無自覚な関係シリーズ 第三章
原因 不明
平次は新一の部屋の前で足を止めた。軽く息を吸い込んで、扉をノックする。だが、中から反応はない。
「工藤」
平次は声をかけた。
耳を澄ませてみてもやはり返事は聞こえない。
現在、七時半。
そろそろ起き出さないと遅刻する時間だ。
普段なら寝起きの悪い新一を起こすのは快斗の役目だ。その間に平次は食事の支度をする。いつの間にか決まってしまった役割分担が、今日はちょっと違う。快斗が外泊したためだ。
平次は快斗からの忠告を思い返しながら、ノブに手を掛けた。
「工藤。入るで」
『部屋に入ったらまずカーテンを全開にすること』
頭まで布団を被っている新一を横目に、平次は部屋を突っ切ってカーテンを開けた。明るい朝の日差しが部屋の中に射し込む。
ベッドの上の新一がもぞもぞと動いて丸くなった。
まだ起きる気はないらしい。
平次はため息をつくと、窓を開け放った。
五月のさわやかな風が部屋の中を吹き抜ける。
『天気が良かったら窓を開けて換気。新一はベッドの中に潜ってると思うけど、遠慮なく掛け布団をはがして。思いっきり』
「工藤。起きや! もう時間やで」
平次は力任せに新一の布団をはぎ取った。
シーツの上で新一が丸まっている。
平次は何となくヤマネの冬眠を思いだした。
「ほら、起き! 朝飯出来てんで」
新一がうなり声を上げる。どうやら抗議をしているようだ。
「今日の一限、必修やろが工藤は。起きな間に合わんで」
「……朝食、なしでいいから、寝かせろ」
目を閉じたまま新一が唸るように言う。眉間に皺が寄っているのは、朝日がまぶしいせいだろう。
『朝ご飯は必ず食べさせること。絶対だよ。なんなら無理矢理口の中に押し込んでも良いから。食べないと目が覚めないんだよね。普段の新一は』
発作が原因で眠り込んだ時は深く眠るせいか、普段より新一の目覚めが良いらしいのだ。
「あかん!」
手探りで掛け布団を探す新一に、平次は腹の底から声を出した。
「朝飯は食わな。ほら、起き!」
『ベッドの上から落としても大丈夫だよ。それぐらいなら発作は起きないから』
快斗はそう言っていたが、平次は少し不安だった。最近、新一はまったく発作を起こしていない。前兆もない。だから、おそらく快斗の言うとおり平気なのだろうとは思うが、いざ実行するとなると気合いがいる。
まだ丸まっている新一の背中を少しずつ押して、ベッドの隅に追いやる。落ちるぎりぎりのところまで来て、ようやく新一が目を開けた。
「服部、おまえ、低血圧の人間に対して容赦ねぇな」
恨みがましい視線を平次は笑ってかわした。
「工藤は低血圧ちゃうやろ。宵っ張りの朝寝坊やんか。もうちょいはよ寝たらええんや。早寝早起きは健康にいいで」
『特に低血圧じゃないわ。低めではあるけど、標準の範囲内よ』
これは新一の担当医と化している哀の言葉だ。
もぞもぞとベッドから起きあがった新一が、まず手にしたのは枕元の携帯電話だった。メールの着信などを確認しているのを平次は見るともなしに見ていた。
「快斗から連絡あったか?」
チェックを終えて大きなあくびをしながら、新一が平次に聞く。
「別になんも。昨日出がけに、今日は大学に出てくるゆうてたけど。なんか連絡来るんやったん?」
「いや、ないならいいんだ」
もう一度大あくびをして、ベッドに座ったままの新一が平次を見上げた。
「着替えてから降りる」
「パジャマで食べたらええやん。いつも通りに」
『着替えよりも先に食事をさせること。着替えるって言って部屋にひとりにさせると二度寝するから』
新一が半眼のまま平次をじろりと睨む。
「おまえ快斗からなんか聞いているな。そうだろ。起こすパターンが一緒だ」
