バークとウィルズ最北の地を探せ
--カーペンタリア探索行--



皆さんはバークとウィルズ Burke & Willsという名前をご存じだろうか。ロバート・オハラ・バーク Robert O'Hara Burkeとウイリアム・ジョン・ウィルズ William John Willsは1861年オーストラリア大陸の縦断を初めて達成した探検隊の隊長と副隊長である。彼らの探検行はアラン・ムーアヘッド著『Coopers Creek』(邦題『恐るべき空白』 ハヤカワ文庫)に記され、椎名誠の『熱風大陸』の下敷きとなった。『熱風大陸』は『地球の歩き方』にも紹介されており、アウトバックの旅人の中にはバークとウィルズの物語に直接的、間接的に触れた方々も多いのではないだろうか。

彼らの物語には多くの人達が惹き付けられ、今も旅人達を魅了する。それは何故か.....
1. 人を寄せ付けないオーストラリア中央部の苛酷な自然を克服して、艱難辛苦の末、遂に大陸縦断を達成したから。
2. "運命の9時間"と呼ばれる、胸を掻きむしられるような悲劇と、絶望的な状況の中で最後の瞬間まで彼らが相助け合い精一杯に生存しようとした人間性の発露に人々が胸を打たれるから。

命からがらたどりついた前線基地(そこには仲間と食料・衣服があるはずだった)は彼らの帰還わずか数時間前に撤収されたばかり。ここに辿り着けば助かると思って歯を食いしばった彼らは置いて行かれたのである。

アウトバックに興味を持つ者なら誰もが、彼らの足跡を辿り、少しでも19世紀の苛酷な探検の感覚を実際に感じたいと思うはずだ。勿論、ワシもその例外ではない。

『恐るべき空白』によれば、かれらはカーペンタリア湾、現在のノーマントン近郊で事実上の大陸縦断を達成する。2001年9月の旅でワシはケアンズからダーウインを陸路移動する計画を持っていた。ルートはカーペンタリア湾岸経由、そう、ついにバーク隊に近づく時が来たのである。せっかくなら、彼らがその冒険で達し得た最も果 ての地を訪れたいと思った。そこが事実上、大陸縦断の達せられた場所である。目的地は決まった、「バークとウィルズが達した最北の地」を目指し、2001年9月、ワシは灼熱のサバンナに立った。

出発前の下調べで入手できた情報は以下の通りである。
1. カーペンタリア湾岸の旅行者用地図にはノーマントン郊外、二つの川に挟まれた場所に矢印で「バーク隊最北の地」と記されていた。 2. 事前にインターネットで問い合わせたGulf Savannah Developmentは「バーク隊最北の地」は彼らの最後のキャンプ地から北に行ったところと伝えてきた。 3. インターネットで知り合ったアウトバック通の方から、フリンダース川沿いにバークとウィルズの(足跡を記す)ケルンがあると聞いた。

これらの情報を総合すると「最北の地」探しはそれほど難しくはないと思われた。きっとモニュメントがワシを待っているはずだ。まずは情報を元にノーマントンに、そしてバーク隊最北のキャンプ地キャンプ119へと向かった。


Famous Purple Pub
Carpentaria Shire Council

驚くべきことにバーク隊がメルボルンからカーペンタリア湾までを踏破するまで、オーストラリア大陸中央部はどのような状況なのか、そこに何があるのか、ほとんど分かっていなかった(正確に言えばこれは西洋人的見解で、原住民達は内陸部で生活をしていたのだが)。ほんの140年ほど前の話である。多くの川が内陸に向かっていることから、中央部には巨大な内海があるのではとまことしやかにささやかれていた。そして、空白の内陸部を調査し、幻の内海を発見しようとチャールズ・スタートのような偉大な探検家を含む多くの探検隊が出かけていったが、どれも内陸部の想像を絶する環境に阻まれ、目的を達することなく帰還、あるいは命を落とした。

そうした中、植民地経済の発展も手伝い、内陸部調査の機運は大いに高まり、ビクトリア州政府は大規模な探検隊の派遣を決定する。この探検隊は、予算、隊の規模共に空前のものであり、今の感覚で言うと火星有人探査に匹敵する興奮と関心をもって迎えられた。その探検隊長は公募され、メルボルンの委員会が最終的に選んだのが、今回のコラムの主人公の一人ロバート・オハラ・バークである。かくして1860年8月20日、探検隊は大群衆に見送られ、メルボルンを旅立った。

