東北サイクリングの旅(1993/08)その2

(薬研温泉−大間崎−脇野沢−(フェリー)−青森−十和田湖)

 

8月17日

始発のバスが来る前にテントを畳んで、朝湯に入り、簡単な朝食をとった。

賽の河原を遊歩してから、恐山をたって、あすなろラインを下り薬研(やげん)温泉に向かう。

奥薬研のほうにしばらく進むと途中に川原の岩場が露天風呂になっている所に出る。河童の湯という。

ぼくらはここで朝二度目の温泉につかり、清流で冷やした缶ビールを飲む。

岩魚釣りの人達がたまに対岸の細道を通る。

口癖になった「Kさんがいたらなあ・・・」を連発した。いいところは専務の目で見てしまう。

 

大畑町へ下って279号線を北西に進み、下北半島の突端大間埼を目指す。

このあたりは逆風を突いて懸命にペダルをこいでゆくだけで特に記憶に残っていない。

途中の掲示板に「本州最北の灯台である弁天島大間埼灯台を現在一般公開中」とあり、少しでも生家に近づきたいシェフの希望で島に渡ることになった。

O君の両親の家は海峡を隔てた函館にある。弁天島への最終の渡船は4時であったので、ぼくらは急いだ。

逆風だったが4時より10分くらい前にたどり着いた。

岸壁に本州最北端の碑が建っており、まず記念撮影をした。そばに二階建ての小さな展望台があり、車道を隔ててみやげ物を売るたくさんの小店が並んでいて、市のような雰囲気がある。

 

島に渡るための切符を求めるために展望台横の切符売り場に行くと、そこには防波堤をバックに仮設された白い屋根テントがあり、その下に高校生らしい男女がテーブルに5・6人座って雑談していた。夏休みのアルバイトであろう。まだ島に行く船は出るのかと聞くと、一番そばの少女がはいと言って氏名と住所を書くようにと乗船票を差し出した。

するととなりの女の子が唐突にアハハと笑いだした。ぼくは乗船票に名を書こうとする手を止めて、どうしたの、と問うとこんどは連鎖的に女の子たち皆が笑いだして、ひとりがやっとのことでなんでもないのだというようなことを身振りで示した。

それでも笑っているので何がそんなに面白いのか気になったが、箸が転がっても笑う年頃の女の子たちだ、たいしたことはないのだろうとぼくは問い詰めなかった。しかしあとまで気にはなった。

ぼくのいでたちがおかしかったのだろうか。今その時の本州最北端碑を背にした記念写真に写る自分たちの姿をながめて我ながらずいぶん野性的な恰好だと感心する。

我々ツアーサイクリストの多くは美的要素よりも実用性を重んじて服装等を選ぶ。したがって、そのまま町中に出ると好奇の目を引くような服装も敢えて避けない。

そしてその服装は旅を続けるにしたがってさらに変容しついに自転車なしでは説明のつかない様子となる。

自転車がすぐそばにあれば、人々は風雨をくぐってやってきたつわものサイクリストとすぐわかりその服装の異様さにも納得できかえって尊敬の眼差でぼくらを見つめもしようものだが、ぼくらが自転車なしでこの風化しかけた非日常的な身なりのままうろついたら、それは怪しい姿を呈し警戒されるか、あるいはまだ人を疑うことを知らない少女たちにはとても滑稽で思わず吹き出さないではいられない姿としてとらえられるにちがいない。

箸が転がっても笑う女の子たちなのだ。

 

こんなわけで、ぼくからおくれてやってきて切符を求めたO君も少女たちの大笑いのうちに名前と住所を乗船票に記入した。

彼も少女たちにどうしたのかと問うのであったが、それは火に油を注ぐように笑いをさらに高めこそせよ説明を聞き出すことはできなかった。

箸が転がっても笑う乙女たちよ、今のうちに笑えるだけ笑っておけ、

そのうち君らは涙をもってつわものサイクリストたちを見送る日もくるだろうから。

 

焼きイカを買って食べたりトイレに行ったりしていると最終船の出発の時間が来てしまった。

一旦出発しかけたのを呼び戻して乗った船は十数人乗りくらいの船外機付きボートで、これには大人の操舵手の他に補助船員として中学生らしいアルバイト少年が乗ってロープを渡したりして手伝う。

