無自覚な関係シリーズ 第四章

心因性



 ノックもそこそこに快斗は新一の部屋に入った。
「おはよ。ごめん、ちょっと遅れた。だから早く起きてよ、新ちゃん」
 小走りに窓辺に向かい、カーテンを勢いよく開ける。梅雨の晴れ間の日差しはすでに真昼のようにまぶしい。梅雨明けも近いだろう。
 ベッドの上で唸っている新一を快斗は遠慮なく揺さぶった。
「ほら、起きて。今日は一限、必修だって言ってたじゃん。出ておかないと、来週からの前期試験で苦労するかもよ」
 頑なに開こうとしない新一のまぶたを快斗は指で引き上げてみた。
「……おい!」
 寝起きのせいで普段よりずっと低い抗議の声は凄味があった。細く開いた目は不機嫌そうに快斗を睨んでいる。
「おはよう」
 にっこりとこの上ない笑顔を浮かべて見せた快斗に、新一が脱力した。
「さぁ、起きようね。起きないとこのまま引きずって下まで運ぶよ」
 新一の脇の下に手を入れて、快斗がベッドの上から引き落とそうとすると、ようやく彼は起きあがった。
「起きる。起きるって……」
 大きなあくびをひとつして、両手で目をこする新一の姿はとても平成のホームズとは思えない。
 微笑ましい新一を眺める余裕は今朝の快斗にはなかった。最も早く起き出す平次が珍しく寝坊し、彼の立てる物音で目覚める快斗の寝起きも遅れたのだ。目覚まし時計代わりの携帯電話はマナーモードを解除し忘れて役には立たなかった。
「いつもより遅れているんだから、早く食べて」
 足下のふらつく新一の背を押すようにして、快斗は彼の部屋を出た。





 新一を連れて快斗がキッチンに顔を出すと、朝食の支度をしていた平次が笑顔を見せた。
「おはようさん、工藤」
 テーブルの上にはトーストとスクランブルエッグが並んでいる。いつもならあるサラダがないのは、時間がなかったせいだろう。
「おう」
 まだ半分眠っているような新一がのろのろと席に着き、平次からマグカップを受け取る。快斗も自分の席に座って同じようにマグカップを受け取った。なみなみとベージュ色になっているコーヒーが注がれている。ブラックコーヒー派の平次曰く、新一と快斗が飲んでいるのはコーヒーではなく、カフェオレらしい。
「すまんなぁ、工藤。寝坊してもうてちょお遅くなったさかい、急いで食うてんか。のんびりしとるといつもの電車、乗り遅れてまうで」
 せかす平次に新一はやはり寝ぼけたような返事をしている。今にもまぶたが下りてしまいそうだ。
 快斗はちらりと平次と苦笑を交わした。
「工藤。目ぇちゃんと開けや」
 平次が身を乗り出して、ぼんやりとトーストの耳をかじっている新一の前髪を掻き上げた。
 大きく目を見開いた新一の手が、自分の胸に伸びる。
 一瞬、食卓に緊張が走った。
 平次は新一の髪に触れたまま固まり、新一はその彼の顔を見ている。快斗と言えば、マグカップに口を付けたままの姿勢で、動きを止めたふたりを見つめていた。
「新一、平気?」
 快斗の声で呪縛が解けたように、ふたりが動き出した。
「大丈夫。もうなんともない」
 しっかりと覚醒した声で新一が言う。朝食に取りかかる彼の顔には確かに先ほどまでの眠気はない。
「すまん、おどかしてもうたみたいや」
 心配そうな表情を隠そうともせずに、平次が新一を覗き込む。
「気にすんな。このくらい、発作のうちにも入らねぇっていつも言っているだろ」
 遅刻するのは嫌だからさっさと食べろ、と先ほどは逆に新一が平次をせかす。
 快斗も肩から力を抜き、食事に戻った。しかし、その目は新一から離れなかった。

