無自覚な関係シリーズ 第二章

予 兆




 快斗は工藤邸のベランダで洗濯物を取り込んでいた。春の日差しが朝干したリネン類をふっくらと乾かしてくれている。
「いい天気」
 快斗は日差しに目を細めた。
 昼食のときつけたテレビで、桜の開花宣言がされていたのをふと思い出した。満開になったら三人で花見に行くのもいい。この春から、またこの家に人間が増える。
 大阪にいた服部平次が、進学のために上京してくるのだ。そして、快斗同様、工藤邸で暮らす。

 快斗が取り込んでいるのは、平次が使うリネン類。快斗は朝から新一とふたりで、空いていた客間をとりあえずひとが寝起きできる状態に戻していた。
「快斗、掃除は終わった。あとはベッドにシーツを掛ければいいだけだ」
 一階にいたはずの新一が、ベランダに顔を出した。
「了解。こっちもしっかり乾いているよ」
 大阪への旅行以来、大きな発作の起きていない新一は、一時期よりもずいぶんと健康的になった。そして、彼も無事に四月からは大学生になる。あろう事か三人とも同じ大学だ。第一希望以外は被らなかったのだが、幸いなことに揃って同じキャンパスに通うことになった。ただし学部は違うので、お互いのフォローは出来そうにない。
「そろそろ連絡が来る時間だと思うんだけど」
 部屋の時計を見て新一が言う。

 今日の新一は朝から妙にそわそわしていると快斗は思う。
 朝食の当番でもないのに早く起き出してみたり、やたらと時間を確認したり、いつもはリビングに置いている携帯電話をずっと持ち歩いてみたりと落ち着かない。
「そうだね、そろそろ東京駅だね」
 平次は着いたら連絡を入れてくれるらしい。
 温かいシーツを抱えて、快斗はベランダから部屋に戻った。そのまま新一のあとについて一階に下りる。

 平次が使う客間は、新一の部屋よりも一回り小さい。だが、クローゼットもベッドも備え付けだ。勉強机はないが、その辺は平次本人がどうにかするだろう。快斗は自分の部屋ではなく、リビングで受験勉強をしていた。
「おまえ、本当に部屋を移らなくて良いのか?」
 ふたりでベッドにシーツを掛けながら、新一が聞いてくる。
 快斗の部屋は二階にある。
 新一の部屋の隣の納戸がそれだ。納戸と言っても広さは客間よりすこし小さいぐらいだ。ただ、ベランダがなく窓が小さいぐらいだろう。夜中に新一が発作を起こしたときのために、快斗が望んでそこを寝室にしてもらったのだ。

「うん。いいんだよ、新一」
「俺はもう大丈夫なんだしさ。隣の客間、空いているんだぜ」
 ベッドメーキングを終えて、快斗は新一を見た。
「隣だからまずいんだよ。俺の使う出入り口は、玄関だけじゃないじゃん」
 快斗が笑うと新一が難しい顔になった。なにを考えているのか手の取るようにわかって、快斗はひょいと新一の頭に手を伸ばした。くしゃりと髪をかき混ぜてやる。
「おい。ふざけるんじゃねぇ」
 新一が快斗の腕を払いのける。
「ふざけてないよ。まだ服部がどんな反応をするのか、わからないからね」
 快斗にとって探偵との同居はリスクが高い。
 新一はすでに快斗の裏の顔を知っているが、平次は知らない。しかも彼は、快斗のことをキッドだと疑っている探偵、白馬探と知り合いらしいのだ。油断は出来ない。
「確かにそうだな。俺もあいつの反応は読めねぇ。けど、探偵としてはともかく、日常では結構ぼけてるぞ」
「関西人だから?」
「いや、あれは素だろうな」
「天然が入っているようには見えないけどねぇ」
 初顔合わせのとき、ホテルの部屋で彼が見せた表情は、思わず背筋が伸びるような鋭いものだった。

 GWに平次が遊びに来たときは、快斗は旅行と称して地方の美術館に忍び込んでいたので、顔を合わせた時間が短かったし、受験のため上京してきたときは、彼がホテルに宿泊したためにあまり話す時間がなかった。だから快斗はまだ平次のことを見極めることが出来ていない。
「話すにしても、隠すにしても、俺が判断する。新一には迷惑のかからないようにするからさ」
 平次に対して秘密を抱くことは、新一にとっては苦しいことかも知れないと快斗は思っている。仲の良さは、端から見ていてもよくわかる。
「なにが迷惑だ。すでに共犯みたいなもんだろ。だいたい、おまえを誘ったのは俺だ」
 快斗の心配を鼻で笑って、新一が平次の部屋を出ていく。すくめた肩が気障だ。
 やはり新一には敵わない。
 快斗は苦笑して額を押さえた。