彼らは皆同じデザインのジャージを来ていたので、ここでは町ぐるみでこの特別企画に勢を出しているらしい。

最北端とか最南端とか「最」の字がつくとつい行ってみたくなるのが人間の性格で、おかげでこの町にとってこの企画のある夏が年間で一番の稼ぎ時なのかもしれない。

そういえば、日本最北端の稚内では、最北端到達証明書というような手形みたいなものを売っていて、みんなが買うのでついぼくも買ってしまった。

ちなみにO君はこの「最」のマニアで、学生時代は日本の最がつくところを狙って何度もツアーに出ており、ほとんどすべて回っている。しかし自分の生家の近くの「本州」最北端は盲点だったらしい。

 

弁天島には多くのウミネコがいた。ぼくは今までウミネコとカモメはてっきり同じものだと思っていたが、ウミネコはカモメとちがってくちばしの先に赤と黒の斑があり、尻尾の先端が帯状の黒色をしているのだそうだ。

「ウミネコがいるところで餌を投げ上げるとそれが落ちないうちにかすめてゆきますよ」とシェフが子供のころの経験を思い出して言った。

 

灯台の中に長い螺旋階段があり,これを昇るのに一汗かいた。

階段が終わると外の展望回廊に出る。一周すると、手すりにもたれてシェフが感慨深げに函館のほうを見つめている。

海峡を隔てているとはいえこの辺の生活様式は対岸の函館とそっくりであるらしく、子供時代に遊びなじんできた漁港の様子が海の香りに乗ってよみがえり彼は旅愁の中にひたっていた。

中学時代はブラスバンドでフルートを吹いており、漁港の防波堤によくやってきて練習した。

ある夕方、学校からの帰りに練習していると、湾の向こう側からカラスの大群がまるで彼を襲おうとしているかのようにカアカア鳴きながら飛んでくる、後ろの函館山に帰ってきているのだと知っていながらも彼はおののいて立ち去ろうとする、そして振り返ったときに見た西空の夕焼けの何と美しかったことか。アーアーと鳴きながら先頭のカラスが頭上をかすめていった。

 

ぼくらはみんなが去っても灯台にいたが、最終の船が戻るというのであわてて船着場に行った。

 

その夜は佐井のキャンプ場で野営することになった。

ここでシェフが食後にリコーダーでアンデスの音楽を奏でると、となりにテントを張っていた家族から喝采を受け、ぼくらは食卓に呼ばれた。

カレーライスやさいぜんに海に潜って採ってきたというアワビやもずくが皿に盛られてぼくらの前に置かれた。

よく冷えた缶ビールも回された。

聞くと、そこの奥さんは久慈の海女で、街ではスナックを経営しているという。

亭主は横に座っていたが、座を仕切っているのはその海女さんだった。シェフがさらに数曲披露すると、拍手をしたりリクエストをしたりするものの恥ずかしがってテントの中から出てこなかった男女の子供たちがお返しにと「翼を下さい」を合唱してぼくらを楽しませてくれた。

シェフはこれに対して自分の十八番「コンドルは飛んでゆく」を演奏して皆を感嘆させ、子供たちもついにテントから一人また一人と出てきた。

 

この曲に関してシェフには逸話がある。初めて聞いたときから彼はこの名曲をいたく愛し、そのためにアンデスの民族楽器ケーナをマスターしてこの曲を吹けるようになろうと願った。

彼は十分な小遣いを貯めるとすぐにその縦笛を買い求めた。しかしリコーダーに慣れていた彼はその笛に穴が七つしかないので一つ足りないと早合点し、憤り、あっさりその笛をあきらめて人に与えてしまった。

 

シェフよ、君は間違っていたよ、ケーナは穴が七つで正しいのだ、表に六つと裏に一つ。それですべての美しい音が出せるのだよ。しかし、ケーナのことはもうしかたないとしよう。

だが君は今から奥さんを娶ろうとしている。この場合はそう簡単に話は納まらないのだよ。くれぐれも早合点しないことだ。辛抱してマスターすれば必ず・・・それはもうケーナよりも美しい音が・・・

