イナミンカとディッグ・ツリーを目指して |
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Coopers Creek
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イナミンカに着いた時点で既に夕闇が迫っていたが、ワシはクーパーズ・クリークを見たくていたたまれなかった。そしてこれが初めて見たクリークの姿。川岸を覆う巨木と満々と水を湛えたその光景は今でも強く印象に残っている。
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今まで走って来た大荒野の果てに、こんなに水の豊かなオアシスのような場所があった。探検隊もこのクリークの出現には驚いたことだろう。そして歓喜したに違いない。彼らがこの水辺の畔に基地を建設したのも十分に理解できる。明日はいよいよディッグ・ツリーとの対面
だ。
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イナミンカからディッグ・ツリーへと向かう。距離は約70km。アウトバックを走ると距離の感覚が麻痺してしまい、すぐ近くのように感じてしまうが、我々の日常からすれば、かなり距離がある。イナミンカは南オーストラリア州たが、ディッグ・ツリーはクイーンズランド州にある。従って写真のように州境を越えねばならない。 |
家畜に害を及ぼすディンゴ(野犬の一種)が侵入しないよう、オーストラリア南東部には、このように延々とフェンスが設けられている。ディンゴ・フェンスと呼ばれるこの柵、全長は5,000kmを越える。 |
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イナミンカの上流でクーパーズ・クリークを渡る。橋の名前はバーク・アンド・ウィルス・ブリッジ。1992年に完成した近代的で立派な橋である。洪水を考慮して作られたようだが、2010年には20年に一度という大洪水で冠水し、通行が遮断されている。クーパーズ・クリークは想定を超えた暴れ川のようだ。 |
バーク・アンド・ウィルス・ブリッジから見たクーパーズ・クリーク。通常時でも川幅はかなり広いが、洪水が起きると倍以上に増水する。 |
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ナパー・メリー農場のゲートを通過する。この農場の名前は『恐るべき空白』を読んだ方なら記憶にあるだろう。小説にあるように、ナパー・メリー農場をのぞけば、周囲何マイルにもわたって人の住んでいる場所は無く、暑さと、静けさが天地を支配する。 |
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いよいよ、ディッグ・ツリーのあるデポーLXVの跡地に到着した。ゲートが設けられており、右ゲートの上にあるポストに入園料を入れて車を進める。ワシ以外に誰もいない。あるのは猛烈な暑さと、時折流れる風の音。さあ、ディッグ・ツリーと対面だ。 |
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ディッグ・ツリーとは? |
初見の方もおられるだろうから、「ディッグ・ツリー(Dig Tree)」とは何か?ここでおさらいをしておこう。 |
1860年8月20日にメルボルンを出発し、これまで誰も成し得なかった大陸縦断に挑んだバーク探検隊の道中で物語りは起きる。 |
(中略) |
クーパーズ・クリークに前線基地(デポーLXV)を設けたバーク隊長はここで隊を二分する。バークとウィリアム・ウイルズ、ジョン・キング、チャーリー・グレイの4人はカーペンタリア湾に向け進み、探検隊の目的である大陸縦断を目指す。残りの隊員はデポーLXVを引き続き建設することとした。残留部隊の責任者はウイリアム・ブラーエ。バークはブラーエに「3ヶ月待つように」「3ヶ月経って戻らなければ死んだものと考えてよい」と告げ北へと旅立つ。時に1860年12月16日、熱暑のオーストラリア内陸部である。 |
クーパーズ・クリークからおよそ1100kmの道のりを経て、2月11日にバークとウィルズは現在のノーマントン郊外で海に達する。遂にオーストラリア大陸縦断を成し遂げたのである。喜びもつかの間、2月13日帰途に着く。この時点でクーパーズ・クリークを出発して約2ヶ月が経っており、持って来た3ヵ月分の食料の三分の二を消費していた。熱帯地方は雨期に入っており、耐えられないほどの暑さと湿気、そして降り続く雨はテントを持っていなかった彼らから体力を奪っていった。 |