***

 梅雨が明けたばかりの強い日差しが、快斗の影をアスファルトに焼き付けている。快斗は手庇を作って空を見上げた。夏空がまぶしい。
「黒羽のお兄ちゃん」
 校門を出たところで、後ろから声がかかった。
 聞き覚えのある子供の声に、快斗はわずかに緊張を覚えた。
「あれ、ぼく、快斗の知り合い?」
 一緒に下校していた幼なじみの青子が、屈み込んで子供の相手をしている。ゆっくりと振り返って、快斗は子供を見下ろした。
 予想通り、黒縁の眼鏡を掛けた小学生がそこにいた。
 なんでこいつが。
 快斗は興味なさそうな顔の裏で、相手の思惑を探った。見た目こそ子供だが、中身は侮ることの出来ない探偵だ。
「ううん。新一兄ちゃんに頼まれたんだ。黒羽のお兄ちゃんを連れてきて欲しいって」
「新一?」
「うん。工藤新一。高校生探偵の」
 子供の笑顔全開で、彼は青子に説明をしている。
 それを見てますます快斗は気を引き締めた。

 工藤新一が自分を呼んでいる。つまり、この小学生、江戸川コナンが自分に話があるということだ。
 名指しできたということは、おそらく彼は自分の夜の顔を疑っているのだろう。今まで殺人を専門にしてきた探偵が、なぜ怪盗である自分に興味を持ったのか。出した予告状に絡んで対決したことはあるが、彼の方からキッドに対して接触を図ってきたことなど一度もなかったというのに。
 小学生が快斗を見上げる。
 視線がかち合ったが、快斗は困惑も緊張もポーカーフェイスの裏側に押し込んで、彼に見せるようなことはしなかった。
「快斗、行っておいでよ」
 無邪気な顔で青子が勧める。
「けどなぁ」
 渋った快斗の手を子供の手が握った。目の笑っていない、嫌な笑顔がそこにある。
「ねぇ、行こうよ。新一兄ちゃん、すぐそこの公園で待っているから」
「だったらなんで自分で来ないんだ? 子供に使いなんかさせて」
 面倒くさそうに当てこすった快斗に、彼は表情ひとつ変えずに答えた。
「僕が呼んでくるっていったんだ」
 お手伝い、と彼は子供らしく誇らしげに笑う。
 食えないやつだと快斗は思った。
「ほら、快斗、行ってきなさいよ」
 青子が快斗の肩を押す。
 行こう、と強引に子供が手を引く。
 快斗は少し迷いながらも、工藤新一が待つという公園へ向かった。



 公園の片隅にある人気のないベンチまで来て、子供は足を止めた。
 握っていた快斗の手を解放して、座れとベンチを指さす。
「いないじゃん。高校生」
 なにも知らない風を装って快斗は辺りを見回してやる。遠くにキャッチボールをしている親子と、犬を散歩させている老婦人がいるぐらいだ。
 くくく、と肩で笑った彼は、彼本来の目をして快斗を見た。
「まぁ、とりあえず座ったらどうだ? 黒羽」
 声音まで変わる。
「俺は工藤新一が呼んでいるってボウズがいうから、ここまで来たんだぞ」
 工藤新一の話というのには興味がある。
 だが、ここでそのまま彼から話を聞けば、自ら正体をばらすようなものだ。
「それとも、伝言でも預かっているのかな。お手伝いで」
 彼が片頬を歪めるように笑った。やはり小学生の浮かべるような笑みではない。
「白々しい野郎だ」
「年上に向かってその言葉遣いはねぇだろ。ボウズ」
 あくまで子供として扱う快斗に、彼は動じもしない。
「伝言があるなら聞くぜ。ないなら帰る。俺はボウズみたいに暇じゃないんでね」
 背を向けた快斗に彼がいった。

「永遠の命をくれる宝石があると聞いた」
 快斗の足が止まった。
「大きな宝石で、一見しただけではわからないが、とある方法で他の宝石と区別が付くそうだ」
 ――パンドラ。
 ビッグジュエルに潜むという命の石。月の光にかざしたときのみ姿を現す赤いパンドラは、不老長寿をもたらすという。
 快斗はキッドとして、そのパンドラを秘めた宝石を追っている。永遠の命が欲しいからではない。父の命を奪うことになったその宝石を、粉々に砕くためだ。
 だが、それを誰にも話したことなどない。
 キッドの目的を知っているのは、同じようにパンドラを追っている組織だけ。

