パドル・スチーマーを追え!

--Old Timers on the Murray--



● はじまり

初めてのアウトバック遠征を終え、帰国便の機内に座ったワシの頭は既に次回の旅に飛んでいた、「さて、次はどこを目指そうか?」。何気なく開いたガイドブックの文字に目が止まった。"River Port"、直訳すると河の港。日本人的感覚からすると、川に港があるなんてイメージできない。日本の川は大きな船が航行できるほど大きくも長くもない。せいぜい隅田川の遊覧船や屋形船がいいところだ。興味を持ったワシはガイドブックを読み進めた。リバー・ポートが栄えたのは今から百年ほど前、場所はマレー河。中でもエチューカ Echucaという街には、当時の港湾施設である大桟橋が復元され、往事の主役、パドル・スチーマー Paddle Steamer(外輪蒸気船)が保存されているという。大桟橋はユーカリの巨木を利用し、マレー河の大きな水位 変化に対応するため高さが12メートルもある巨大なものだ。内陸を流れる大きな河、その岸に建築された巨大な桟橋、そして煙を吐きながら憩うパドル・スチーマー達、日本にはあり得ない光景への好奇心と古き良き時代への憧憬が交錯し、パドル・スチーマーとエチューカ、そして大桟橋は深くワシの胸に刻まれた。

マラムビジー河(マレー河支流)
マレー河最下流部

● マレー河 Murray River

マレー河はオーストラリア最大の河。大陸南東部のオーストラリアン・アルプス、パイロット山 Mt. Pilotに源を発し、西に向かってビクトリア、ニュー・サウス・ウエールズ両州の州境を成す。南オーストラリアで流れを南に転じ、アデレードの南東でサザン・オーシャンに注ぐ。その距離2,560キロ、途中、マラムビジー河 Murrumbidgee R.やダーリング河 Darling R.など多くの支流を集める。The Murray-Darling Basinと呼ばれる総流域面積はオーストラリアの14%に及び、日本の総面 積の3倍近くになる巨大な河川系を形成している。

シドニーの西方ブルーマウンテン越えのルートが開かれると西への大進出が始まり、最初の西洋人によるマレー河の"発見"は1824年と記録されている。そして、この河川系を明確に解明したのはオーストラリア探検史に偉大な足跡を残すキャプテン・チャールズ・スタート。1829年、マラムビジー河からボートを浮かべ、最終的にマレー河口に至る。余談ではあるが、内陸探査の時代多くの探検家が輩出しているが、"キャプテン"と敬称付きで呼ばれるのはスタートだけである。当時未知の内陸部探査(スタート・ストーニイ砂漠やクーパーズ・クリークなど)をはじめとする、彼の偉業が察せられる。マレー河に沿って旅をすると、「182X年、スタート隊長がこの地を通 過した」という碑をしばしば目にする。

流域に含まれる州はビクトリア、ニュー・サウス・ウエールズ、南オーストラリア、さらにはクイーンズランドまでに及ぶ。すなわちアデレードに送られた物資をマレー河畔まで陸送すれば、その後は遙かクイーンズランドへまで水運を利用できるのである。スタートの探険後、新規開拓者が続々とマレー河沿いに入植を始める。更に1850年代のゴールド・ラッシュによる大量 の人口流入とそれに伴う農産物の需要増加は、内陸部との間に大量の物資輸送のニーズをもたらした。このような背景の中、陸上交通 の整備されていない19世紀にマレー河の水運が注目されたのは当然の帰結といえる。かくして、開拓地を結ぶ一大流通 ルートとしてマレー河は非常に重要な地位を占めることになる。

PS Emmylou
PS Adelaide

● パドル・スチーマー Paddle Steamer

内陸水運の主役がパドル・スチーマー(以下PS)と呼ばれる外輪蒸気船。SLのような蒸気機関を積み、両舷に備えたパドル付きの大きな輪を回して走るボートである。河を航行するため浅い水深にも対応できるよう、喫水が外洋船に比べ非常に浅いのも特徴と言える。貨物はバージと呼ばれる曳船に満載し、それを二つ三つ連ねて先頭のPSが引っ張る。現在のロードトレインと同じ形態である。マレー河水運隆盛時には、このような貨物船のみならず、PSに客室を備えた旅客船も就航していた。

最初にマレー河にPSが現れたのは1853年。マレー河口にほど近いグールワ Goolwaから上流に向かいビクトリアのスワン・ヒル Swan Hillへ最初にたどり着ける蒸気船は?開拓促進を目的に南オーストラリア政府が賞金付きのレースを実施した。Mary Ann、Lady Augustaの二隻が参加し、Lady Augustaがわずか数時間の差で勝利を収める。現在、Mary Annのボイラーが建造の地マナムに展示されている。PSの登場により、これまで牛などを利用した手段では到底実現できなかった大量 ・高速輸送が達成され、内陸の開拓、開発が大いに促進された。