砂漠地帯に入っても雨は降り続き、グレイは体調不良を訴えた。3月25日には帰路に着いて40日が経過するも、行程の半分を来たに過ぎなかった。このころ物資の不足が深刻化し、連れていたラクダや馬を殺して食料とする。連れて来た馬1頭、ラクダ6頭のうち、残るのはラクダ2頭だけになった。また、運べなくなった資材も棄てられた。 |
グレイの体調は回復せず、自分の力でラクダに乗っていられなくなった。そして4月17日の早朝、グレイは死んだ。他の者も弱っていたので、埋葬に丸一日かかった。既にバークがブラーエに約束した3ヵ月は当に過ぎ、4ヶ月が経っている。 |
既に3人は疲労困憊の極みにあり、ラクダに交代で乗りながらクーパーズ・クリークを目指した。そこには仲間たちが待っていて、十分な食料があると信じて。4月21日彼らは最後の力を振り絞って、デポーLXVへの残り50キロを一気に踏破した。これは超人的な行軍としか言い様がない。 |
Burke & Wills Onward |
Dig Tree |
しかし、 |
北西へ三フィートの場所を掘れ。 |
ディッグ・ツリーと呼ばれているのはこの木のことである。「ディッグ(Dig)」とは「掘れ」の意味。削られた文字は判別できなくなっているが、150年経った今も当時の場所にある。 |
指定された場所を掘ると、食料と通信文が埋められていた。通信文によると、留守部隊は何と今日、このデポーLXVを離れて行ったのだ。ここに辿り着けば助かると思って歯を食いしばった彼らは僅か数時間の差で間に合わなかった。これが「運命の9時間」と呼ばれる150年以上経っても今なお語り継がれるオーストラリア史上の伝説的悲劇の顛末である。往復2000kmを越える道のりを踏破して、基地に辿り着いた3人を迎えるはずの留守部隊は今日、ほんの数時間前に立ち去っていた。間に合わなかった3人の失意たるやいかばかりのものであったろう。ディッグ・ツリーは単なる木ではなく、この心をかきむしられる様な悲劇を伝える歴史的遺物となっている。 |
留守部隊を任されたブラーエは基地の環境悪化で死者が出る状況となり、頼みにしていた補給部隊も来ず、約束の3ヶ月を過ぎてバークたちを待ち続けていたが、やむを得ず退却の判断を下した。 |
バークたちにブラーエ隊を追う体力は残っておらず、彼らはクーパーズ・クリークから離れられなくなる。残された物資で文明世界までの距離を踏破するのは不可能だったのだ。その後、次第に体力を失い、バークとウィルズは命を落とす。アボリジニに助けられながら露命を繋いだキングだけが、命からがら救援隊に助け出されている。 |
1863年1月21日、メルボルンで盛大な葬儀が行われた。 |
以上、『恐るべき空白』より |
バーク&ウイルズ探検隊の詳細については当サイト |
荒野を1,000km以上旅して遂にディッグ・ツリーにたどり着いた。中央に見えるのがディッグ・ツリーである。50度に迫ろうかという熱暑の中、樹齢250年という大木がただ一人の訪問者であるワシを見下ろしていた。 |
ディッグ・ツリーに近付いて見る。左側に幹が大きく張り出した独特な形をしているのが分かる。バーク達もここに立ち、この樹を見て、あの悲劇が起きたのかと思うと感慨もひとしおである。 |
今日の閑散とした状況からはなかなか想像が難しいが、ディッグ・ツリーを訪れる人は年間3万人を超えるという。やはりオーストラリアの歴史的遺産なのだろう。幹の周囲には土が踏み固められないように木道が設置されている。 |
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河岸を下って、クリーク側から見上げたディッグ・ツリー。樹が迫ってくるような迫力があり、今回撮影したツリーの写真の中で一番気に入っている一枚。 |
同じくクリーク側から見たディッグ・ツリー。左右に大きく張り出した幹の広がりに樹齢250年の年季を感じさせられる。 |
ディッグ・ツリーを背にクーパーズ・クリークを望む。デポーLXVに残ったブラーエたち残留部隊は、来る日も来る日もこのような景色を眺めていたのだろう。 |
上の写真と同じ場所からクリークの下流を望む。この光景は当時とほとんど変わるまい。違うとしたら、クリークが氾濫して、流れる場所が変化したことが考えられる。 |
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To be continued...
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