四国歩きお遍路 日程の詳細へ
四国お遍路は2003年夏に車で88ヶ所と別格20札所を廻っており、記録はこのサイトにも紹介しております。
その時は信仰心もそれほどでなく納経も節約し、ただ札所を巡るだけの四国一周ドライブでした。
今回は齢70歳を超えてまだ体力が残っている内にと、歩きお遍路でと発心し遍路用具も整え、本堂・太師堂ではお経も唱え、納経も仕来りどおりさせていただきました。そのおかげなのか2015年の2月の中旬から4月にかけて、通し打ち47日間で結願ができました。
金剛杖
出発に先立ち各種資料を集め準備を行い支度を整えました。
私なりの工夫として金剛杖は本来栂が丈夫なのですがホームセンターになかったので檜の角材を手に入れ、パソコンで取り込んだ梵字を下書きにしてお杖に彫刻しました。長さは総距離1200kmを歩いて摩耗することを考え少し長めの2mとしました。
この杖は始めは快調でしたが20キロほど歩いた10番札所あたりから杖先がささくれ立ち始め、20番札所にもなるとささくれが長くなり捲れかえってきました。檜は一歩み毎に大地を受けるのには優しいが材質は栂に比べ柔らかです。(写真参照1)
杖の上部は五段の刻みが入っていて卒塔婆を表しています。ここに彫り込まれている梵字は「空風火水地」を意味してます。金剛杖は橋の上では突かないものですが、橋でないところは心よく突いて歩み、その振動のため五段の刻みが深く材芯が弱いため53番円明寺を打った直後にその部分から折れてしまいました。(写真参照2)
四国では杖を大地に突かずに歩むお遍路もおられますが、以前大峰の熊野古道で垣間見た修験者は世を鎮める作法なのか、一歩み毎に錫杖を大地に突いてゆっくりと歩みを進めています。
杖は弘法大師の化身といわれますから、宿に着くと玄関に金剛杖を洗う水が用意してあり杖先を洗ってから案内された部屋の床の間など上座に置きます。宿のおかみさんがお接待なのか代わりに洗って下さることもあります。
歩きお遍路の動機と意味合い
発心してお遍路に出かけるきっかけは人さまざまです。定年退職となり時間の余裕ができたからとか、また再就職に際して人生の節目で自分を見つめなおしたいとか、業界の景気が悪化し不幸にも失業となり次の仕事が見つかるまでの間、新しい自分に出会いたいとか。
4番札所(大日寺)の前で遭遇した千葉県からお遍路さんは、路中で再就職先を探している職安からの携帯電話を受けて面接日が固まったので、月末には一旦千葉に戻らねばと通し打ちを区切り打ちに変更して、阿波の国、徳島の最後の札所薬王寺を打ち終えて帰って行かれた。
また弱気な自分に打ち勝ちたいとかお遍路は日本の文化だし人生一度は体験したいとか。若者には四国ひとめぐりかなり歩いて何かデッカイことがしたいとか、自然を感じたいとか、ストレスを解消したいとかいろいろあります。
青森からの40代の巡拝者はともかく40日以内で結願させるべく一日の工程を30kmから40kmとして先の宿を予約し、その日の内に予約した宿に到達できそうになくなると躊躇することなくその宿に電話を入れ車での出迎えを求めてます。予約を受けた宿も食事が準備されている関係か忙しい中を車で拾いにサービスする訳です。勿論次の日は先の予定があるのでその泊まった宿から次への出立となり、完全な歩きお遍路とは言い難いものとなります。
また故人を偲び先祖を弔うとか、厄を払い家運を願うとかの宗教心からもあります。
宇和島の蜜柑畑で遭遇した茨城からのお遍路は食事付きの民宿は利用せず、常に善根宿や通夜堂を利用し、近くにお堂や仏閣など仏教施設があれば幾つかのお経を唱えながら巡礼されていた。この方は元日立のIT技術者で仏門を目指されている修験者で、身なりも法衣姿でずた袋を下げておられる、河野衛門三郎伝説を熱心に説かれていた。伊予の国札始大師堂の前を通りかかりお札を収めようとお堂に近ずくと彼が中から立ち現れた。昨夜はここに一夜お世話になったとか。
四国お遍路は昔は厭われた病を持つ世捨て人が終生を費やす人生行路でもあり、それに伴い世間からつまはじきになった乞食がどこからとなく集まりお接待にすがりながら終生歩きと通す乞食お遍路もおられます。
善通寺からご一緒になった東京葛飾区のお遍路は、既にに通し打ちを何度かされ今回は遍路道で途中バリエーションで歩んでいないルートを選んで巡っているとか。遍路道の各地に顔なじみがおられ、交流を重ねながら巡拝されていたが、趣味に写経をたしなまれており、これもお遍路に取りつかれた人生を歩んでおられる。
私も今年は閏年で逆打ちをすればお利益倍増とかで心を動かしましたがお遍路の魔力に引き込まれ病み付きになりそうで、今のところは踏み止まっております。