「昨日、工藤の起こし方をレクチャーしてもろたんや。おまえの寝起きの悪さは絶品やからなぁ」
「悪かったな」
悪態はあくびにまぎれた。
「けど、快斗よりはまだましだ」
部屋から出ながら新一が言う。
「へぇ、もっとなんかあるんや」
「快斗のやつ、布団に潜り込んでくすぐったりするんだぜ」
不機嫌な新一にかまわず、平次は思わず吹きだした。
「そら大変やなぁ。黒羽」
「大変なのは、俺だ」
平次の足を蹴飛ばして、新一がどかどかと足音も高らかに階段を下りていく。平次はしっかり目の覚めた新一の様子に笑いをかみ殺しながら、彼のあとに続いた。
同じ電車同じ場所に乗って、新一は同じ時間に大学の最寄り駅に到着した。電車からはき出される乗客のほとんどが学生だ。改札に向かう途中で新一の耳は気になる単語を拾った。
「かっこいいよねぇ。キッド様!」
斜め前を歩く若い女のふたり連れがテンション高く怪盗キッドについて語っている。
「朝のニュース見た? また予告通りに現れたって」
「もちろん見たよ。やっぱり捕まらなかったって。さすがぁ」
「一回でいいから会ってみたいなぁ」
「私、前に生で見たんだよ! キッド様」
うらやましいー、という声はあながち嘘ではないようだ。
ミーハーに騒ぐのは園子だけではないのだな、と新一は内心苦笑した。
「また逃げられたようやで、白馬のやつ」
こっそりと平次がささやく。
「らしいな」
ふがいないとでも言いたげな平次を前に、新一は曖昧な笑顔を浮かべた。
携帯になんの連絡もなく、起こしに来た平次がなにも言わなかった時点で、新一は快斗の仕事が無事に終わったのだとわかっていた。念のために見たテレビニュースや新聞には、キッドを取り逃がしたことが報道されていて改めて安堵した。が、新聞の記事の片隅に宝石が返されたとあったのを読んで残念に思った。これで快斗はまだキッドを続けなければならない。
「白馬、キッドのこととなると目の色が変わるらしいな」
平次にさりげなく聞いてみる。平次は探と中学時代からの知り合いと言うことで、少なくとも新一よりは探に親しい。
「せやな。他の窃盗犯には目もくれず、キッドだけを追っとるらしい。昔は俺らと一緒で殺しメインやったのに、戻ってきてからはキッドにかかりきりや」
快斗が以前懸念していたとおり、白馬探は帰国した。
やりにくくなったよ、と快斗がぼやいていたのを新一は良く覚えている。
『まぁ、中森警部と白馬の性格があんまり合わないんだよね。白馬が単独で行動したりするからさ。今までみたいにふたりが牽制し合ってくれるといいんだけど、タッグを組まれるときついかも』
快斗はそういいながらも不敵に笑っていた。
「工藤もキッドに興味あるん?」
駅から出たところで平次に聞かれて、新一は彼の顔を見た。平次に他意はないようだ。
「泥棒には興味ない。けど、挑戦されれば受けて立つぜ」
一番自分らしい答えを返すと、平次は笑う。
「今はもっぱら白馬を挑発しとるし、しばらく工藤の出番はなさそうやな」
平次は快斗の裏の顔を知らない。
様子を見て、うち明ける時は自分から、と言っている快斗の手前、新一はなにも言えない。だが、遅かれ早かれ、平次は快斗の正体を自分で見抜いてしまうような気がしていた。親しくなればなるほど快斗のガードは下がるだろうし、逆に平次は時間を共にすればするほど快斗の行動パターンのおかしさを気にするようになるだろう。
「べつに出番なんていらねぇよ」
「ほんまか?」
にやっと平次が笑う。
「予告の暗号を解くのは楽しいけどな」
「それはそうやな」
頷いたあと、平次の話題は昨夜のサスペンスドラマに移った。原作の味が消えていたと彼はひどく憤慨しているのだ。
新一が驚くほど早く平次と快斗は親しくなった。一緒に暮らしはじめて一週間で快斗が平次のことを名前で呼ぶようになったほどだ。