 

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8月18日

夜半、雨が降ったようだったが、朝には上がった。

潮騒で早朝に目が覚めたぼくは、テントから出て顔を洗った。

余分にビールを飲んだので二日酔い気味だ。

水をたくさん飲んで、さらに昨夜飲み残した気の抜けたビールを向かい酒に飲んだ。

そしてザックからポケット・ワープロを取り出して海のよく見えるベンチまで歩き、そこにすわって昨日のことなどをメモした。

しかしたいして書くことはないようだったので十行足らずで終えた。

 

怒濤を聞きながら崖の上の小道を散策する。

地図を持たないぼくは、今自分たちが下北半島のどの辺りにいるのか定かではない。

このような呑気さはぼくの人生においても見ることができる。

自分は40代半ばにさしかかろうとしているが、今が盛りの熟年パワーファイターなのか、まだよくわかってない若僧なのか、あるいはもうそろそろ老後の設計を真剣に考えるべき初老なのか、よくわからない。

だからこの歳になってもサイクリング・ツアーなどに出てくるのだろう。

 

今自分が人生のどの辺りにいるのか定かではない。

かなり来たことはよくわかるが、まだ先がどのくらいあるのかわからない。

まだまだ急坂のダート道を選んで、汗だくになりながら自らを鞭打って登らねばならないのか、もうこの辺でなだらかな下りの遊歩道に入って適度にブレーキをかけながらのんびりと下っていけばいいのか。

 

するとO君がテントから出てきて

「きょうは海峡ラインを走ります、楽じゃありません、山間部に入ってアップダウンが続き、ダートもたくさんあるでしょう、がんばりましょう」と言う。ぼくはできるだけ平静をよそおって「オーケー」と言う。

 

一時間後にはぼくらは海峡ラインを登っていた。

中国画の中に出てくる古の人物像を思わせる奇岩の並ぶ仏ケ浦を見下ろしながら崖の上に造られた道を行く。

やがて海を離れ山間に入る。きらめく海がたまに山の切れ目から見えると美しい。日差しが強く暑いが、高地のため空気はひんやりして風は気持ちいい。

途中牧草地があり、牛が放牧されていた。ダートが多いラインで車が通るとほこりが舞い上がりつらい。舗装工事中の所がいくつもあった。

 

見晴らしのいい道端でパンと魚の缶詰とソーセージの昼食をとる。

ぼくは食パンをバーナーでトーストしてイチゴ・ジャムをたっぷりつける。

O君はいつものように食パンにマヨネーズをべったり塗ってほおばる。

この夜々の美食家も昼にはトライアスロンの選手がレース中にとるような簡便な食事を早々に済ませる。しかし彼女から持ってゆくようにともらったビタミン剤をいつも飲んで栄養バランスにぬかりない。

そして食後には愛用のトウモロコシのパイプに火をつける。

その時ぼくは岩などにもたれて読書をする。今回は読みやすい英語で書かれた Roger Lancelyn Green の「トロイ物語」から20数枚を切り取って持ってきた。読み終えた頁葉を一枚ずつ捨てていく。

毎朝の満員電車で本を開くスペースにも窮するサラリーマンの得た知恵だ。

シェフはパイプを吸い終わると、こんどはその掃除を始める。そうしている間にぼくは二三枚は読み捨てることができる。

 

海峡ラインはやがて脇野沢川と合流し下りになる。

脇野沢村に入ると「世界のサル生息北限地」という標識があり、小さな公園があった。中には猿の山があり、外の山へいつでも戻れるよう通路のようなものもあった。

ぼくは飲み干して空になったコーラの中瓶を吹いてサルたちの注意を引こうとしたが、サルたちには無視され、手すりにもたれてサルを観察していたO君の注意を引いただけだった。

 

この地が世界のサルの生息北限であるなら、サルたちはここまでは自力で北上してきたというわけだ。

しかしここから先はどうにも北にゆけそうになく自分たちの限界を知ってとどまった。

同じ霊長類である人間にとってもこの辺から北はもともとは住むべからざる地であったのかも知れない。ここから北は熊や鹿、狐などのより寒さに耐えうる動物たちだけに与えられた聖域だったのかもしれない。

