東北サイクリングの旅(1993/08)その3

(十和田湖−十和田南−八幡平−盛岡)

 

8月20日

 

東北旅行記のうちで最高傑作はもちろん奥の細道だ。

芭蕉の簡潔さはいつもぼくを反省させる。

ぼくはこの旅行記でも書きすぎたと反省している。

説明的すぎて、読者の空想の余地をかなり奪ってしまったかもしれない。

芭蕉の偉大さは、僅かの言葉の絶妙な組み合わせで読者の記憶の宝庫の錠を解き、読者の空想をかき立て、かえって写実主義よりも正確な写実を読者に描かせるところにあろう。

これよりぼくもより簡潔な記載を心掛けよう。

 

雨の弱まった朝に校庭を見れば、硫黄の煙が音を立てて一隅より上がっている。玄関の床には焼け死んだ羽アリが灰かすのように踏み場もないくらい散らばっている。

 

十和田湖の岸辺を走ると霧が晴れ遊覧船が現れ、また半島の影に隠れる。やがて波来がて騒ぐ。

 

休屋のみやげもの屋にて買い物をすると、店の婦人に茶菓子をごちそうになった。ひとしきり息子の愚痴話を聞かされ、茶も二杯目。

 

もくもくと水辺を進む相棒のあとを追うと、雨に濡れた乙女の像が二体。

 

発荷峠へと登る坂道の入口のトイレ、音を立てて山水が中を流れて気持ちいい。

 

登りの辛さを紛らわすために蛇行しながらセンターラインの切れ目を縫って登れば、いつしかO君がすぐ目の前でこいでいる。

 

103号線を進んでいると、パンク。大湯のバス停まで押して、そこからぼくはバスで十和田南駅へ下りる。下りをバスで行くとは何と悲しい。O君は先に着いて自転車屋を見つけておいてくれ、そこで中古の太タイヤを割引で購入。これも布部がほころびておりいつバーストするかと不安がつきまとう。駅で立ち食いうどんを食べる。

 

282号線を進み、341号線に折れ、八幡平を目指す。

上に行くほど食料品店がなくなってくるので、早めに夕食のための買い物を済ませる。

今宵は最後の晩餐、惜しみなくリッチな材料を選ぶ。

店から出ると、雨が降りだした。これから標高1000メートル強の山間地に登ってゆくというのに不安だ。シェフが雨空に向かって苦言を吐いた。

 

幸い雨は長続きしなかった。しかしきつい行程が続く。

341号線を黙々と登っているとクマ牧場があり、このあたりにはツキノワグマが生息していることが思い出された。

トロコ温泉で休憩し、そこから八幡平アスピーテラインに入る。

温泉旅館がぽつりぽつりとあり、駐車場にすでにテントが一つ張られていた。ぼくらはまだリタイアするわけにはいかない。

 

後生掛温泉では京大生のサイクリング・クラブがやって来ていた。

檻があり若い熊がその中でストレスをためている。

長く頑丈な爪を持っており、これで一かきされると落胆させられることだろう。

 

後生掛温泉を出てゆっくり登っていると、歩いて下りてくる婦人がいた。

ひとつ上の温泉宿、蒸ノ湯(ふけのゆ)温泉に行こうとしたがなかなかたどり着けず、日も暮れかけてきたので不安になり後生掛温泉に引き返しているのだということだった。

ぼくらが上に行くのでついてきたそうだったが、ゆっくりとはいえ自転車の速さにはついてこれないと思ったのだろう、あきらめて下っていった。

 

熊がいつ現れても退治できるように、ぼくはサイドバッグに差したナタの安全留めを解除し、O君も登山ナイフを腰に付けた。あちこちで湯煙が吹き出していた。

夕闇の山道を登って行くと、ようやくて蒸ノ湯のバス停にたどりついた。

これはバス停兼展望所で屋根があったのでここでテント泊することにした。

道路の反対側を下りると大深温泉、こちら側の脇道を行くと蒸ノ湯の温泉旅館に通ずる。

 

蒸ノ湯の温泉旅館に行く夜道はくねり、ずいぶん下ってゆかねばならなかった。夜中に歩いて訪ねてきたぼくらを見て、宿の番頭がどこに宿をとっているのかと聞くので、上のバス停にテントを張っていると言うと、あきれていた。

 

宿の大きさのわりにはさほどに広くない浴室であった。湯につかりながら飲んだビールはおいしかった。子供連れの人がおり、なかでも女の子のほうが騒ぎ、あげくの果てに坊やが小用をしたので、シェフは父親のしつけの悪さに憤慨した。

 

湯から戻ってぼくらはバス停兼展望台で最後の晩餐の用意をする。

ほろ酔い気分のぼくは不手際でテーブルにおいたプリムスのこうこうと輝くランタンを倒してしまい、火屋ガラスが割れた。とたんに暗闇が訪れ、ぼくは落胆した。

しばらくするとシェフが太いロウソクを取り出し真ん中において火をつけた。すると柔らかな明かりが次第に広がり、先ほどまでの調理台がいつのまにか食卓に変身し、シェフのお勧め料理とソムリエの特選ワインとがテーブルを飾っている。