バーク隊長はカーペンタリア湾突入に向け、大規模な探検隊の人員、物資のほとんどを途中クーパーズ・クリークに建設した前線基地(デポーLXV)に残し、ウィルズを含む4人と馬・ラクダを引き連れて北上した。「3ヶ月経って戻らなければ、死んだものと考えてよい」と言い残し。このバークの拙速とも思える行動は、同じ時期に別 ルートから大陸縦断を目指していたスチュアート隊の動きを気にしたものと多分に思われる。

今から140年前にメルボルンからカーペンタリア湾までの徒歩旅行(馬やラクダを輸送用に伴ってはいたが)がどれほど過酷なものであったか、ワシは実際に大陸中央部を旅した経験のある者の一人として、普通 の人よりはリアルに感じることができる。遮蔽物のない大荒野を刺すような日差しを浴びて歩き続ける、突然の雷雨に襲われて隠れ場もなく脅える、虫除けも蚊取り線香もない中で蚊に襲われながら野営する、テントもなく雨の降る夜を凌ぐ等々、詳細は『恐るべき空白』に譲るが、とてもじゃないが現代人に彼らの真似はできそうにない。

カーペンタリア湾岸はオーストラリアに残された数少ない未開のエリアで、ケアンズを発って西に向かうにつれ辺境の色合いが濃くなる。ノーマントンはそんな辺境の地カーペンタリア郡の中心地で、人口は約1000人ほどの街。中心地と言っても携帯電話も届かない僻地には違いない。キャンプ119はそこから更に奥地のバークタウンを結ぶ未舗装路を40キロほど走って少し脇道に入ったところにあった。標識もしっかりしていて、道に迷うこともなくキャンプ119は簡単に見つかった。

現在、キャンプ119跡地はリトル・バイノ川 Little Bynoe Riverの川岸に位 置し(海岸から約30km)、立派なモニュメントが作られている。訪れる人も少なく、マッチを擦れば辺り一面 に引火しそうな乾燥と、視界を白一色に染めるまばゆいばかりの光の中に、ひっそりと冒険の名残を伝えていた。


Sign for Camp 119 (Clickで拡大)
Camp 119

Monument (Clickで拡大)
Monument

クーパーズ・クリークの基地から約2ヶ月をかけて彼らはこのキャンプに辿り着いた。すでに川の水が塩辛くなったり、干満による水位 の変化が見られることで、実質的な大陸縦断達成を認識していたが、大海原をこの目で見て大陸縦断の完遂をリアルに感じたいというのは人情であろう。探検隊はここにキャンプを設け、カーペンタリア湾へのルートを探ることになる。

ここで一つ重要なことがある。今でも我々がキャンプ119の位置をなぜ知ることができるのか? 「3ヶ月経って戻らなければ死んだものと考えてよい」と言われた留守部隊の隊長(ブラーエ William Brahe)は3ヶ月が経った後もバーク達の帰りを待ち続けた。しかし、4ヶ月が経過し、前線基地自体の状況も悪化していた。飲料水の確保が難しくなり、隊員達の栄養失調も進んでいる。そんな劣悪な環境の中で、遂に隊員の中に死者が出ると、留守隊はメルボルンへの退却を決意する。そして退却の数時間後にバーク達が戻ってきたのは前述の通 り。留守隊が退却時にバーク達への通信文を埋めた場所を彫り込んだ木(Dig Tree)が今でも残っている。

留守隊がメルボルンに戻ると大騒ぎになった。空前の規模で送り出した探検隊はその目的を果 たさずに帰還し、隊長を含む隊員4人が今なお大陸中央部で行方不明になったまま。そこで各方面 からバーク隊長の捜索隊が派遣されることになった。その中の一つの部隊(海路カーペンタリア湾に達し、そこから南下した)がキャンプ119跡地を発見しマークしたことで、今でもキャンプ119の位 置を知ることができるのである。

モニュメントを前にしても、このまま光になってしまいそうな灼熱の中では感慨などは浮かばなかった。記録のために写 真を撮り、バーク達が進んだ最北の地を探しに向かった。記録によれば、バークとウィルズは他の2人をキャンプに残し、3日分の食料を持って、海岸を目指したという。彼らの足跡を追うには北上せねばならないが、道路は東西方向にしか走っていない。何か手がかりを求めて道なりに西へと進む。リトル・バイノ川、バイノ川 Bynoe River、フリンダース川 Flinders Riverと次々に川を越えるが標識や、手がかりとなるものは一切ない。一番西のフリンダース川を越えてしばらく走ったところで、キャンプ119方面 へと引き返した。