しかし火を得た人間は容赦なく北上を続け、ついに地上から生息北限をぬぐい去って北でも支配者として君臨した。だがサルの生息北限がいつもぼくら霊長類に、ここから北はまちがいなく他の動物の固有の北方領土であることを印し続ける。

 

脇野沢港に着いたのは4時頃だったろうか。

もう青森に行く最終フェリーは出てしまっていたので、ぼくらはとなりの九艘泊まで行ってキャンプすることにした。

九艘泊から先は道がなくなる。そこまでの海岸道路は海の景色は面白い。

牛ノ首岬、鯛島と、見る角度によりさまざまのものを連想させる奇岩が海の中から突出している。

イカを干している漁婦たちがいたのでシェフが自転車を止めて話しかけ、

「一匹なんぼで売ってくれますか」と問うと、大きいのをひとつただでくれた。

九艘泊に近づくにつれ逆風が強くなりぼくらを苦しめる。

最後の岬の曲がりでは自転車が停止しそうになってぼくは立ちこぎをした。

 

九艘泊の唯一の食料品店に入って食購したが、魚はなく、けっきょく店の若奥さんの好意で干魚を一束もらった。

それは売り物でなかったのでサービスだった。九艘泊で車道は終わり、あとは岸壁の下を歩道が、それもところどころ海水によって洗われていてかろうじてマウンテン・バイクで行けるような舗装された細道が続く。

 

この道の終わるところに小さな入江があり、そこに村営のキャンプ場がある。バンガローもあった。ぼくらはここにテントを張った。

まだ5時になっていない。ぼくは、度付き水中眼鏡とスウィミングパンツを持ってきていたので泳ぐことにした。

しかし冷夏のため水は冷たく早々に切り上げた。水道で頭と体を洗ったあと、こんどは展望所があるらしかったのでひとりで岬を登り、木造の展望台に上がった。

海が様々の色をしてきらめいている。沈みゆく真紅の太陽とピンクの雲と青い空気と緑の島々が映り、無数の波に断たれてドットに変えられ混ざり合いゴッホの絵のような海を展開していた。

 

ぼくらがテントを張ったそばにすでに一人用のテントが張られてあり、ぼくらが洗濯をしていると、そのテントから若者が出てきて挨拶をした。

話によると室蘭工大の三年生で、夏休みを前に早々に留年が決まってしまったのでもう今年度は学校をずっと休み、オートバイでひとり旅に出ることにしたという。

できれば九州まで脚を延ばしたい、しかしお金はたいしてないのでアルバイトをせねばならないという。

できるだけ食事は質素にするが、好きな酒だけは毎晩欠かせないのだという。そしてこれから脇野沢村へ一走りしてウィスキーを買いにゆくが、何かついでに買ってきて欲しいものはないかと問うた。ぼくらは酒のつまみを頼んだ。そしてお礼に彼を夕食に招待した。

 

シェフとぼくは山の枯れ木や浜に打ち上げられた流木などを集めて饗宴の準備をした。

まだ日の暮れないうちに起こされたキャンプファイアーが音を立てて空気をむさぼり始める。

米が炊けて、日が暮れかけても村に行った工大生は戻ってこなかった。ぼくらは待ちくたびれて漁婦にもらった干しイカを焼いて肴にして酒を飲んで待った。シェフの小型ラジオが青森からの放送をキャッチして鳴っている。

他のいくつかのキャンパーグループが食事を始め賑やかな談笑が聞こえてくる。多くは釣りに来た人たちのようだ。

やがて工大生が帰って来てぼくらも食事を始めた。

火にさらされた干魚が香ばしい匂いを放ちながら身をよじらす。虫たちが飛んできて火に入る。

 

工大生は飯を頬張りながらシェフの人生観を感心しながら聞く。

会社に入ればどこの学校を出たかなどはまったく問題でなくなり、実力で社員は評価される、とシェフは断言し、ぼくもそれに相づちを打った。

それはシェフの自らの体験に基づく意見だ。

彼には二流大学から一流会社に入り、そこで超一流の女性を射止めたという自信があった。

 