 最近、軽い発作の前兆がたびたび新一を襲う。この春までそのようなことはほとんどなく、彼の体調は順調に回復していると思っていたのだ。快斗も、哀も。
 実際、梅雨に入る前に行われた哀の検査でも、新一の身体に異常は見られなかった。原因と考えられていた心肺機能にもおかしなところはなく、それどころか順調に回復していると結果には出た。哀も原因不明とお手上げ状態だ。
『痛いと言うより、苦しくなる感じがする』
 新一から状態を聞いた哀は眉をひそめて「度重なるようなら大学病院で精密検査を受けた方がいいかも知れない」と快斗に漏らしている。
 快斗としてみれば、検査は早いほうがいいと思っている。何事も早期発見、早期治療が大事だ。





 一限目から講義のある彼らを送り出して、快斗はようやくほっとした。自分の講義は二限目からだ。まだ家を出る時間には余裕がある。
 朝食の片づけを終えて、快斗はリビングのソファに腰を下ろした。鞄から手帳を取り出す。日々のスケジュールを記したそれには、新一の体調についての記録も残してあった。
 四月から使い始めた手帳には、白紙の部分が多い。去年、日程表が真っ黒になるほど書き込まれていた新一の発作の記録がないせいだ。
 快斗は手帳を睨んだ。
 発作の書き込みが月を追うごとに増えている。四月はなかった。五月から始まって、六月。そして、今は七月。まだ月半ばだというのに、すでに六月の発作の回数に迫る勢いだ。すべて例の発作の前兆だ。一瞬苦しくなって、すぐに消えてしまう違和感。
 身体の機能は回復してきているのに、発作だけが増えている。だが前兆だけで発作にまで至らないのは、やはり回復している証拠なのだろうか。
 『朝食の最中。例の前兆』
 手帳に書き入れて、快斗は軽く首を振った。
 あと一回で、先月と同じ数になってしまう。
 病院での検査を勧めた方がいいかもな。
 絶対嫌がるであろう新一の抵抗を考えて、快斗はちょっと頭を抱えた。





 板書する教授の背中をぼんやりと眺めながら、快斗は講義とはまったく別の考え事をしていた。
 新一のあの原因不明の発作のことだ。
 あれはどこかおかしい。
 その疑問は、昼休みに新一の姿を見かけたことからふとわいた。


 昼休み、シャープペンの芯を切らして購買に行った快斗は、そこで新一を見た。正確には、購買の近くで遊んでいる新一をだ。狭い中庭の一角で彼は友人数人とサッカーに興じていた。
 無茶をしていないかと見守っていた快斗は、しばらく眺めて安堵した。地面にボールを落としたらいけないというまるで蹴鞠のような遊びは、心配するほど運動量はなさそうだった。
 大丈夫だろうと購買から帰りかけて、快斗は足を止めた。
 振り返って楽しげな新一を見る。
 明るく笑う彼は健康そのものに見えた。
 ――なんか、変だ。


 発作はいつも家の中で起きる。寝起きだったり、夕食のあとだったり、時間帯はバラバラだが、家の中だ。
 大学で起きたことがあると快斗は聞いたことがない。
 新一には発作の報告が義務づけられている。哀からの厳命に渋々従っているだけなのだが、それでも彼は怠るようなことはない。健康な身体に戻るための最善の方法だと新一もわかっているのだろうと快斗は考えている。療養中、事件の捜査に加わることが出来なかったことが、何よりも彼にとってはつらかったに違いない。
 だから、新一が起きていないと言えば、起きていないのだ。家の外での発作は。
 そこが快斗には不思議なのだ。
 もっとも安らぐ場所が家だろう。自宅以上にのんびりと気兼ねなく過ごせる場所があるとは思えない。確かに現在、同居人がふたりいるが、気を遣う相手ではないはずだ。
 コナンから元の姿に戻るまでつきっきりで暮らしていた自分と。
 やはりコナンの正体を知り、相棒として信頼もしている平次と。