「ニュースソースが現実的なやつでさ、根拠のない話だろうって小耳に挟んだきり忘れていたんだ」
 快斗は振り返った。
 子供は相変わらず快斗を探偵の目で見つめている。
「とある奴らが不老長寿にご執心だ」
 彼はベンチに飛び乗るように座ると、手首の時計を外してポケットに入れた。
 快斗はわずかに目を見張った。その時計の麻酔銃で狙われたのは一度ではない。
 快斗を見て笑うと、彼は視線で自分の隣を指した。
 ひとつ息を吐いて、快斗は彼から少し距離を置いてベンチに腰を下ろした。

「俺は不老長寿になんて、興味はないね。それで、工藤新一はいつ来るんだ?」
「おまえが興味ないならそれでいい。でも、あいつらはどんな手を使ってでも、永遠の命を手に入れようとしている」
 快斗の質問を完全に無視して、彼は続ける。
「人の命を奪ってでもだ」
 知っているだろう? と見上げられて、快斗は一瞬反応が返せなかった。
「……俺には、関係のない話だ」
 いったいどこまで知られているのか。答えをはぐらかしながら、快斗は彼の目から心の中を読もうとした。しかし、さすがに子供の姿とはいえ、工藤新一。読みとれたのはただひとつ、新一が真剣であるということだけだった。

「俺はそいつらを叩き潰す」
 宣言でもするかのように、新一が言い切る。
 快斗の目を見据えたまま彼は続けた。
「黒幕に繋がる糸はつかんだ。あとは切らないように手繰っていくだけだ」
「なんの話なんだか、俺にはさっぱり」
 とぼける快斗に、新一がにやりと笑う。
「おまえと俺、追っているものの根はおそらく繋がっている。協力する気はねぇか?」
「だから、俺には意味がわからないって」
「ここで答えを出せとはいわない」
 新一がベンチから飛び降りた。座る快斗の正面に立つ。
「腹が決まったら、いつでも来いよ。じゃあな」
 ひらりと手を振って帰りかけた新一が、ふと足を止めた。振り返って挑発的に笑う。
「とぼけても無駄だぜ。俺に手を握らせたのが、おまえの敗因だよ」

 意味不明の言葉を置いて、新一が公園を出ていく。
 彼の姿が完全に視界から消えてから、快斗は首の後ろで手を組んで空を仰いだ。夏空がやはりまぶしい。
 工藤新一を子供の姿にした組織と、自分の父を殺した組織が同じものだろうと彼はいった。稀代の名探偵が、あやふやな情報で怪盗である自分を味方に付けようなどとはしないだろう。
 思わせぶりな新一の言動を振り返っていた快斗は、あることに気が付いて唸った。
「あのやろう、自分の名前も言わなかったな」
 工藤新一とも、江戸川コナンとも。
 いつでも来いと言いながら、居場所もなにも告げなかった。
 黒羽快斗は、彼とは初対面だ。
 だが、キッドは違う。キッドはコナンの正体が新一であることも知っている。
 自分の素性をまったく明かさなかったということは、快斗がキッドであると彼が確信しているということか。
 ――手を握らせたのが、おまえの敗因だよ。
 手。
 快斗は自分の手のひらを見つめた。
 名探偵がなにをここから読みとっていったのかわからず、快斗はしばらく自分の手を睨んでいた。

***

 快斗が客間を出てみると、リビングから人の声が漏れ聞こえてきた。
 平次が来るには早すぎる。電話かテレビだろうと思いながら快斗がリビングに入ってみると、案の定ソファに腰掛けた新一が電話をしているところだった。
「ふざけてるんじゃねぇよ」
 口調はきついが、横顔は嬉しそうだ。
 電話の相手は間違いなく平次だ、と快斗は口元だけでこっそり笑った。
 新一は平次相手のときに限って、口調と表情が食い違うことが多い。たいがい実に楽しそうに悪態をついている。
「おう、じゃあな」

 電話を切った新一に、快斗は声を掛けた。
「服部?」
「東京駅に着いたってさ。そろそろ来るぜ、うるさいやつが」
 笑う新一はやはり嬉しそうだ。
 素直ではない彼の髪をくしゃりと撫でてやると、手を掴まれた。
「その癖やめろって」
 手を握ったまま見上げてくる新一の顔を見て、快斗は昔の疑問をふと思い出した。
「俺に手を握らせたのが敗因だって、前に新一言っていたよね。それ、どういう意味?」
 唐突な快斗の質問に、新一が首を傾げる。
「そんなこと言ったか?」
「言った、言った。初めて黒羽快斗として江戸川コナンに会った日だよ」
 新一の手をやんわりとほどいて、快斗は彼の隣に腰掛けた。
「ああ、思い出した。そう言えば、そんなことを言ったな」
「どうして手を握らせると敗因なわけ?」
「手にはそいつの職業が出る」
「そう? 怪盗の手をしている?」
 手のひらを見つめる快斗に、新一がそうじゃないと首を振った。

