東北サイクリングの旅(1993/08)その1
(松島−志津川−(輪行)−八戸−恐山)
1994年元旦、O君から年賀状が届いた。
(注:「お座敷サイクリスト」とは別人の方です)
裏面は結婚式の写真だ。幸せそうな彼が利口そうでかわいらしい奥さんとふたりで肩を寄せ合ってろうそくに火をつけようとしている。
「たぬきに似てるんでポンというあだ名で呼んでいるんですよ」と彼が言っていたのでその先入観を持って見てしまったせいか、そう言われてみれば確かにタヌキ科の面影もないことはないなと思えた。
「ペンギンに似ているというのでぼくはペンと呼ばれてます」と彼は言っていたが、この写真の彼にはペンギンの面影はなくなっていた。
しかし昨夏、仙台駅で久しぶりに再会したときの彼は体がふっくらと膨らんで、数年前信州で別れたときの精悍な彼を記憶にとどめていたぼくには、おもわずほほえんでしまうような、あとで思い返してみるとたしかにペンギンが胸を張ってよちよち歩いているようなユーモラスな様子だった。
しかし、93年夏の東北でのサイクリングが、彼自身が「毎日体が引き締まってきて腰ベルトをしめるときの止め穴をひとつずつ内側に寄せないと半ズボンがずるのです」と言ってたように、彼の体を再び引き締めたのだった。
'93夏東北サイクリング、この旅行を遅ればせながら記録しておくことは、再び弛み始めたぼくの心のベルトを引き締めるのに役立つだろうし、いつかサイクリングをやめる日がきてもこれを読むことにより精神をそのつどリフレッシュする手だてとなるであろう。
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1993年8月13日
朝、仙台駅集合
ぼくは、1990年夏の信州山岳サイクリングのときと同様、今回も旅行のあいだのリーダーシップをO君に委ねたので地図さえ持参しなかった。
彼に従って行けば辛くとも好ましい旅ができることを信じていたから自分が地図を見てコースをとやかく言う必要はなかったのだ。
出発一週間前にO君はぼくに地図のコピーを送ってよこしその中に彼が提案するコースを青色鉛筆でなぞっていた。
ぼくはそのコースでいいと思ったので、それをもうひとりの同行者のK氏(以下「専務」とも呼ぶ)に送り出発の日を待った。
専務からの電話連絡でコースは批准され、ぼくらのリーダーはO君ということも了解された。
しかしO君はリーダーと言われるのを嫌い、ナヴィゲイターだと自称した。従って彼は要所要所でいつも地図を開き、現在位置とこれから進もうとするコースを人差し指で専務やぼくに示し、ぼくらがうなずくのを待って出発した。
特急「やまびこ」でぼくは仙台駅に朝9時頃に到着。専務は一つ前の「やまびこ」ですでに仙台入りしており、ぼくが自転車を組み立てていると黒光りするヘルメットをかむり戦国時代の武将のような印象を与えるいでたちと顔つきでぼくの前に現れた。
彼の今回の旅に対する意気込みがひしひしと感じられた。しかし彼は一年見ないあいだに(なぜなら、去年の夏に北海道を一緒に走って以来会っていなかったから)そのまなざしが柔らかくなっているのをぼくは見てとって心配した。
かつての挑みかかるような眼光、それに射られたら腰がすくんで動けなくなってしまいそうな強い視線が彼の目から消えていた。
かわりに人をいとおしく思うような柔らかい涙のように温かなまなざしが彼の目から溢れていた。
ぼくは何かあったなと思い、「どうです、今回も仕事を忘れて思う存分走りましょう。一緒に来るO君もいいやつできっと気に入っていただけますよ」と投げかけた。
専務はうなずき、新兵器だと言っていくつかの新しい物を披露してくれた。全体がメッシュのノースリーブ・オウトドア・チョッキ、プリムスの自動点火バーナー、そして究極のラジオだと言って本体イヤフォン巻き取り式の小型AM/FM ラジオを取り出した。
ぼくも新兵器なら幾つかあった。アンテナ付きヘッドフォンラジオや食パンをトーストしたり餅や魚も焼くことができるプリムスの把手付き金網、そして雨の中を走るときに有効と考えられる度付き水中眼鏡。またどんなところでもシャワーを浴びることを可能にする折り畳み式ウォーター・タンク。
O君は、大阪より夜行バスで11時ころ到着した。予定は8時着であったが交通事情がいろいろあったらしく、ずいぶん遅れての到着であった。
彼を専務に紹介するとき「O君はこの11月に結婚することになってるんですよ」とぼくが言うと、専務は何か思い当たることがあったのか、一呼吸おいてから、「それはおめでとう」と言った。
ここにひとつの皮肉な出会いがあった。あとでわかったことだが専務は一週間ほど前に、「孫の顔は見たくないよ」と言って愛娘を、気に入ることのできなかったらしい青年に嫁がせていたのだ。