19世紀末から20世紀初頭にかけ、PSによる水上輸送は隆盛を極める。PSはメルボルンやアデレードと鉄道で繋がったエチューカやモーガンなどの"内陸港"と奥地の間を結んだ。往事の賑わいは次項で触れるエチューカの街に今なお面 影を残す。しかしながら、メルボルンやアデレードからの鉄道が内陸へ伸延するに連れ、PSの需要は減少していく。第二次大戦前にはほとんど全てのPSが姿を消した。時は流れ現在、PSは大切な文化遺産として、復元・保存が進められている。マレー河沿いの街では人々が「うちのOscar Wは馬力がある」などと誇らしげに我が街のPSを語ってくれる。

Echuca Wharf
エチューカの街並み

● リバー・ポート River Port

ワシがエチューカを訪れたのは2000年2月、初めて"River Port"の文字を目にして随分な年月が経ってしまった。スワン・ヒルのパイオニア・セトルメントを訪れて、既に頭が開拓時代モードになっていたワシは、ここエチューカで更に深く、"古き良き時代"へはまり込んでしまった。インフォメーションでマレー河と大桟橋の位 置を確認し、車を走らせた。マレー河には立派なコンクリート製の橋が架けられている。流量 に比べガム・ツリー(ユーカリ)の茂る河岸が非常に広いため、相当長大な橋である。ニュー・サウス・ウエールズ側から大桟橋の望めるマレー河の岸に出た。川面 から高々と築き上げられた木造の桟橋、そこに繋留されたPSたち、しかもディーゼル・エンジン換装ではなく、火を炊き、蒸気を発生させる本物のスチーム・エンジンである。遠くに汽笛の音がこだまする。河を行き交うレジャー用のハウス・ボートがなければ100年前と何も変わらぬ 光景ではないのか。

最盛期のエチューカは"最も賑わう内陸港" The busiest inland portと呼ばれ、1865年に建設の始まった大桟橋は増築を重ね長さは1.2キロにも達したそうだ。何十隻ものPSがたむろし、船乗りや港の労働者で街は賑わった。ビクトリア側の大桟橋周辺には今もその名残がある。煉瓦作りの古い建物が建ち並び、パブでは一稼ぎした船長が一杯やっていそうな雰囲気だ。最盛期には79件のホテルがあった。現在、建物の多くがナショナル・トラストに指定されているという。大桟橋は博物館として公開され、往事を再現した模型や、記録映画、当時の様々な機械類、メルボルンとの間を結んだSLなどなど数多の展示を楽しめる。

何と言っても、最大のアトラクションはPSの遊覧クルーズだろう。船長は大きな操舵輪を握り、機関士が薪を炊く。当時と変わらぬ スタイル。船長は気軽に舵を握らせてくれた。操舵輪は鎖で舵に繋がっていて、大きく舵を切るためには結構な力を必要とする。従って船長は操舵輪の左手に立ち、全身運動で輪を手前に引いたり、反対に押しやったりして船の方向を変える。自分で舵を大きく切って、実際船の向きが変わったときには感激した。PSは煙を吐いて汽笛を鳴らして走る。幼少の頃見た蒸気機関車のようだ。

遊覧を終えて大桟橋に戻った。船長は次の出発までしばしの休憩。観光客が入れ替わる。岸辺には釣り糸をたれる人。川面 をカルガモの親子が泳いでいく。船長が餌をまく。繋留されたPSはゆっくりと煙を吐いている。今でもそののどかな光景を忘れない。ここにはまだ機械が人間に近かった頃の暖か味と懐かしさがある。GOOD OLD DAYS、この雰囲気にコロっとやられてしまった。かくしてワシのPSを追いかける旅が始まる。エチューカの他にも、いくつものマレー河沿いの街で、PSが復元・保存されている。にわかPSマニアはオールド・タイマー達を追ってマレー河を辿ることとなった。

PSの操舵室
Steam Engine

● 各リバー・ボートの紹介

前回の旅で出会ったパドル・スチーマー達の写真とプロフィールを紹介します。
正確にはパドル・スチーマーとは蒸気エンジンの外輪船ですが、ここではその他のリバー・ボートも掲載しています。

● PYAP

所在地:
スワン・ヒル Swan Hill
寸法:28.7m x 5.1m
建造:1896年, Mannum
エンジン:ディーゼル換装
状況:パイオニア・セトゥルメント内で定期運行

詳細情報>>>

● P.S. Gem

所在地:
スワン・ヒル Swan Hill
寸法:40.7m x 6.2m
建造:1876年, Moama
エンジン:蒸気機関(静態)
状況:パイオニア・セトゥルメント内で静態展示

詳細情報>>>
以下、引き続き連載します To be continued...


2001.05.25 掲載