がり、人差し指を平次の鼻先に突きつけた。
「俺の問題なんだから、おまえは気を遣う必要なんてないんだよ」
 近づく新一に平次は思わず後ずさる。

 平次に詰め寄る新一の背中に快斗が抱きついた。驚いた新一が「暑苦しい」と振り払うのにもめげず、快斗は楽しそうに笑っている。
「新一ってば、可愛いねぇ。そんなに平次が離れるのがいや?」
 新一の頬に朱が走った。
 快斗は目をきらきらさせながら彼の表情を覗き込んでいる。
「バ、バーロ! どこをどう取るとそうなるんだよ」
「聞いたまんま、だけど?」
「どういう耳をしてんだ、おまえは」
「素直な耳」
「……なに言ってやがる。いい加減に離れろ」
 新一の声に怒気がこもる。
「あれ? 俺には離れて欲しくて、平次には離れて欲しくないんだ?」
 平次を見る快斗の目は、やはりとても楽しげだ。平次は嫌な予感がした。短いつき合いだが、こういう目をしたときの快斗はなにか企んでいる。
「いくら言葉で言っても平次は納得しないと思うよ。こういうときには行動で示さないとね」
 動揺している新一ととまどっている平次をよそに、くすくすと笑いながら快斗は続ける。
「俺がこうしても新一は発作を起こさない。前からそうだよね。でも、この間までなら平次がこんなことをしたら、新一は絶対発作を起こしていた。だから」
 言いざま快斗が新一を平次の方に突き飛ばした。
 ぶつかってきた身体を平次はとっさに抱きとめる。ふわっと石けんの香りがした。
 至近距離に目を見開いた新一の顔があった。
 ふたりは固まったように見つめ合った。

「ほらね、平次。新一は平気でしょ?」
 快斗の声に我に返る。
「快斗!」
 真っ赤になった新一が平次の腕から逃げだし、快斗に向かって蹴りを繰り出した。すばらしいタイミングとスピードのそれを、快斗が見事な身のこなしでかわす。リビングに逃げた快斗を新一が追った。平次は彼らの攻防を呆然と見ていた。
「……発作、起こすんちゃうか」
 血圧が上がるような言動は、新一にとって厳禁だったはずだ。だが、ひらひらとソファを飛び越えながら逃げる快斗を躍起になって追いかけている新一は元気そうだ。顔は真っ赤だから、血圧も上がっているはずなのに発作は起きない。
「……発作、起きへんかったな」
 自分が抱きとめても、彼は大丈夫だった。今までなら絶対発作を起こして胸を押さえていたはずなのに、なぜ突然平気になったのか。普段なら疑問に思うところだったが、平次はそれどころではなかった。

 自分の動悸が治まらない。
 抱きとめた身体の感触がまだ腕に残っている。纏っていた石けんの香りさえまだ鼻先にあるようだ。
 赤くなった顔。驚いて開かれた目。唇もゆるくほどかれていた。
 ――ほんま整った顔しとったな……。
 思い返すとまた心臓が騒ぎ出す。
 平次は胸を押さえた。
 見慣れている新一の顔がやけにまぶしく記憶に残ってしまった。
「こら、待て、快斗! 捕まえたらただじゃおかねぇぞ!」
「簡単に捕まる怪盗は怪盗じゃない。捕まらないから怪盗なんだな、これが」
 息を切らしている新一よりも、快斗の方に分があるようだ。
 平次は椅子に腰掛けて、背もたれに肘をついた。リビングを駈け回る新一を目が勝手に追ってしまう。
 ――なんか、まずいことになったかもしれへん。
 その予感が的中していたことがわかるのは、まだ少し先のことだった。



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