バークとウィルズが北を目指したのは2月の上旬、雨期の最中であり、乾ききったこの季節(9月)とは全く様相を異にしたはずだ。この地域はいまでも雨の季節には道路が寸断され何週間も孤立する街がある。ワシの見た川はどれも水位 が低くほとんど流れを止めて、川岸には放牧された多くの牛が水を求めて集まっていたが、雨期にはどの川も増水し、道路さえ冠水して通 行不能になるという。辺り一面の泥濘とマングローブ林に行く手を阻まれ、海岸線を見ることなく退却を決意したとき、彼らの無念はいかばかりのものであったろう。


Little Bynoe River
Little Bynoe River

Bynoe River
Flimders River

【写 真】リトル・バイノ川の下流方面を望む。バークとウイルズの「最北の地」はこの方向のどこかにあるはずだ。


キャンプ119周辺で「最北の地」の手がかりを見つけることができなかったワシは一旦ノーマントンの街に戻った。地元の人に聞けば一発で分かるはずである。まずはツーリスト・インフォメーションへ。観光列車ガルフランダー Gulf Landerの発着するノーマントン駅が観光案内所を兼ねている。そこにいた若い女性に尋ねる。
「バークとウィルズが達した最北の地を探しているだが」
「キャンプ119ならバークタウンに向かう途中にあるわ」
「いや、キャンプではなく本当の最北の地を探しているんだ」
「残念ながら、そんな場所はないわ」
ワシの英語が拙いせいで真意がうまく伝わらないのかと思い、その後何度か言い回しを変えて同じ質問をした。しかし、答えは同じ「そんな場所はない」、「誰も知らない」の繰り返しだった。

正直なところその答えには驚いた。最北の地にはキャンプ119と同じようにモニュメントが築かれ、地元の人なら誰でもそこを知っていると思っていたからだ。とは言え、おねーちゃん1人に「知らん」と言われ、「はいそうですか」と引き下がるわけにはいかない。こちらははるばる日本から来ているのである。

かくしてワシはノーマントンの街でインタビューを始めた、「バークとウィルズが達した最北の地を知りませんか?」と。しかしどこで誰に聞いても「そんな場所ないよ」と言われるばかり。終いにはアボリジニの牧童に「そんなこと言ってないで、まあ飲めや」とビールを勧められ、歌まで歌わせられる始末。変なことを聞いて回る日本人としてワシは街で有名になってしまった。

何の手がかりもなく、再び観光案内所に戻った。「何かわかった?」さっきの彼女が聞く。「いや何も、でもね、ほらこの地図をみて、ちゃんと最北の地とかいてるでしょ?、しかもGulf Savannah Developmentの人はメールでその場所があると言ってたんだ」ワシは彼女に哀切した。「そうだ、Kenに聞いてみるといい。彼はガルフランダーの運転手兼ガイドよ」。それはいい!そんじょそこらのねーちゃんやおっさんとは違う。ガイドならこの辺りの歴史にも詳しいだろう。ワシは彼女の言葉に飛びついた。

ガルフランダーの駅でKenを見つける。彼は期待通りの人物だった。落ち着いた口調で彼はこういった。 「おそらくキャンプ119とバークとウィルズが達した最北の地が混同されているんだろう。どちらも"最北"には違いないからね。この地域では雨期の氾濫はすごいんだ。川も毎年のように流れを変え、河口部の地形は変わり続けている。仮にバークとウィルズが達した最北の地があったとしても、140年経った今では地形も変わってしまって、もうどこなのか全然わからないよ」 なるほど彼の言葉には説得力がある。彼の知識は非常に豊富で、バークとウィルズに関する他にも興味深い話をしてくれた。話の終わりにワシは尋ねた「Mr. Denise Tanneyを知ってますか?」と。「勿論知ってるさ、何なら彼にも聞いてみるといい」。Denise TanneyとはGulf Savannah Developmentが詳しくは彼に聞けと紹介してきた人物だ。

実はさっきKenを紹介される前に、おねーちゃんにたのんで、Denise Tanneyに電話をかけてもらっていた。彼の返答も「そんな場所はない」というものだった。しかし、自分を納得させるために直接会って話を聞きたいと思った。Kenも話を聞くといいと言っている。Denise Tanneyはノーマントンを流れるノーマン川 Norman Riverでリバークルーズやフイッシングのガイドをしている。毎夕彼の施行するリバークルーズがスケジュールされているので、それに参加することにする。観光案内所のおねーちゃんは快く予約を入れてくれた。