工大生は勧められてすまなさそうにご飯のお代わりを盛りながら、

「留年などしたら就職は難しいでしょうか」と問うた。

ぼくは、その留年の間に何をするかによっては4年で卒業するよりはよりバネをきかせて社会に出ることができよう、と言った。

これもぼくの体験に基づいている。ぼくは大学で2年留年しており、その間に英語で飯を食う自信をつけたことを話した。

 

すると工大生は箸を止めて飯を食うのを止めしばらく何かを思案しているふうであった、が再び思いなおしたように箸を忙しく動かせて食べ始めた。

 

食後に工大生のウィスキーがふるまわれ、ぼくらの心は高揚し北海道に飛び、彼の地の讃美がひとしきり語られる。あたりのいくつかの大型テントの中から老若男女の笑い声がたえず聞こえてくる。

 

キャンプ場の夜はいつまでも騒がしいようで、夜半にテントの中で目が覚めてみるといつしか空気の動く音しか聞こえない静寂が訪れている。

ぼくは寝返りを打って美しきひとたちのこと思い巡らす。そしてそれもいつまでもきりがないようで いつしかまた眠りが訪れている。

 

 

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8月19日

 

「'93 北海道を楽しく,安全に,快適に。Safety Summer Hokkaido HOKUREN 」。

翌朝工大生がぼくにくれた黄色い三角フラグにこうプリントされてあった。

ぼくはこれを旅行が終わるまで自転車の後部に取り付けて走りつづけた。

 

のんびりしている工大生と別れてぼくらはキャンプ場をあとにし、釣りをする人のたまにいる崖下の歩道を、海にはまらないようおそるおそるペダルをこいで行った。

九艘泊の漁港に行って青森に行く船の乗船券を買い、しばらく時間があったので漁港を散歩してみた。

イカや魚がたくさん水揚げされており、老漁婦がいくつかの容器に振り分けていた。

すると一匹小型のサメがいて、これも食用になるらしかった。

 

一尾だけギザメがいたが見向きもされていないようだったので、どうするのかと聞くと、そんなのは食べやせんで捨てるのだ、と言う。

このカラフルな魚はぼくの好物で、少年のころ瀬戸内海で舟に乗って沢山釣ったことがあり、酢醤油で食べるときのそのあっさりした味はぼくの味覚をいつも快く刺激した。

しかし北海地方ではあっさりした味は物足りないのだろう。ラーメンもそうだ。

 

船が来る時間が近づいたので船着場に自転車を移動した。

魚はいるかと海面を見ていると海底が見え、白い自転車が一台横たわっている。だれかが船に自転車を乗せようとして失敗して落としてしまったものらしかった。

ぼくらは大量の荷物を装着したマウンテンバイクを船に担ぎ込むので足場をしっかり確保しながら乗り込まないと足を踏み外し自転車どころか人間も海の中にはまってしまう恐れがあった。

ぼくは不安になり少し荷を自転車から外して待機した。

仏ケ浦のほうからやってきた水中翼船は定刻に到着し、ぼくらは無事に自転車とともに乗り込んだ。

船はテープ放送による観光ガイドもしながら脇野沢港に向かった。

脇野沢港で多くの人が乗り込んできたが、盆が終わって青森に戻ってゆく人達だろう。見送りの中には孫たちとの別れを涙ぐんで惜しむ老人たちもいた。

 

水中翼船は陸奥湾を横切って青森に入港した。

ぼくらは一般の乗客が降り終わるのを待って自転車を押して下船する。

波止場に退役した青函連絡船が記念館として接岸されていた。

シェフはぼくを青森の魚市場に案内してくれた。そこでスモモと盆用に作られた生菓子を買った。しかしスモモは道中で落としてしまい、生菓子はすぐにいたみはじめ、たくさん捨ててしまった。

 

青森の町の大通りを走ってぼくらは十和田湖方面に南下してゆく。

ぼくはシェフを見失わないように追いかける。

そのためには信号が赤に変わりかけても交差点を走り抜ける。

そうしていると、横道に巨大なねぶたが運ばれているのをかいま見た。

しかしO君はどんどん先に進むのでゆっくり観察する余裕はなかった。

逃がした魚は大きいと言うが、おそらくそれはぼくが生涯で見るもっとも大きいねぶたとなるであろう。

 