娘を嫁がせてその寂しさを紛らわせるために旅に出てきた父親と、人の娘を娶るための不安と希望とに高ぶる胸をペンギンのように膨らませ独身への最後の未練を汗とともに振り落とそうとして自転車旅行に出る青年との出会い。このめぐり合わせはちょっとしたストーリーを形成することになった。
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ぼくのO君との最初の出会いは、もう何年も前、彼がまだ大学生で、ぼくもまだ30代半ばの頃のことだった。
初めて野営装備で自転車ツアーに出たぼくは夏の北海道を10日間走行した。
旅も後半に入ったある日、日本海オロロンラインを逆風をついて南下したためずいぶん遅いペースで進み、その日の予定地苫前町までたどり着くためにはナイトランをすることが必要だった。
そこで初山別の電気屋でナイトランのためにライト用の予備の電池を購入した。電気屋から出てくると、同じように強い風に逆らって南下を試みる二人のサイクリストが通り過ぎようとするのに出会った。
ぼくは喜んだ。困難で愚かなことをしているのはぼく一人だと思っていて心細くなっていたときに、同じことをやっている人にめぐり会えたときの安堵感は大きい。
ぼくは手を差し延べて止まらせ、これからどこまで行くのか尋ねた。
ずっとひとりっきりだったぼくはできることなら彼らを風防にしてお供したかったのだ。
すると、ハンドルにぶら下げたウォークマンを聞いていたO君がイヤフォーンを外しながら、日も暮れそうだしもうここらへんで野営しようかと思っていると言った。
すると同行していた森という工専の学生もそれに相づちを打った。
そこでぼくもナイトランをやめて彼らといっしょにここで夜を過ごすことにした。
地元の人に野営に適した場所を聞くと広場を教えてくれたがそこは寺の墓場のすぐ横だった。そしてその夜にそこで盆踊り大会があり、たくさんの村民や帰省者が集まりにぎやかになった。
多くの人が墓に供え物をしたが、何人かが「どうせカラスなんかに食われるのだから」と言って、供えたあとの果物や酒などをぼくらの所に持ってきてくれた。
その夜は森君の大きなテントの中で三人は寝た。
翌朝、早くからたくさんのカラスがやってきて墓の供え物を荒らして騒いだ。するとバーンと大きな音がしていっせいにカラスたちは飛び去ったようだった。テントから出てみると、寺の婦人が害鳥・害獣を脅すための空砲でカラスたちを威嚇したのだった。しかししばらくするとカラスたちはまた舞い戻ってきて騒いだ。
とんでもないところに野営したものだが、O君も森君もしっかり眠ったままだった。
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この出会いの後、O君とは何度か再会し、90年には信州をいっしょに走った。しかし彼は正義感は強いが同時にけんかっぱやい側面を持っており、いつも危なっかしさがあった。
ところが今回の旅での彼は違っていた。彼のフィアンセが彼をうまく馴らしたのであろうか、それとも営業マンとしての経験が彼を冷静な大人に育て上げていたのだろうか、いずれにしても彼からは危なっかしさがほとんどなくなり、むしろ人を導く能力が培われてきていた。
森君は一度、日本一周旅行中に埼玉県のぼくの家に寄ったが、かわいそうなことにぼくが不在の折で、彼は女ばかりの家族を見て遠慮しておいとましてしまった。
さて、そろそろ仙台駅を出発しよう。天候は晴れ時々曇りの一日だった。
まず松島海岸を目指した。交通量が多く道路の端を擦るように走る。
松島では瑞巌寺をまず訪れた。拝観料は500円。境内に多くの洞穴がある。
O君は鰻塚に関し、昔はこれらの洞穴で鰻を貯蔵していたのだろうという推論を提唱した。
しかしみやげもの屋派遣のガイドの説明でその誤りが明白になった。これらの洞窟は僧侶たちの修行生活の庵であった。
松島は、数年前に一人でJR青春18キップを用いて来たことがある。
各駅停車の列車を乗り継いで仙台に到り、仙石線の快速に乗り換えて松島海岸駅にたどり着いた。
その時は帰りの汽車の関係もあり小一時間の滞在だった。曇りがちの日で、帰るころには小雨が降りはじめ、やがてそれはみぞれになった。
観光客もまばらで静かな松島だった。松島の島々は海岸に立って見るものより、松島海岸駅の手前のトンネルに入る前の電車の窓からのものが最も印象的だった。
電車が進むにつれ遠近の島々がそれぞれの動きをしてみせ、遠くの小さな島が手前の大きな島影に寄って消える。
曇り空の下たくさんの島が幽玄の世界を展開してみせる。
急ぎ足で橋を渡った福浦島では和服を着た美しい婦人と作業服の男性のカップルに会った。