Gulflander Train
Tourist Information

リバークルーズまでにはまだ時間がある。ここでその後のバーク達の運命を記しておこう。 カーペンタリア湾からクーパーズ・クリークまでの帰路は苛酷を極めた。少ない食料、衣服はボロボロになり雨露をしのぐテントさえ彼らは持っていない。連れていた馬やラクダを殺して露命を繋ぐものの、体力の消耗と疲労の蓄積は甚だしく、ついに隊員のグレイが死亡する。他の3人にもグレイを埋葬する体力が残っておらず、埋葬に1日を要する始末だった。しかし、彼らはとうとう前線基地に帰還する。そこには仲間達がいて、十分な食料があり、ゆっくりと体を休めることができるはずだった。

そんな彼らに天の仕打ちは酷かった。通信文を読んだバーク達は愕然とする。まさに膝から崩れ落ちるようなショックだったろう。カーペンタリア湾から命からがら戻って来た自分たちを残して留守部隊はわずか9時間前にこの地を離れたばかりだったのだ。その時の情景は歴史的悲劇としてオーストラリア史に刻まれている。

既に精根尽き果てていたバーク達に、留守部隊を追走する体力も気力も残ってはいなかった。追走をあきらめた彼らは、クーパーズ・クリークの水路をたどり南オーストラリアへと向かうルートを探す。今残されている食料や装備、そして彼らの体力ではクーパーズ・クリークとメルボルンの間に横たわる荒野を徒歩で越えることは無理だった。更に現実は厳しい、クリークをたどっても、やがて流れは大地に消え、新たなルート発見することはできなかった。 もはや3人はクーパーズ・クリークの水路沿いから離れることができなくなったのである。

その間、彼らはナルドーという植物の実を挽いてパンを作った。この環境で手に入る唯一の食料らしい食料である。しかし、腹は満たされるが栄養はない。しかもナルドーには調理法を誤るとビタミンBを破壊する性質があり、3人は次第に衰弱していった。体がだるい、力がわかない、遂に動くこともできなくなり、ウィルズが倒れ、バークもその後を追った。残ったキングはアボリジニに助けられ、メルボルンからの救援隊に発見された。あと数日見つかるのが遅ければキングも助からなかっただろうと言われている。

誰もなしえなかった大陸縦断を達成したにもかかわらず、探検家としての彼らの評価は決して高くはない。バーク隊と大陸縦断一番乗りを競ったスチュアートは"King of Explore"と賞賛され、内陸探検の先鞭をつけたスタートは"キャプテン"と尊称されている。現在それぞれの探検ルートを通 るハイウエイにはスチュアート、スタートの名前が冠されているが、バークとウィルズの名前を持つハイウエイは存在しない。また、ナショナル・ジオグラフィック・オーストラリア編は、「(バークとウィルズは)手柄をあせった」と手厳しい。この差はどこからくるのか?スチュアートの隊もその師匠であるスタートの隊も人的ロスをほとんど出していないのである。彼らに共通 して言えることは探検から帰った後、視力を失ったり、手が動かなくなったりと、想像を絶する苛烈な環境との戦いを続けながらも、遂に命(隊員も含む)を失わなかったことだ。

一方、バーク隊は空前の費用と人員、物資を投入しながらも、大陸縦断を達成した4人の先行隊の内、3人(バークとウィルズを含む)が命を失い、残りの1人もあと数日救出が遅れていれば...、という状況だった。更には、ベースキャンプとも言える前線基地の隊員の中からも死者が出て、結局基地を放棄せざるを得ない状況を招いた。素人のワシが言うのも何だが、隊の編成、人事、補給、行程等全てがお粗末で、失敗は起こるべくして起こったと言える内容である。

とは言え、バーク隊とその後を追った救援隊の探検以降、これまで空白だった内陸部の開発は飛躍的に進み、探検隊を追うように、数多くの開拓者が内陸に進出し、また、鉱山開発も大きな前進を見せた。その意味でバーク隊のもたらした実利は決して小さくはない。


Norman River
Norman River

さて夕刻のノーマン川、ボートランプでDenise Tanneyはワシを待っていた。他にもツアー参加者がいるので質問はクルーズが終わってからにする。1時間のクルーズは内容も濃く、クロコダイルやシーイーグルをはじめとして豊かな自然に触れることのできる貴重な時間だった。このクルーズだけを目的に参加しても十分楽しめる内容である。

クルーズが終わり、片づけに取りかかったDeniseに声をかけた。「今日、観光案内所から電話してバークとウィルズのことを聞いた者ですが...」と。すると彼はすぐ本題に入った、「ああ、あんたか。バーク達が行った最北の地なんてもう誰にもわからんよ。毎年、ここはすごい雨が降る。地形も当時とは変わってしまっただろう。仮に彼らが何かの目印を残していたとしても、そんなものは全て水に流されてしまっているさ」言葉の問題があるのでワシは何度か同じ内容の質問をくり返したが、彼はその度に親切に同じ答えをした。それでようやくワシは納得した。バーク隊の最北の地はもはや誰にも分からない。現在確認できるのはキャンプ119の場所だけである。「キャプテン、ありがとう。これで日本に帰れるよ」ワシは握手を求めた。