ぼくらはやがて国道103号線に入り、ひたすら南下する。

O君は南下すればするほど元気を回復してくるようにピッチを上げた。

まるで何か魔物にとりつかれているように彼はぼくのほうを振り向きもせず邁進した。その魔物は万有引力だ。ニュートンの法則が彼の魂をも質量の核としてとらえ容赦なくもう一つの核に加速度を与えながら近づけさせていたのだ。これら二つの核が激突し核融合したときなんと恐ろしいエネルギーが生じることだろうか。

O君、料理長よ、ここらでもうぼくらのふたり旅は終わっていたのだ。

なぜなら君の心はもう東北にあらず、大阪の貴婦人のもとに行ってしまっていた。ぼくは君の脱け殻と旅を続けねばならなかった。そしてこの頃ぼくはようやく今度の旅の君の目的を悟ることができた。

 

それはちょうど走り幅跳びや、走り高飛びの選手が助走をするためにいったんジャンプ位置より遠ざかるように、君も助走のためにわざと彼女から遠ざかったのだ。

彼女という高いハードルをクリアしてそれを支配するためには十分な助走が必要だった。

そして青森から助走を開始した君はもう一つのものしか見ていなかった。

 

このことを裏付ける現象が彼にはあった。

ぼくのマウンテンバイクの後輪は国道103号線に入ってから、八甲田山に向かうときと、十和田湖を出て黒森山のあたりを走っているときと、一度ずつ、二度ほどパンクした。

いずれもタイヤの耳が過重な負荷のために疲労してしまい、高圧チューブを封じ込めきれなくなり、ついにギブアップして、チューブを漏らし、黒いチューブは唇から膨らまされる風船ガムのようにみるみるうちに大きくなり、なすすべもなくそれを見つめているぼくの目の前で炸裂音を発してバーストしたのだ。

しかし先に行っていたシェフは将棋の香車や桂馬の駒のように一度進んでしまうと戻ってこれないらしく、ぼくがずいぶん長くチューブ交換やらで停滞していても決して引き返して来ることはなかった。

二度目のバーストの時は修理のめどがたたず自転車を押して進んだが、彼はあるところでじっとぼくの来るのを待っていた。

しかし彼を無情と責めることはできない。いったん助走を始めた者が後ずさりをするだろうか。物体は万有引力に逆らって動くことができようか。

否、彼はもうだれも引き戻すことができないくらい強く彼女に引かれてしまっていた。

 

青森を出てしばらく行くとゆるやかな登りが始まり、遠くに八甲田山が見える。

萱野高原に到り、レストハウスのいくつかある萱野茶屋で自転車を降りた。多くの人が車を止めて食事や休憩をしていた。修学旅行の生徒たちも多かった。近くの林の木陰にてシートを敷きのんびりと昼食をした。食後の昼寝をしていると、O君がレストハウスのみやげもの屋から記念のキーホルダーを買ってもどってきた。

 

彼のコレクションはかつては各地の記念バッヂだった。

北海道旅行や信州旅行のときは、彼は大量に集めた日本各地のバッヂをよれよれになった古いサイドバックの表面いっぱいにピン留めしていたので、ただでさえブルドッグの頬のようにくたびれて垂れていたサイドバッグがずしりと重いたくさんの金属バッヂにピン留めされてさらに痛々しかった。

が、今はもうそのバッグはたくさんのバッヂとともに彼の自転車から姿を消してしまった。

信州の山道で革のストラップが切れて装着不能となってから彼は新しいサイドバッグを購入し、バッヂはもう付けなくなった。それから彼のコレクションもバッヂからキーホルダーに変わったようだ。

 

103号線はこの辺りから八甲田山のすそ野を廻りながら延びる。

この山は、新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」を読んで以来、いつか登ってみたいと思っていた。しかし今回は登ることはしないですそ野を巡って十和田湖方面にそれることにする。

 

話も少しそれるが、ぼくは冬のアウトドアスポーツとして山スキーを好んでいる。山を重いスキーをはいて登ることを非合理的と考える人が多いようだが、実は雪山を登るのに山スキーはもっとも効果的履物である。