食事が始まると、ソ厶リエはまたいろんな愉快な話をしてくれる。やがてデザートがくると、マエストロによりアンデスの音楽が奏でられ、すっかり寛いだぼくは眠りの馬車の迎えが来るまで星空を屋根にした遥かな宮殿の中でこの優雅な晩餐をこころゆくまで楽しむ。

 

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8月21日

 

早朝から雨が降っていた。山の天気は変わりやすい。

10分刻みで刻々と変化してゆく。出発準備をしていて、雨が降っているので防水服を着ていると雨は止み、それではと防水服を脱いで片づけているとまた降りだし、困ったなあと思っていると止み、さあ出発しようとするとまた降りだすという具合だ。

刻々と移動する雲の中にいるので、こんなことになるのだ。

 

八幡平アスピーテラインの登りはまだまだ続く。

道の脇や谷間で勢いよく湯煙が吹き出している。雲が移動しているのだろう目の前を薄い空気のシートがゆっくり流れてゆく。

石炭を焚きながら登ってゆく蒸気機関車のように、ぼくはポケットからしきりに菓子を取り出してはかじりながらピークを目指して登っていった。

しかしこのラインの実質的な最高所は以外とあっさりしたところであった。

峠の名もない。O君がそこで待っており、ここから先はもう下りだけだと言う。

山頂レストハウスなどのある見返峠はもっと先にありそこまでは確かになだらかな下りだった。

 

レストハウスのそばに自転車をおいて、八幡平頂上自然研究路を歩いて見返峠に到り、八幡沼、ガマ沼などの火口湖を眺めた。

たくさんの人が写真を撮っている。遠景は霧で隠されていたが、その霧が晴れるときに見られる広がりゆく景色は実に美しい。O君がその瞬間をカメラでおさめたので、ぜひその写真ができたら送ってくれと頼んだ。

後日いただいたのを見てみると確かに美しい。しかしあの時の感動は蘇らない。あれは次第に切れてゆく霧の動きにつれ、光が差し込みそこに出現した景色が次第に明るさを増してゆき、しかもその光を自分も同時に受けているという喜びによるものだったのだろう。

シェフの父親から借りたという高級一眼レフカメラをもってしてもあの美しさは記録できなかった。シェフは高山植物をも接写していた。

 

岩手県と秋田県の境がこの見返峠を通っている。ここからぼくらのサイクリングツアーは終点の盛岡市までずっと下りを行くことになる。

アスピーテラインの下りで多くの女子大生が自転車で登ってきていた。

こちらから登るのは勾配がよりきついので大変だろう。下ってゆくほどに空気が温かくなってゆくのがよくわかる。

 

盛岡まであと何キロ、という標識が次第に頻度を増して現れるようになってきた。スタジアムに戻ってゆくマラソンランナーのようにぼくらはスパートをかけた。

 

盛岡市街に入ると、石川啄木新婚の家、県庁の石割り桜などを訪ねた。バスターミナルでシェフは自転車を解体した。そして、わんこそば東家で最後の食事を楽しんだ。

しかしぶしつけに蕎麦を碗に放り込んでくる若娘にはシェフも苛立って「いけすかん」と苦言を吐いた。

 

O君の乗る長距離バスの時間が迫ってきた。旅は終わった。この旅が、8日前に専務も含めた三人で仙台駅を出発したサイクリング旅行の延長線上にあるものだということがなんだか信じられない。

出発したのがもうずいぶん昔のことのように感じられる。あの仙台駅で再会した時の膨らみ気味のO君は今では精悍な体型を回復していた。

 

彼は黒いTシャツと半パンツの出で立ちで、着替えとしてはやはり黒いTシャツと半パンツを持参していた。彼は途中のキャンプサイトで、汗や埃まみれになった衣服を洗剤で洗濯して古いのを繰り返して着用し、この着替えはサイクリング道程の終点盛岡までとっておいた。

盛岡のバスターミナルで彼は、さまざまの経緯で付着し洗剤でも落ちなくなった汚れにまみれ、さまざまの接触でところどころに穴が開いてよれよれになった黒いTシャツと半パンツを脱ぎ、新品の黒いTシャツと半パンツに初めて着替えた。

翌朝大阪でバスを降りるときには、彼のフィアンセが迎えにきているはずだ。このサイクリング旅行が、自分の体はもちろん衣服もかすりキズ一つ無い安全で気楽なものであったことを彼女に示したかったのだ。

ぼくは別れ際に、彼の幸せな結婚を願い、彼の手を握った。長距離バスはターミナルを出ていった。

一人になったぼくは、水筒の代わりに使ったハイサワーのプラスティックボトルを空にし、ごみ箱に捨てた。

役に立ったものを捨てるときにはいつも寂寥感が伴う。新幹線に乗るためにJR盛岡駅に向かう途中、今回の比較的難度の高い旅行を全うした褒美に、自分に新しいシューズとスポーツシャツを買ってやった。

車中ではロング缶のビールを飲みながら長旅のさまざまのシーンを満ち足りた気分で回想した。O君との旅のあとはいつも喜ばしい余韻が残る。

 

おわり

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