以下、ワシの調査の顛末をここにまとめておこう。

結論:
「バークとウィルズが達した最北の地」を正確に知ることは現在では不可能。モニュメント等その地を記したしたランドマークは存在しない。

付記1:
「バークとウィルズが達した最北の地」に彼らが何かの痕跡を残したという記録はない。また救援隊がバーク隊最北の地を見つけそこを確保したという記録もない。仮に何らかの痕跡が残っていたとしても、雨期の激しい増水や氾濫により、全ては流されてしまい、地形さえ当時とは変わってしまっていると推測される。

付記2: ワシが事前に入手していた情報との整合
カーペンタリア湾岸の旅行者用地図に矢印で記された「バーク隊最北の地」とは、"大雑把にこの辺り"という意味と思われる。 インターネットで問い合わせたGulf Savannah Developmentはバーク隊最後のキャンプ地から北に行ったところと伝えてきたが、正確な場所が確保されているとは一切述べていない。 フリンダース川沿いにバークとウィルズの(足跡を記す)ケルンがあるという情報は、おそらくキャンプ119のことと思われる。リトル・バイノ川はフリンダース川の支流で広義にはフリンダース川の流域である。

翌日ノーマントンからバークタウンへ移動する際、ワシは再びキャンプ119を訪れた。モニュメントの裏手にはバーク達も水汲みなどに訪れたであろう川が流れている。そこでひときわ色鮮やかなビーイーターを見た時、ワシは直感的に思った、彼らの生まれ変わりかもしれんなと。バーク隊の探検の評価は相半ばするが、その冒険心は時が流れても変わらず輝きを放ち続けている。鳥に姿を変えてバークとウィルズの冒険心は今もカーペンタリア湾を目指しているのかもしれない。(終)


【写 真】バークとウィルズも足を運んだであろう川の畔。一段と色鮮やかな鳥が彼らの生まれ変わりのように見えた。


【参考】 Burke & Wills略年表
1860年
8月20日 メルボルンのロイヤル・パークをバーク隊長率いる探検隊が出発する
9月6日 スワンヒルで休息。その間バークは物資を調達し、何人かの隊員を解雇し、その補充を新たに行う
10月12日 メニンディにてバークは隊を二手に分ける。大量 の物資と装備を後日クーパーズ・クリークの基地に運ぶようウイリアム・ライトに託す
10月19日 バークはメニンディを出発する
11月11日 クーパーズ・クリークに到着
11月20日 クーパーズ・クリークに前線基地を建設。バークとその他隊員は水を探して北方を偵察し2週間を過ごす
12月16日 バークとウイルズ、ジョン・キング、チャーリー・グレイのカーペンタリア湾へと出発する。留守部隊の責任者はウイリアム・ブラーエ。彼は「3ヶ月待つように」と指示された
1861年
 
2月11日 この日付の前後、探検隊はフリンダース川の低湿地へと至る。キングとグレイを残しバークとウイルズは海岸への突入を試みるも失敗する
2月12日 バーク隊はクーパーズ・クリークへの退却を始める
3月上旬 物資の不足が深刻化し、連れていたラクダや馬を殺して食料とする
4月17日 グレイ死亡
4月10日 体力の衰えに伴い、装備のほとんどを放棄する
4月21日 バーク隊はクーパーズ・クリークの基地に到着するが、ブラーエ隊(留守部隊)は同じ日に基地を引き払っていた
4月22日 バーク達はブラーエ隊に追いつくことをあきらめ、クリーク沿いに進み、南オーストラリアの入植された地域に向かうことを決める。その後、食料と衣類の不足により彼らの体調は次第に悪化する。ナルドーの種で自給していたが、適切な調理法を知らなかったため、その毒に冒されることになる
5月8日 ブラーエはクーパーズ・クリークの基地に戻るものの、バーク達が戻ってきたことに気付かずに去る
5月27日 バークの指示によりウイルズはクーパーズ・クリークの基地に戻り、彼らの所在を記すとともに彼の日記を埋めた
6月3日 ウイルズが隊に戻る
6月下旬 彼らはどんどん衰弱し、互いの死から二、三日をおいてバークとウイルズは息絶えた。キングはアボリジニの部族に混じり彼らと数ヶ月間生活をした
9月15日 ハウイット隊(救援隊)がキングを発見する

【参考】 Burke and Wills - Terra Incognita http://www.burkeandwills.net/


2003.07.15 掲載