スキーの裏にシール(語源はアザラシの毛皮)を貼るので、スキーは雪面を後ろ方向に滑りにくくされ、かなりの急斜面でも蛇行すれば容易に登れる。

また広い面積を足場にすることになるので、ズボッと深雪に足を差し込むこともない。(おまけに下りるときは、シールを外してすいすいと新雪をすべって下りてくることができる。)しかしそれでも不信に思う人には「山スキーの本」(小泉共司・奥田博著)よりの以下の引用文を提示したい。

 

「明治三十五年に起きた、青森連隊の八甲田山雪中行軍の遭難は、実は山スキーと大いに関係がある。その大遭難を知ったノルウェー政府は日本政府へスキーを贈呈したという歴史的事実である。かのレルヒ少佐がスキー術を伝える二年前のことであった。」

 

実に八甲田山の悲劇は日本にスキーが伝わるのを早めたわけだ。

川を渡るのに舟が考えだされたように、雪原を渡り歩くためにスキーが考案された。

スキーは今はゲレンデを下るための履物として最もポピュラーであるが、その有用性は登るときにも大いに発揮される。そして悲劇の雪山八甲田は今では山スキーヤーたちの最高の溜まり場の一つである。

 

さて、やがてぼくらは、酸カ湯(すかゆ)温泉に到る。

ここまでの登りの道中、「スカイ」温泉と聞き違えていたので、ずいぶん高い山の頂上にあって青空を眺めながら入る露天風呂のようなものだろうと想像していたが、風格のある古い木造の建物がぼくらを迎えた。

広い駐車場には何台ものマイクロバス、自家用車、オートバイが止められており、そのはしっこには重装備の自転車が数台並んでいた。

多彩な訪問者が中で入浴していることがわかる。入口から少し離れたところに大きな檻があり、セントバーナード犬が中で薄目を開けて横たわっていた。冬には活躍するのだろう。

 

ガイドブックによると、酸カ湯温泉は、八甲田大岳の西麓、標高925メートルにある古くからの湯治場であり、80坪の千人風呂は混浴だ。昭和29年に国民温泉第1号に指定された。

 

この温泉はその名の通り酸性が強いので口に含むと歯のエナメル質が溶けるのが判る。顔を洗うと目がしみる。

混浴の千人風呂は女性更衣室に通ずる一部についたてが立てられ、美しきひとたちはたいていその向こう側で湯を浴み身体を湯に沈める。広さと悪戯心に引かれてついたてのこちら側に姿をあらわすときにも、たいてい身体を隠すように肩まで浸かったまま湯殿のなかを移動してき、また中腰のままついたての向こうに消えてゆく。

美しきひとたちよ、あなたたちの悪戯は何と巧妙なことか。あなたたちがかいま見せたやさしい肩はぼくらがこの旅で見てきたどんな山の肩線よりも美しかった、そしてそれでいてぼくらが越えてきたどんな急峻な峠よりも近寄りがたいのだ。

また、あなたたちがタオルを当てながらゆるりとかしげる首はぼくらが見てきたどの木よりも愛らしくかしぎ、かつどの木よりも美しい根を延ばしている、そしてそれでいてぼくらはその木陰にすわることができないのだ。

ああ、美しきひとたちよ、どうかひとつだけぼくの願いを聞き入れてほしい、どうかぼくがこの旅を無事終えたら、ぼくにその木陰で人生の長旅の疲れを癒す喜びを許してほしい。

 

103号線をさらに進んで行くといよいよ十和田八幡平国立公園に入り、道は奥入瀬川(おいらせがわ)に沿ってなだらかにうねりがなら緩い勾配を登ってゆく。

このゆるやかな川は十和田湖から流れ出るただ一つの水流で、湖畔の子ノ口から焼山までの14キロが奥入瀬渓流と呼ばれている。

途中に大小さまざまの滝が見られ、「ともしらがノ滝」とか「白布ノ滝」とかそれぞれに魅力的な名前が付けられている。

 