もともとふたりとも人見知りなどするような可愛い性格ではない。その上快斗は人の気を引くこつを心得ているし、平次は基本的に裏表がない。ただし個性が強い者同士、反発し合ったら大変だとは思っていたのだが、それは新一の取り越し苦労だったようだ。
たまに新一の都合がつかない時など、ふたりで買い物や遊びにも行っている。あまりにも仲が良さそうなので、たまに寂しくなるほどだ。
「帰りに携帯に連絡してな。一緒に帰ろうや」
大学の正門を入ったところで、いつものセリフをいつもと同じように手を挙げて言いながら、平次が本館へ向かう人混みにまぎれていった。
おう、とやはりいつものように応えて、新一も自分の講義室へ向かった。
快斗もおそらくすでに一限目の講義室で席に着いているだろう。
あとでメールでもしてみるか、と思っていた新一の携帯にメールが入った。
快斗からのそれには『おはよ。ちゃんと起きれた? 帰る時は声を掛けてよ』とあった。最後にはハートマークまでついていて、新一は気障なキッドと素の快斗のギャップに少し笑った。
「おーい、新一、平次! 待った?」
夕暮れの長く伸びた影を引きずりながら、快斗が駆け寄ってくる。本館の掲示板前は待ち合わせの名所になっていて、待ち人は多い。そこに向かって大きく手を振って飛び込んでくる快斗に、平次は苦笑した。
「おっせーよ」
新一が不機嫌な顔で言う。だが、彼もつい先ほど来たばかりなのだ。快斗に対して文句を言う権利はない。
「一番待ったんは俺や。工藤はさっき来たとこ」
「なんだ新一も遅れたんじゃん」
笑う快斗は息も切らしていない。
細い身体のどこにそれだけのスタミナがあるのだろうと平次は時々疑問に思う。
「さぁ、帰ろうか」
快斗が新一の肩を抱く。
じろりと睨んで、新一がその手をたたき落とした。
「いいじゃん。昨日は俺がいなくて寂しかっただろうにさぁ」
「馬鹿野郎。静かで良かったに決まっているじゃねぇか」
小突き合いながら帰宅の途につくふたりに並んで、平次も歩き出した。
外見のよく似た新一と快斗は、よくじゃれ合うようにして遊ぶ。遊ぶと言うより、快斗が新一をかまうのだ。まるで本当の兄弟のようで、平次は彼らの血が繋がっていないことが不思議でならない。
新一の発作が起きない程度の遊びを仕掛けることが出来る快斗が、平次にはうらやましい。今の新一は平次にとって壊れものなのだ。かまう時の力加減がさっぱりわからない。初めて子供を抱く父親の気持ちに似ているかもと考えた平次は、しみじみと快斗に言った。
「黒羽は保父さんとか向いてそうやな」
きょとんとした顔でふたりが平次を見る。
「なんで?」
「いや、工藤の扱い上手いし」
ぽろりとこぼれた言葉に新一の表情が変わった。
「それは俺が幼児だっていいたいのか」
平次が否定する前に新一の蹴りがすねに炸裂し、平次はその場で悶絶した。
最後に風呂を使った快斗がようやく出てきた。ページをめくる手を止めて、新一はソファに寝転がったまま快斗を見上げた。彼は濡れた髪をタオルで拭いている。癖毛なので妙にはねているのがおかしい。
「服部! 快斗が出たぞ、コーヒー淹れてくれ」
キッチンで片づけものをしていた平次がリビングに顔をのぞかせた。
「工藤はインスタントな。昨日、カフェインレスのを買うてきたんや。これなら眠れんようになることはないで」
「レギュラー飲ませろ。俺にカフェインは効かないんだよ」
新一が睨みつけても平次の笑顔は揺らがない。
「あかんあかん、少しでも朝起きやすくするには、よう寝んとなぁ」
カフェインは深い眠りを妨げるし、と平次がまたキッチンへ消える。新一は彼の消えた方をじっと睨んだ。