いい景色のところだったのでこれをバックに自分の写真を撮るべく彼のほうに頼んでカメラのシャッターを押してもらった。
彼女のほうはずっと彼の影に隠れるようなふうだった。
松島の重なり合うどの島影の美しさよりもこのカップルの姿がずっと印象に残っている。
また急ぎ足で駅のほうに引き返していると蓑を被った托鉢僧たちの列に出会った。夕暮れの古い街並みの中に消えていくその後ろ姿をみぞれが山水画のような幽玄の図に仕上げてゆく、ぼくもどこかの路地に消えてゆきそこからの記憶はない。
今回は天気がよく、島影はくっきり見え、カメラのシャッターは何度も押したが、観光客が多すぎたせいか、前回のような心に残るシーンにめぐり合えることはなかった。
しかし、今回の東北旅行全体を見ると心に残ったシーンはたくさんある。
それは写真で残した固定シーンとはちがっていずれも数秒間の長さにわたり活動する態様をとっており、音や匂いを伴うこともある。
たとえば、O君が首を傾げたり体を揺すりながらリコーダーを吹いているシーンとか、専務が持参したワサビ下ろしでワサビを擦っているシーン、あるいは盆踊りの列で前の女性が上手に体をひねって踊るシーンだ。
牝鹿半島に入り、荻浜に着いたころ日暮れとなったので、この浜でテントを張り三人で夕食を料理した。
料理長は調理師の資格を持つO君がなり、味にうるさい専務は味見係、ぼくは風向きの変化をつぶさに察知しそれに応じて座る場所の移動を繰り返し、常に風がバーナーの火を消さないようにする火守の役をした。
空腹は最大のソース、サイクリング旅行中に食べるものでまずいものはないが、これに加えて天才的シェフO君が腕を振るったのでぼくは旅が終わるころには太り気味になっていた。
酒を飲み過ぎたせいか早く眠くなったぼくは、先に自分のテントにもぐった。しばらく専務とシェフの話が聞こえていたが、静かになったかと思うときれいなリコーダーの音色が聞こえてきてアンデスの音楽が奏でられた。眠気をふりはらってそれを聞きつづけようとしたが、こくりと油断したすきに眠りに落ちてしまった。
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8月14日
朝早く起きて辺りをひとりで散歩した。
昨夕交換した古タイヤを捨てるところを探すためだった。やっとごみ箱を見つけてタイヤを捨てると、その近くに石川啄木の歌碑のあるという標識があった。
高台の神社に通じる急斜面の階段があり、その途中に歌碑があった。歌は一泊した旅籠の少女との淡い恋を歌ったものだった。
この旅の最終訪問地盛岡で、啄木新婚の家というのを訪ねたが、そこに置いてあった「全国啄木歌碑集」に荻浜で見た歌が歌碑の写真入りで載っていた。
しかしこの歌のヒロインである少女とのくだりは解説されていなかった。
もしぼくにも歌心があったらこの旅行記にもたくさん歌を記したいところだが、歌を詠むのはぼくの性分ではない。歌を詠じる人達はやはり徒歩旅行をするのであろう。
歩きながら左手で短冊を持ち右手には筆を持って言葉が浮かんでくるままに芭蕉よろしくそれを書いてゆく。
しかしサイクリストは常にハンドルに一方の手を置いておかねばならず、言葉が浮かんできてもすぐに記録することは出来ない。
そしてカーブを切るたびに名歌は脳裏から昇華してゆくのだ。それにぼくらはいつもテントで野営したので旅籠の少女との淡い恋というのもありえなかった。啄木の歌碑の傍にはみごとな浜ユリが咲いていた。
簡単な朝食のあと荻浜を出てしばらくすると雨が降り始めた。
雨粒で眼鏡が見えにくくなり目にも雨が打ち込んでくる。
ぼくは度付きの水中眼鏡を取り出してはめた。始めは便利だったが、しばらくすると内側と外側の温度差のせいでレンズが曇りだした。名案と思っていたこの秘密兵器も残念ながらレインランの問題解決にはならなかった。
牝鹿半島の背骨にあたる牝鹿コバルトラインを走った。用足しと水の補給のため、ある展望所のレストハウスに寄った。
専務とぼくは体を温めるために温かいものが飲みたかったのでウェイトレスにホットミルクはあるかと問うとメニューにはないが特別に作ってあげましょうということになった。ぼくらは砂糖もたっぷり入れて味わって飲んだ。
O君が電話で天気予報を聞くとやはり午後まで雨は続きそうだった。
牝鹿半島の先まで行って金華山を望みたかったがこの雨ではつまらないだろうということでコースを変えることにした。
それで鮫浦湾の方に下り、半島を引き返した。幸い半島を出るころには雨は上がり景色も遠くまで見渡せるようになった。
しかしリアス式海岸はサイクリストにとってはきびしい。
隣の入江に行くたびに峠を越えねばならないからアップダウンの繰り返しが続く。
距離が進まないわりに体力の消耗が大きい。きょうは気仙沼まで行きたいというO君の計画が危うくなっていた。