 板書された内容を機械的にノートに写しながら、快斗はため息をついた。
 ひとつ、思い当たる節があった。
 新一は平次に対して隠し事をしている。
 快斗の裏の顔を新一は知り、平次は知らない。そのことだ。
 もしかすると、それが新一の中で緊張感として表れているのではないだろうか。だから、自分と平次が顔をつきあわせている家の中でだけ、あの妙な発作が起きるのではないか。
 快斗はノートの上に突っ伏した。
 考えれば考えるほど、思考が暗い方に行ってしまう。
 いっそ平次にうち明けてしまおうかとも思うのだが、まだ早いような気もする。平次がどんな反応をするのか、快斗にはまだ予測がつかないのだ。
 ――相談してみようかな。
 快斗の脳裏に浮かんだ顔は、新一ではなく哀のものだった。



 快斗は阿笠邸で哀の出してくれたコーヒーを飲みながら、クッキーを食べていた。阿笠邸ではお菓子は切れることがない。もちろん快斗のために買い置かれているのでもなければ、博士のためでもない。しょっちゅう遊びに来る少年探偵団のためだ。リーダー格であったコナンが抜けても彼らの活動は続いているらしい。
 快斗はひとりで阿笠邸に来ていた。探偵ふたりは警視庁に寄っている。なんでも以前の捜査の調書について話があると連絡が来たらしい。遅くなるかもと新一からメールをもらった快斗は、夕食用のご飯だけ炊いて哀に会いに来たのだった。
「それで、話ってなにかしら」
 コーヒーカップを置いて、おもむろに哀が切り出した。
「ちょっと待って」
 クッキーをほおばりながら快斗は手帳を取り出した。
「今日さ、ふと思ったんだけど、新一って大学では発作を起こしていないんだよね」
 手帳を覗き込んだ哀が、そうねと頷く。
「でもさ、それっておかしくない? 家の中でばっかりなんだよ。それで俺考えたんだ。俺のせいかなって」
 哀が快斗の顔を見上げる。
「ほら、平次は俺の仕事を知らないから」
 快斗が昼間考えたことを哀にうち明けると、彼女は首を傾げた。
「確かに考えられなくもないわね」
 見せてもらえる? と哀は快斗の手帳に手を伸ばした。書き込みを見つめていた哀が目を上げずに快斗に聞いた。
「基本的に時間帯と発作の状態だけ書いているのね」
 哀は手帳をテーブルの上に置いた。
「私も工藤くんからの報告を受けて、ちょっと気になっていることがあるの。黒羽くん、あなたは発作の引き金になったことを覚えている?
「だいたいのところは覚えているよ」

 まず、今朝は、朝ご飯を食べている時。平次が新一の前髪を掻き上げたときに起きた。
 で、おとといは、夜中。新一がソファでうたた寝をしていたのを平次が起こしたとき。
 その前は、やっぱり夜。風呂上がりに新一と平次が洗面所で鉢合わせをしたとき。
 それから、その前は、平次が朝新一を起こしにいって、強引にベッドから引きずり出したとき。

 そこまで思い出して、快斗は哀の顔を見た。
 じっと彼女は快斗を見つめていた。
「全部服部くんがらみでしょう?」
「気づかなかったよ、今まで」
 快斗は手帳を繰った。
 思えばこのおかしな発作が起き始めたのは、五月から。しかし、平次が工藤邸で暮らすようになったのは、三月の末からだ。
「でも、四月には一回も起きていない」
「服部くんに対してしている隠し事が原因ならば、彼が上京した直後から起き始めてもおかしくないわ。そして、普通は隠していることになれてしまうのよ。緊張状態は時間を追うごとに薄らいでいくもの。なくなることはないにしても」
「じゃ、俺が原因ってことは」
「なくはないけど、可能性は低そうね」
 快斗はソファの背に寄りかかった。
「そうなると、原因は……」
「原因は、彼でしょうね」
 服部平次。
 快斗は哀と見交わした。
「でも、どうして」
「あなたにも思い当たることがあると思うけど」
 快斗は天井を仰いで、記憶をたどった。