「まぁ、いいんじゃん。いい眠りは疲れを癒すんだし。脳みそにだって良いよ。きっと」
起きあがった新一の隣に快斗がひょいと腰掛ける。
目の前で揺れる快斗の癖毛に新一は手を伸ばした。
「なんか癖強くなってないか」
「ああ、濡れるとね」
快斗は自分の髪の毛を上目遣いに引っ張っている。
「そういうもんか」
一緒になって新一も彼の髪を引っ張ってみる。乾いているとき感じていたよりも意外と長い。
髪の毛をつまんだまましみじみと眺めていると、快斗がお返しとばかりに新一の髪を引く。
ふたりでそのまま互いの髪の毛を引っ張っていると、平次のあきれた声がかかった。
「なにしとんねん」
盆にコーヒーカップと皿を乗せた平次が脇に立っていた。
「あ、シフォンケーキ」
皿の上に乗ったものをめざとく見つけて快斗が嬉しげな声を上げる。
「昨日、博士が持ってきたんだよ」
「もしかして、哀ちゃんの手作りかな」
前に置かれる皿とカップに快斗が身を乗り出す。
「残念だったな、もらいもんだってさ」
「ほんま黒羽は甘いもんに目がないなぁ。夕飯も食って、寝る前にこんなもん食ったら普通太りそうなもんやけど」
ケーキの皿は二枚だけ。平次の分がないのだ。
「カロリーの消費が激しいんでね」
「普通に学生しとってそない消費するかい。どこでどんな風に消費しとるんや? 黒羽」
わずかに口を滑らせた快斗に平次が突っ込む。
新一は一瞬緊張した。だが、こっそり窺った平次の表情はいつもとまったく変わらない。
「砂糖は脳のエネルギーです。頭脳労働が激しいんだよ、俺は」
しれっとした快斗の返答に平次が笑う。
「ただ単に燃費の悪い頭なんちゃうか?」
「言ってくれるねぇ」
快斗が平次を睨む。そこには緊張感の欠片もなかった。
焦った自分が馬鹿らしくなり、新一は目の前のケーキに取りかかった。
「美味しい。平次も食べればいいのにねぇ、新一」
隣で食べる快斗は幸せそうだ。
それを平次がうんざりとした顔で見ながらコーヒーをすすっている。
「服部が食べない分、快斗の取り分が増えるんだからいいだろ」
新一の意見に快斗がなるほどと頷く。
「発想の転換だねぇ」
快斗が空いた手を新一の頭に伸ばして撫でる。子供扱いされた気がして、新一はフォークを置くと、快斗に向き直り彼の濡れた頭を両手で思い切り乱した。
「新一!」
髪の毛を逆立てた快斗に新一は思いきり笑った。
「すごい頭になったな、黒羽。けど、似おうとるかもしれへん。見方によったらな」
「平次、それ、フォローになってない」
手櫛で髪を整えながら、快斗が平次に突っ込む。
「そのままにしておけよ、快斗。せっかく俺がかっこいい髪型にしてやったんだから」
「そんなら、工藤の頭もかっこよくしたる」
テーブルの上に身を乗り出した平次が、新一の頭をぐしゃぐしゃにしようと頭に手を伸ばす。
いたずらっ子のような笑みを浮かべている平次を見て、新一は心臓のあたりに違和感を覚えた。とっさに胸を押さえる。
新一の仕草に、平次と快斗の顔色が変わった。
「工藤!」
「新一!」
声を上げたふたりの顔を新一は交互に見た。
発作の兆しはもうない。
一瞬の痛みは消えてしまった。
「平気だ。ちょっと痛みそうになっただけだから」
「ここんとこ、まったくなかったっちゅうのに」
「今日、なにか疲れることでもした?」
快斗が真剣な眼差しで尋ねてくる。
新一は思い当たることがないと首を振った。
快斗が平次にも聞くが、彼もまた首を振る。
「工藤、もう寝たほうがええ。歯を磨いて寝てまえ」
「そうだね。それがいい」
ふたりに追い立てられるようにして、新一はリビングを出て洗面所に入った。
発作が起きる理由に心当たりはない。それがかえって不安だ。
明日、灰原に相談してみるか。
歯ブラシをくわえながら新一はそう思った。