雄大な北上川を渡ったところで村の旧青年団とのふれあいがあった。
御馳走などに与かることになり、あとで礼状を出したのでそれをここにそのまま複写して次に進もう。
『拝啓、皆様お元気でいらっしゃいますか?8月14日でしたか、太陽もずいぶん傾いたころ、幅広き北上川を渡ってしばらく走って自動販売機のそばで缶ジュースなど飲みながら一休みしていると、庭で蓙を敷いて宴に興じる貴殿らに声を掛けられました。こっちへ来て一杯やらないかというのをぼくらが遠慮していると、「ふれあいを求めて旅しているのではないのか」と言われ、これには参りました。確かにそのとおりでした。
地図を片手に名所はしらみつぶしに訪ねても、人とのふれあいをパスしていたのでは思い出の乏しい旅となるのがおちです。ぼくらは大切なものを忘れかけていたわけで、それを思い出させていただきました。実際、雄大な北上川の思い出も貴殿らとの交流によりもっと豊かなものになりました。
さて、こうして午後の宴の仲間に入れていただきましたが、一杯だけのつもりの酒にもつい度が進み、さらにたいそうな御馳走にも与ることができました。止めどもなく焼き上がってくるウグイには堪能いたしました。緊張の続く自転車旅行の中のオアシスのようなひとときでした。旅の最中にて何のお礼もできませんでしたが改めて御親切に感謝いたします。その時の写真を同封しますので、皆さんにお分けください。
敬具』
その夜はかろうじて日暮れ前にたどり着いた志津川駅の軒先でテントを張った。ここでもシェフがリコーダーで食後の音楽を奏でたが、駅前広場に車数台で乗り入れて同窓会からの帰りのような感じではしゃいでいた男女の若者たちもしばらく聞き入り、やがて清酒の差し入れをしてくれた。
その後シェフは自慢のリコーダー演奏をいろんなところで披露したが、必ずまわりのキャンパーたちなどから拍手を受け、しばしば食べ物や飲み物の差し入れもあり、ぼくもその恩恵に与った。
専務は信州の大王農園で買ったという自慢のワサビ下ろしで家から持参した特撰ワサビを擦り、ぼくらにも分けてくれたので刺し身やウニがとても美味しかった。
美食家の専務はどんな所に行くときも特撰ワサビとこのワサビ下ろしを欠かさない。いっしょに知床に行ったときもこの下ろしのおかげで毛ガニをすばらしい味付けで食べることができた。
やがて駅前広場から若者たちが去ってゆくと誰が始めるでもなく話題は結婚のことになった。
シェフはヨーロッパへの新婚旅行の計画を披露してくれ、専務は結婚生活についていろいろアドヴァイスし、ぼくも自分の結婚式や新婚旅行のときのことを思い出して話す。
シェフと専務とは互いに相性のいい性格の持ち主であるのだろう、今回の旅で初めて知り合ったとは思えないくらい互いにうちとけあって話をはずませる。
ふたりともとても酒が強いことも彼らをして互いに愛着を感じさせているのだろうか。
酒に弱いぼくはやがてろれつが回らなくなってふたりについてゆけなくなり、そのうち完全な聞き手になって、ついうとうとしてくる。
たまに専務やシェフの笑いやアクセントのある声で目が覚め、それでもまたうとうとを始める。
「ふざけんじゃねえってんだ・・・」目を開くと専務がバーボンウイスキーをぐいっと飲んでいる。彼は娘婿の悪口をひとしきり言ってから絶句する。・・・「箱入り娘でしたからね・・・」いつしかシェフは自分とフィアンセの父親とのやり取りを語っており、自分らも初めは仲がよいとは言えなかったが、何度か会っているうちにうまく話ができるようになった、だから専務も娘婿にもっと会う機会を持つべきです、というようなことを言っている。
・・・次に気づくと、話はいつのまにかまたシェフのヨーロッパ旅行のことになっていた。「ロンドンに行ったら、ミントソースでラム肉を食べるんだね」そう言うとぼくは立ち上がり、歯を磨き、先に寝ますと言ってテントに潜った。
「ふざけんじゃねえってえの・・・」専務がまた話題を元に戻したらしい。
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8月15日
サイクリスト三大地獄というのがある。
あとの二つがどことどこだったか覚えていないがひとつはこの三陸海岸だ。
リアス式海岸は前にも述べたように狭い入江と入江が急峻な峠によって隔てられているので、海岸沿いに進むサイクリストは何度も上り下りを繰り返さねばならず、このため地獄の思いをするというわけだ。
ぼくらはそこで今回は三陸海岸は昨日の一日だけということにして、志津川より列車で輪行して八戸までゆくことになった。
駅員の話では、志津川から気仙沼線を北上するよりは、一旦気仙沼線を南下して小牛田駅に戻って、そこから東北本線に乗り換えて北上したほうが早いというのでぼくらはそのように切符を買った。