 起きようとしない新一を抱え込んでベッドから引きずり出した平次。
 洗面所で濡れた髪を乾かしていた新一をからかった平次。
 ソファで寝ていた新一を起こそうと肩をつかんで揺さぶった平次。
 そして、今朝、新一の髪を掻き上げた平次。

 快斗が同じ行動を取っても、新一は発作を起こさない。
 頭をなで回そうが、抱きつこうが、新一は平然としている。たまに鬱陶しいと蹴ってくるぐらいだ。
 なのに、平次相手だと、違う。
 ――触れられると、胸が苦しくなるって……。それって、新一。
 ひとつの可能性に快斗は思い至った。
 しかしそれはそう簡単に信じられるものではなかった。

「あれは発作ではないかもしれないわね。発作ではなく、心理的なもの」
 快斗の導き出した答えを後押しするように哀が言う。
 呆然としたまま、快斗は哀を見た。彼女の目は至極冷静で、冗談の入り込む隙はない。
「現実に彼の身体は順調に回復しているわ。激しい運動さえ避ければ、日常生活に支障をきたすことはないはずなの」
 とまどう快斗を置いて、哀は先へ進んでいく。
「ずっと悩んでいたのよ。でも、こういうことなら、あの症状にも納得がいくわ」
「こういうことって……。哀ちゃんは簡単に言うけど。ちょっと待ってよ、もし違っていたらまずくない? 俺たちの勘違いって言うか、気の回しすぎかもしれないじゃん」
 快斗は両手で哀を押しとどめるようにした。彼女に理論を展開されるともう決まったことのような気がしてしまう。
「あなたは勘違いだと思う?」
 問われて、快斗は言葉に詰まった。
 たどり着いた答えが正しい可能性は高いと思っている。だが、信じられないという気持ちの方が強かった。
「確かめる」
 それが事実だったとしても、受け入れる覚悟はある。それぐらいのことで新一への見方が変わるほど、浅いつきあいではない。
「確かめてみるよ」
「直接聞くの?」
「そんなことはしないけど」
 そうはいったものの、すぐにはいい方法が浮かばない。
 快斗が唸っていると哀が慰め顔で言った。
「一緒に暮らしているんだから、気をつけて見ていればいずれわかるんじゃないのかしら」
「そうだね」
「あなたは勘違いであることを願う?」
 快斗は冷めたコーヒーを飲み干して、ソファから立ち上がった。
「事実だったら、俺は新一の恋を応援するよ。新一は大事な人間だからね」
 見上げてくる哀に笑ってみせると、ほほえみが返ってきた。
「とにかく新一を観察してみるよ」
「結果報告を楽しみにしているわ」
 快斗は軽く手を挙げて、帰ろうと彼女に背を向けた。
「ところであなたは気づいている?」
「なにを?」
 振り返ると意味深な笑みを浮かべた哀がソファに座ったまま快斗を見ていた。
「工藤くんが自分の恋愛感情を自覚していたなら、私たちに胸が苦しくなるなんて言うかしら」
 快斗は曖昧な笑みを浮かべた。それ以外の反応が返せない。
 視線を天井にさまよわせたのち、快斗は哀に向って苦笑した。
「つまり自覚してないってこと?」
「私はそう思うわ」
 しかしなぁ、と快斗は思わずぼやいた。
「女の子を選り取りみどりの新一が男に惚れるっていうのは、意外すぎだな。しかも自分でわかっていないなんて」
「想像の範囲内のことしか起きない世の中は、あなたにとってはつまらないんじゃないかしら」
 哀が珍しくいたずらっぽく笑っている。
 まぁね、と答えて、快斗は彼女に片目を閉じておどけて見せた。



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