「園子の家の黒真珠をキッドが狙った事件で、おまえは蘭に変装して俺の前に現れた。そのとき俺はおまえの手を握っているんだ」
 新一に連れて行かれた先で正体を暴かれたことを、快斗はもちろん忘れてなどいない。
「そうだったね。それが?」
「公園までおまえの手を引いて、確信した。蘭に化けてたやつと同一人物だってな。まるっきり同じ手をしているやつなんて、そうそういない」
「それだけ? たったそれだけ?」
 握った手の感触だけで、ばれてしまったのか。
 驚愕の事実にのけぞった快斗に、新一が笑いながらフォローを入れた。
「決定打になっただけだ。それまでにも白馬が快斗を疑っているって、中森警部から聞いていたし。ブルー・ワンダーのときには、素顔を近くで拝ませてもらっていたし。快斗について調べれば調べるだけ、確信が深まっていたわけだ」
「それらプラス、手の感触だったわけかぁ」
 背もたれにぐったりと身体を預けて、快斗はしみじみと呟いた。

「探偵っていう人種は、やはり侮れないねぇ」
「どうして白馬がおまえを捕まえなかったのか、そっちの方が俺には疑問だ」
「決定的な証拠がなかったからね」
 海外留学していた白馬探が戻ってくるらしいという噂が快斗の耳に入っている。まだ真偽のほどは確かめていないが、もし本当ならやっかいなやつが帰ってくることになる。
 快斗は思わずため息をついた。
 探の帰還に、平次の上京。そして目の前には平成のホームズ。
「名探偵が多すぎる」
 ぼやいた快斗に新一がまじめな顔で答えた。
「怪盗が多いより平和だと思うぜ」





 玄関のチャイムが鳴った。
 快斗はリビングから顔を覗かせた。二階にいる新一に降りてくる気配はない。再び鳴ったチャイムにせかされて、快斗は玄関へ向かった。
 扉を開けてみると、予想通り平次が立っていた。ドラムバッグひとつを肩に掛けただけの身軽な格好だ。他の荷物は宅配で送ったと昨日連絡が入っている。
「来たね」
「来たで」
 笑みを交わして、快斗は二階に向かって叫んだ。
「新一! 服部が来たよ」
「工藤、着いたで!」
 中に入ってきた平次も同じように新一を呼ぶ。

 快斗が平次のスリッパを出してやっていると、ようやく上から声が返ってきた。
「おう、来たな」
 新一が階段を駆け下りてくる。
 それを見た平次が大声を出した。
「あかんって!」
 靴を脱ぎ捨てて、新一に駆け寄る平次を快斗は唖然として見送った。
「走ったらあかん!」
 押しとどめようとした平次を、新一が容赦なく蹴飛ばした。
「バーロ! これぐらい大丈夫なんだよ!」
「せ、せやかて」
 仁王立ちの新一の前で、うずくまった平次が抗議をしている。
「せやかて! おまえだけなんやで、大丈夫ゆうてるの。黒羽も、阿笠のじいさんも、ちっこい姉ちゃんも、もう少し様子を見た方がええゆうてるのに」
 新一がちらりと快斗を睨んだ。
 快斗はそれを笑って受け流したが、少し頬が引きつっていたかも知れない。
「みんな心配性なんだよ。前に大阪に行ったとき以来、大きな発作は起きてねぇ」
「大きいんがないだけで、小さいんはあったんやろ。あかんやんか。発作は発作や」
「ちょっと胸が痛むぐらい、いちいち気にしていられるか!」
「気にせぇや!」
 立ち上がった平次が、新一の肩をつかんで説得している。

 言い争いも結構血圧上がるような気がする、と思いながら快斗は平次が脱いだ靴をそろえた。平次のドラムバッグが持ち主に投げられて廊下の片隅に落ちている。
 ふたりの決着はしばらくつきそうにない。
 快斗は大きくため息をつき、リビングに戻った。
 時計を見ればおやつにちょうどいい時間になっている。共同生活の取り決めなど、コーヒーでも飲みながらもう一度確認しておいた方がいい。平次が知らずに魚など買ってきた日には、快斗の食事はレトルトのカレーになってしまう。あれはあれで美味しいけれど、やはり少しわびしい。
 快斗はキッチンに入った。
 ふたりの声がまだ聞こえる。
 この先ずいぶん賑やかになりそうだ。
 快斗はコーヒーメーカーをセットしながらくすくすと笑った。



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