三人は大きな荷物を持っているので分散して列車に乗った。
ぼくとシェフは同じ禁煙車に席を見つけ、専務は隣の喫煙車両となった。
しかし乗換の小牛田駅にディーゼルカーが近づいたころ、専務が神妙な顔をしてやって来て、すまないが自分はこのままこの列車で南に向かう、と言う。
持病の腎臓結石が気になりだしたということだった。
そういえば知床を一緒に走ったとき彼は熊の湯温泉のトイレで石が出て、そのことを旅行記におもしろおかしく書いていた。
彼は腎結石はそんなに深刻な問題ではないというようにいつもぼくらに語ってくれていたが、やはり出てしまうまでは気になるのだろうか。
ぼくらは残念がったが、彼の体のことは彼が一番良く知っているのでしかたがない。
ぼくとシェフは専務を車中に残したまま小牛田で下りた。
しかし専務は賢明な選択をしたのだということがあとでわかった。それはぼくとシェフのこれからの二人旅がさらに恐山、八幡平などの様々の難関が待ちうける過酷なものであったから、というわけではない、むしろぼくらの旅はこれからさらに素晴らしく展開するのだから。
否。仕事において発想の転換をモットーとしている専務は、サイクリングツアーにおいても思いがけない提案をよくしてきたが、腎結石くらいでツアーよりリタイアするということは今までになかった。ではなぜ今回にかぎって・・・
彼はこのまま列車に乗ってゆけば福島に着くことを知っていたのだ。
だからこの列車に乗ったときから彼はある選択を迫られていた。
ぼくらと一緒に小牛田で乗り換えて八戸へ向かうか、それともこのままこの列車で福島まで下るか。
後者のほうが彼にとってはずっと勇気のいる選択肢だった。
しかし二つの物体が近づけば近づくほど相乗的に互いに引き合う力を増すように、専務は福島に近づくにつれ、始めはほんの思いつきだったことが次第に彼の中で磁力を増してくるのを感じた。
そして彼は勇気のいる選択肢をついに選んだのだ。
彼の今回のサイクリング旅行の最難関は福島にあった。ハネムーンから帰ったばかりの娘夫婦が新居を構える福島だ。
K専務との別離はぼくらを急に心細い思いにさせた。仲間意識が強まっているときに仲間が一人でも抜けると、薪の束から一本が抜かれると束が緩むように、残された者は自分たちの結束が一瞬緩んでしまうのを感じる。
締めなおすのにしばらくの時間がかかる。ぼくと若いシェフとは八戸に向かう電車の中で3年前の信州旅行のこと、そしてその後のそれぞれの歩みを語り合った。
彼は週日は仕事で毎日営業車を運転しており、特に担当地区の和歌山県内はほとんどの道を走り、自分がかつて自転車で苦心して登った峠などを越えるときにはその時を思い出し、それぞれのカーブの眺めを記憶の眺めと符合させながら通り過ぎた。
休みの日には恋人とドライブを楽しんだり、後ろに彼女を乗せてオートバイで遠乗りしたりしてデートを重ねてきたという。
しかし三年近くサイクリングはしておらず自転車はそのあいだずっと輪行袋に包まれたまま押し入れの片隅に置かれていた。
彼はたまに重装備のツアー・サイクリストを見かけると胸騒ぎがするという。それは彼の内なる野性の叫び声であろう。そして自分の膨らみはじめた体にも不安を感じ始めていた。
しかし恋人は彼に自転車での旅行を許さなかった。少なくとも自分が同行しない旅を許さなかった。彼女は自分もそのうちツーリング自転車を買うから一緒に旅行しよう、と言って理解者を装ったが、決して自転車を買おうとはしなかった。
そして彼も自転車よりも恋人を選んだのであり、それはそれで自然であった。しかしある日曜日、彼女とドライブしていると、ロードレーサーのサイクリストがカーブを曲がり切れず木立に飛び込んだ。彼は急いで車を止め、血だらけで意識の朦朧としたサイクリストを背負い、自分たちの車に乗せ病院に運んだ。
学生時代、北海道から京都に帰る途中、アルプス山道の下りでカーブを曲がり損ねてガードレールにぶつかったときの自分自身を思い出していた。病院では彼はサイクリストの手帳から電話番号を見つけ家や学校に電話して事故の連絡をした。
その時の彼の懸命で献身的な様子を見た彼女はついに彼に再び自転車に乗ることを許したという。
彼が彼女の心を自分のものにしたと初めて実感したのはその時だった。
こうして彼はその年の5月の連休に久しぶりにツアーに出た。
この旅行にはぼくも誘われたが、あまりに急だったので調整ができず断った。彼は一人で南九州の山岳地を自転車旅行し、その帰路に求婚を決意したという。
ぼくはといえば、信州旅行のあと、八丈島、宮古島、北海道2回と、計4回のロング・ツアーに出た。
これだけのツアーをこなせたのも、シェフとの信州旅行の成功がぼくのツアーに対する自信を増大させていたからだった。