O君は小学生の修学旅行でここに来ており、そのとき渓流に沿う遊歩道の一部を女先生のうしろについて歩いたことを思い出した。

歩きながら彼は先生の肩まで落ちる美しい髪が波打つのに見とれていた。

「O君、あなたはどの滝が一番気に入ったのかしら?」

振り向いた先生が聞いた、そしてその時彼女の右耳の前を垂れる一束の髪がふわりと舞って彼の顔にさわった。

それは滝壺に落ちる水が水面を乱すように彼の幼いハートにたちまち波紋を広げた。

「白糸ノ滝が気に入ったす、さっきの」

彼はとっさに答えた。が、その答えは彼を意気消沈させた。本当に彼が言いたかったことを言うには彼は幼すぎた。

 

「白糸ノ滝?」名前からして細そうな滝が連想された。

「君が小学生のころのことならもう20年ちかくたっている。その滝はもう水を切らしてしまってなくなっているよ、きっと」とぼくは心配してやった。が、シェフは久しぶりに笑ってかつてのままという遊歩道をどんどん進んでいった。

 

白糸の滝、銚子大滝などを愛でながら進んでいると、いつしかぼくはこの長い緩い坂道にへばり始めていた。

「十和田湖まであと何キロ」という標識だけがぼくの注意を引くようになる。ようやく子ノ口にたどり着いたらへとへとで、戸締りを始めたみやげもの屋の自動販売機で買った甘酒がとても美味しかった。しかし、みやげもの屋の主人に聞くと、スーパーマーケットなどはこの辺りにはなく、近い店に行くにも4キロくらい湖岸沿いを時計回りに走らねばならないという。

 

ぼくらは最後の力を振り絞ってこの4キロを走り、小さな酒屋にたどり着いた。ついにさすがのシェフも力尽きたらしく、もうここで夕食のための買い物をすることにした。気品のあるお嬢さんが店番をしており、きれいな手で食料を包んでくれた。ソムリエ(ワイン給仕責任者)の資格も持っているシェフは、「今夜はアップルワインにしましょう、5年ものです」と甘口を選んで持ってきた。

ぼくはそのボトルを手に取り、輝き具合、色合い、音の具合などを調べ、うなずいて彼に戻した。するとソムリエは軽く会釈してそれを丁寧に受け取り、お嬢さんの美しい手の中に滑り込ませた。

 

店を出てキャンプサイトを決めるためにしばらく行っていると、ぽつぽつと雨が降りだした。

次第に雨足が急になってきたので、湖沿いの道から少しそれたところにあった十和田中学校に向かった。

そこの表玄関の軒下は十分に広く強い雨も凌げそうだった。校内に教員住宅があり、許可を取るために最初に呼び鈴を鳴らした家からは教頭が出てきた。彼はぼくらに好意的だったが、校長の許可が必要だと言って、ぼくらを隣の棟の校長の家に連れて行った。

そして現れた校長は教頭よりも慎重だった。しかしぼくらの人柄を見抜いたのか、教頭としばらく相談をしたのち、快く許可をくれた。

 

校長の好意から玄関の蛍光灯を点けっぱなしにしてくれたのはいいが、ちょうど羽アリの群れの発生する日だったらしく、蛍光灯に大群が集まってきた。こちらで米を炊こうとバーナーを点火するとそれに寄ってきた羽アリの群れがぼくらの頭の上に雨のように降ってきた。

アップルワインの入ったぼくの折り畳み式カップの中にも数匹が落ちた。多くは火に焼かれたがとどまるところなく降ってくるので、バーナーの位置をぼくらから遠ざけた。

その後だれが飯の炊き具合を調べ、火から下ろすかについてもめた。そこに行くとまた羽アリの雨に見舞われるのだ。

しかし食事はいつものように豪華だった。シェフの味付けは超一流だ。彼のフィアンセが悔しがるのもなるほどと思えるほど料理の腕は確かだ。

しかし残念なことに彼の料理のおいしさはぼくの語彙力ではここに具現することはできない。読者に彼の料理の片鱗も味わっていただけないのはまことに遺憾であるが、さりとてここに仮に具現できたとしても、それは読者を耐えられないくらい強い食欲に駆り立てるだけで、美しいひとの写真と同様百害あって一利なしであろう。

雨は翌朝まで降り続いた。

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