シェフはそれらの旅行の様子をぼくの旅行記で読んで知っていた。
また、それらの旅行記は彼の職場でも読まれたらしく、是非今回の東北旅行も旅行記にしてくださいと彼は強く希望した。
ぼくは、仕事が忙しくなりそうなので約束はできないと言った。
宮古島や北海道道南のときのように前半をぼくが書き、後半を専務が引き継いで書くということが今回はできなくなったのもぼくを億劫にさせていた。
おそらく書かないだろう、とぼくが言うと、シェフは残念がった。
八戸に着くまでに、さらに二回列車を乗り継いだ。
乗り換えるたびに違うサイクリスト達と車両がいっしょになった。
たいてい高校生あるいは大学生らしい若者たちだった。
サイクリング・ツアーをするにはもうぼくは年をとり過ぎているのではあるまいか、と不安な気持にさせられる。
専務がいるあいだにはこのような不安は少しもなかった。
どんな種類のグループにおいてもそうだが、その中で自分が最年長者であるということはいつも哀愁感を伴う。
落第して進級できないで年少組のクラスに編入された生徒の心境だ。
ツアー・サイクリストたちはぼくの年齢を2で割っても足りないような連中がほとんどだから、ぼくももう本格的サイクリングからは引退が許される歳になったのだと考える。
これからはミドル・エイジの特権を与えられてもいいのではないかと思っている。
もうぼくらは役目を果たした。これからは楽をして楽しむことが大いに許されるべきだ。
山を越えるときも、若いO君は自転車で登り、ぼくはバスに乗る。
そして7合目くらいにある「なんとか温泉前」のバス停で下りて、温泉につかりビールを飲んで一眠り、目が覚めてから自転車を組み立てる。
すると出発時とは見違えるほど日焼けして、身も引き締まり精悍になったO君が汗を垂らしながら自転車をこいで登ってくる。
そしてぼくら二人は並んで自転車でくねくねする急な登り道を攻める。
登りの呼吸を知っているぼくは彼から離されることはない。
8合目を通りかかるとたばこを口にした専務が「ごくろうさん、遅かったね」などと言ってにこにことぼくらを迎え、こんどは三人で頂上を目指す。
こういった秩序正しい段取りがぼくらのツアーをより楽しいものにしてくれよう。
ぼくらは昼になるとディーゼルカーの中で昼食をすませた。
ぼくは食パンにバターを塗った。自転車走行中ならプリムスの把手付き金網を用いてパンをトーストしてバターを塗るところだが、車中では火は使えない。
食後の浅い眠りから目が覚めると、シェフが車掌と何やら話をしている。
気の弱そうな車掌は、シェフに証人になってくれと言っている。
何の証人かというと、特急の通過待ちで暫く停車した前の駅でこの車掌が確かに出発10秒前の車内放送をしたという証人だ。
なぜそんなことの証明をせねばならないのかというと、運転士がその放送をしなかったと言い張り、上司にそのことを報告してやる、と車掌を脅かしたからだ。
そうなると車掌は自分のボーナスに影響がでるというわけだ。
車掌が本当に放送したのかうっかり忘れたのか眠っていたぼくには定かではないが、それをいちいち上司に報告するという運転士も大人げない。
シェフは証人になることを約束して、住所電話番号、それにこれからの旅の行く先までも車掌に知らせた。
ディーゼルカーがやがて八戸駅に着くとぼくらは早速駅前広場で自転車を組み立てた。するとさきほどの車掌がにこにこしながらやって来て、
「お蔭様で話がうまくつきました、ありがとうございました」
と丁寧に礼を言い、ぼくらの旅の無事を願ってくれた。
八戸からは自転車で北に向かった。製紙工場の横を通り、やがて国道338号線に入る。平坦な楽なコースが続く。
町や村ではねぶた祭りの準備が進んでいる。すでに山車の行列が行われているところもあった。
子供たちもはっぴや浴衣を着て並んで歩く。笛や太鼓の音が狭い路に響く。
ぼくらは初めはこれらを珍しく思い、自転車を止めて写真を撮ったりしたが、やがて素通りすることが多くなった。
砂森というところで野営することにした。
国道から少しそれたところに盆踊りのセッティングがされた広場があり公民館風の立派な建物と、新築の神社もあった。
神社の境内にてぼくらが夕食の準備をしながらビールを飲んでいると、車が一台また一台とやってきて広場には浴衣姿の人々がたまってきた。
そしてしばらくすると風格のある初老の男性がぼくらのところにやって来て東北弁で何やら話す。
ぼくは彼の言っていることが定かにはわからなかったが、シェフはかなり理解できていた様子だった。
やがてこの男性を親分と呼ぶ若い衆が二人ほど近づいてきて親分の言い分をもっとわかりやすい東北弁で補佐する。
親分と呼ばれる人は村長で、無断でこの村の公共施設の敷地内で野営することに関し苦言を呈したのだった。
ぼくらは丁重に応対し何とか許可を取ることができた。
食後、ぼくはO君に散歩に行ってくると言って席を立った。
やがてほろ酔い気分のぼくの千鳥足は遠回りをしながらもいつしか盆踊りの人の輪の中にぼくを運び込んだ。
すると目の前にやさしい体つきの浴衣姿の婦人がおり、上手に踊りながら後ろ向きにさがってくる。
彼女の振り向き際に目と目が会った時、ぼくはつい後ずさりするのを忘れてしまいぶつかりそうになったが、彼女は敏捷な動きでぼくをよけた。
踊りの身振り手振りは曲ごとに一連の動作が組み合わさってできており、その手振りの中には前後の人と手を取り合うという場面もあり、これが何ともうれしい。
しかしたいてい若い女性はただ細い手をこちらに差し延べるだけで手が届かないふりをしてこちらの手を握ってくれることはない。
やがて遅れて来た人達も踊りの列に加わり、輪は大きくなり、一重の輪が二重の輪になり、これらが同じ方向にぐるぐる回りながら祭りは高揚してゆく。
ぼくがなかなか戻ってこないのを怪しんだ料理長はぼくのあとを追い広場にやって来て、ぎこちなく踊っているぼくを見つけ、笑いながら彼もこの輪に加わった。
この盆踊りに参加してくれたということで、村人たちはぼくらにも恒例のお楽しみ抽選会に参加する権利を与えてくれた。
ぼくもO君も当たらなかったが、参加賞としてウェットティッシュ一缶ずつをもらいこれが旅行中に大いに役に立った。
ぼくらが神社の食卓にもどって飲みなおしていると、盆踊り大会が無事終了したことで上機嫌になっていた村長たちがまたやって来てこれを飲めと酒や缶ビールをくれ、ひとしきり話して行った。
この地は三沢市の一部で、主要農産物は米だということだったが、この年は冷夏で彼らの収穫は皆無に近かったのではなかろうか。
地元から出た有名人はと聞くと、三沢高校の太田幸司ということで、ぼくらが将来有名になったらこの村のことを思い出して恩返しをしてくれというようなことを言っていた。人との交流のあった地はいつまでも記憶に残る。
ぼくらはその夜は結局神社の社の中で眠った。
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8月16日
朝、ぼくらが社の中で後片付けや掃除をしていると、村長がやって来て、しばらく話をする。
こういう旅行をするのはみな学生という先入観があるのか、ぼくまで学生と思われていたようだ。
ぼくらが自転車に荷物を乗せていると、彼はぼくらが手荒なことをしていないかと心配そうに新築の社の中を見回していた。
自転車に荷造りが終わって、村長にお世話になりましたと礼を言うと、無事な旅を祈ってくれた。
砂森を出て338号線を北上し続けると、やがて六カ所村に入る。
原子力発電関係の施設が林立する。多くの一流電気会社が看板を建てており敷地を確保している。
しばらく行って、川に差しかかると橋の上から大きな納豆入れのような藁の束を川に投げ込む男性がいた。
よく見るとその中には色とりどりの供え物が入れてある。この辺のお盆の習慣なのだろう。
横流峠を越えてむつ市に入る。
公衆電話の横で困ったように地図を見ていたロードレーサーの青年がいたのでシェフが話しかけると、きょうのうちに北海道に渡りたいが大間港から最終便が出る時間までにそこにたどり着けそうにないのだと言う。
シェフは確か大畑からも北海道に行くフェリーが出ているはずだから電話してみたらとアドヴァイスした。
すると確かに室蘭行きのフェリーが2時間後に出る予定だった。彼は感謝して去って行った。
ぼくは前タイヤの膨らみが一様でないのが不安になってきていたので、自転車屋に寄り一度空気を抜いてバルブの付け根のナットを緩めて空気を入れ直した。こんどはきれいに膨らんだ。
それからぼくらは恐山を目指してむつ市を出た。坂を上っていると、先ほどのロードレーサーの青年が登ってきて、恐山を越えて大畑に行くことにした、と言いながらすいすいと追い越して行った。
ぼくは標高874メートルの朝比奈岳を見つめながら、あれが恐山頂上かと思いながら力んだが、実は恐山はもっと低いところにあった。
途中、湧き水を樋のようなものに集めて利用しやすいように流している所があったので、顔を洗い水筒を充填した。
ここまでの登りでぼくはへばりかけていたので、この休憩場所はオアシスであった。
恐山は、むつ市側から登ると古い一里塚がずっと並んでおり、あと霊場までどのくらいあるのかわかって便利だ。
あと数里となってくると、なんだか霊気を感じているような気がしてくる。
そしていよいよ霊地が近いぞと思っていると、急な下り坂が始まりしばらく続くので道を間違えてしまったかと不安になる。
しかしこれが湯坂で、そのまま下ってゆくとエメラルド色の宇曽利山湖が現れ、太鼓橋まで下りは続く。
湯坂を猛スピードで下ってゆくと、先に着いていたO君が太鼓橋の向こうの箱のような小屋のそばに立ってぼくを手招きしている。
行くとその中でイタコが何やら呪文のようなものを唱えておりその前に夫婦らしい中年の男女とその息子と思われる高校生くらいの男子がうつむき加減でそれを聞いていた。
ぼくが着いてからはすぐにその呪文も終わり、夫人はおいくらですかと尋ね、イタコは相場は三千円ですと小声で答えた。
それに対して夫人は機械的に千円札を三枚差し出した。
それをイタコはつまらなさそうに受け取った。死者の口寄せはなされなかったのだろうか、あるいはなされたが死者がろくなことを言わなかったので夫人が腹を立ててしまったのであろうか。
占い師もそうだが、客から多くを望むなら客が聞きたがっていることを言ってやるのが基本だ。
次にぼくらは賽の河原に向かった。
そこに行くためには、宇曽利山湖の北岸にある霊場恐山菩提寺の門を入らねばならない。
閉門時間が過ぎていたのか正門がもう閉まっていたので横の通用門を通って中に入り、地蔵堂などを訪ねた。
死者の霊が集まると言われる境内には、硫黄の匂いが漂い異様な雰囲気が醸し出されている。
賽の河原には至る所に石積がされており、この上に糸トンボたちが止まっている。岸辺の石に登ってまさに脱皮してトンボになろうとしているヤゴもいた。湯煙の出る石置き屋根の古いバラックのような建物がいくつかありそれらは温泉小屋であった。
ひとつを覗いてみるとそれは混浴だった。肌からもうもうと湯気をたてながら婦人たちがちょうど更衣室にやってくるところで、ぼくらは遠慮して彼女らが着替えるのを待って中に入った。
熱い湯だったが我慢してつかって旅の疲れを癒した。
専務がいれば喜んだろうに、とふたりで彼の不在を残念がった。専務が去ってからというもの、ぼくらはすばらしい風景や温泉などの恵まれた経験をするとたいてい、「専務がいたら・・・」という言い方でこれらを愛でた。
この温泉へは翌朝も訪れてつかった。
ぼくらは宇曽利山湖を臨むバス待合所を兼ねるレストハウスの庇の下にテントを張った。
この湖は強酸性のためウグイしかすんでいないという。夕食を済ませ、ビールを飲んでいるとタクシーがやって来て目の前で止まり、サイクリングウェアを着た困った様子の青年と運転手が下りてきて、白い服と黒のパンツで赤のロードレーサーに乗った男は通らなかったかと聞いた。
話によるとこの青年はスピードに乗って先に行き過ぎて相棒とはぐれてしまいタクシーで引き返して来たのだった。すでに日は沈みもう見つけることは難しかろう。仲間と走るときにはトップは独走してはいけない。
ぼくはこの霊気豊かな恐山は賽の河原のほとりで寝るなら、今は亡きある美しきひとと夢の中で再会できるのではなかろうかという期待を持って就寝した。しかしぐっすりした眠りが訪れ、夢さえ見なかったようだ。
ところでO君が親戚の人の話として聞かせてくれた恐山に関する逸話は面白かった。
この人は落語家をしていて、テレビの取材で恐山にやってき、イタコに会って「亡くなった母と話をしたい」と口寄せを依頼した。
イタコはこの死者を呼び、その霊を自分にのりうつらせ、母の声でさまざまのことを彼に語った。落語家もいたく感激した様子で、母なる霊と語った。テレビでこの様子が全国に流された。
そして口寄せが終わると、落語家はイタコに向かって、実は自分の母は健在で今もいなかで元気に暮らしているとひょうきんに白状するのだった。
これにイタコは激しく怒り、ばちあたりめ、とわめきたてたという。
その様子までも放映され、このブラックユーモアは大いに受けた。
落語家はまんまとうまくいったこの仕事を終えて東京に帰る。
すると、彼の父から電話があった。そしてすぐ帰ってこいと言う。
テレビでおまえの愚かないたずらを見た、おまえはただふざけてたんやろが、実はおまえは本当のお母さんと話をしたんや、と言う。
そして次のような打ち明け話をする。
おまえの実のお母さんはおまえがこまい頃に死んでしもた、そのおまえの本当のお母さんはお父さんのめかけでおまえを苦しんで産むとすぐに死にはった。お父さんはおまえを引き取ってお母さんもおまえを実の子として育てたんや。イタコの話ぶりはあのひとの話し方そのものやったんで、わしはぞっとしたで。
おまえの産みのお母さんはイタコの口を通して言ったようにおまえのことを案じながら死にはったんや。
あのひとは泣き声でおまえに墓参りをしてくれと言うてはったろ、だからすぐ帰ってきてお父さんと供養に行くんや。
それからもうこんな馬鹿な仕事はやめて家を継げ。
・・・この落語家はそれ以来人を笑わせることがめっきり下手になり、やがて噺家をやめ、故郷に帰り家業を継いでまじめに働いているという。