お遍路仲間の心理「掛け連れ」
遍路の途中で偶然出会った他人同士が何かの縁で、連れになって歩き巡礼することを掛け連れと言ってます。連れになるのは二人だけの場合もあれば三人、四人と群れになることもあります。
見知らぬ土地をひとりで行く、歩きお遍路は何かと心細くなるものです。道中一部でも連れがあれば、色々と助け合うこともできます。道しるべも一人二つの目で見つけるよりも、四つの目で見た方が見逃しも少なくなります。気の合う同士なら、道中話もはずんで楽しい旅になります。
しかしこの掛け連れにはマイナス面もあります。人により歩く速さ、休憩のとり方や食事の時間など人は千差万別です。歩きお遍路の場合は重い荷物を背負っており、毎日朝早くから門限の宿まで体力の限界近い状態で行動しているので、他人に合わせるというのは至難なことです。あなたには余裕ある行程でも、相方は厳しいのかも知れません。
阿波の国、最後は薬王寺で街の日佐和には幾つかの宿がある。しかしその時は春休みの月末でどこの宿も満室となっていた。私は偶々駅前のビジネスホテルに素泊まりで予約が出来ていたが、掛け連れの青森からのお遍路さんは何処の宿に電話しても満室で断られていることを知った。そこで彼に相部屋でよいならとの承知で見ぬ知らぬ掛け連れが同宿することになった。これも助け合いの一種であろうか。
でも、僕は、原則として掛け連れが続くことは避けるようにしています。連れになっても、次の札所で、また休憩したときに、さりげなく自分が先この時は私は先の予定が長く遅足なのでと断って、相手が先にまだ夜が明けぬ暗いうちに出立しています。
掛け連れは宿で一緒になり夕食の隣に座ったとか、道端で休憩しながらおしゃべりした後など何となく一緒に出発するような成り行きで出来上がります。わざわざ別行動を取るのも冷たいような気がして、一緒に歩き出してしまうものです。
お接待
お遍路をしている人に地元の方々が食べ物やお賽銭を差し出すことです。これを「お接待」と言ってます。昔のお遍路は何十日もかかって、休憩所や茶店ないところを歩きつづけたわけですから、お遍路にとっては大変ありがたい風習だったことでしょう。
私も初日の五番札所地蔵寺を打ってすぐ田舎道に出たところで土地の車椅子のおばあちゃんに飴玉の初めてのお接待を受けました。
お遍路はこうしたお接待を受けたら、断ってはいけないことになっています。そして合掌して南無大師遍照金剛を3回唱え納札をお返しに渡します。
一般社会で企業が顧客に対して行ういわゆる「接待」には何らかの見返りの期待がこめられていますが、お遍路におけるお接待は基本的に無償の行為です。ただおばあちゃんがこの年でお参りができないので代わりに参って下さいと、代参の見返りにお接待との意味合いもあるそうです。
現代的な感覚では何のつきあいもない何の利害関係もない他人から、食べ物をもらったりすることは日常考えられないことです。それもちょっとしたお菓子とか、余った果物などというならまだ理解の範中ですが、時には現金を差し出されます。飲み物も食べ物も持っとらんから途中で買って元気に廻ってと云われますが、初めは驚き戸惑います。それがお四国の風習なのですから、素直に受けるのが自然な姿だと悟るには時間を要します。
お遍路さんにお接待するということを自分の修行として実行している。だから自分のためなのだとのこと。
お接待をして下さるのは高齢の女性が多いようです。今「お接待」を自然な行為としている世代の方々が高齢化していくにつれて、しだいに廃れていくのかもしれません。
ところで、行き暮れた旅人やきつい修行に取り組む人に対して援助をする、支援をするというのは、人間同士が助け合うという基本的な姿のように思え、世界共通の高度な文化と思います。
自分にとって必要でないもの、旅で持ち歩くには重過ぎるもの、多額と思われる現金のお接待を受けたとき、こうした場合でも原則として断ることはできません。それを受け取ることが、相手の方に対する礼儀です。そのうえで、それを必要とする他の方にお接待してもよいし、適当なお堂などにお供えすれば、後から来る遍路へのお接待になります。
歩きお遍路として難しいのは、そこまでなら車で送ってあげるとのお接待です。国道を他から見ると疲れ切ってとぼとぼと歩いていると、「乗って行きませんか」と声をかけられることがありました。私としては八十八ヶ所を歩き通すことを目的としてお遍路をしているので、乗せて頂くわけにいきません。そうかといって辞退すればお接待を断ってはならないという原則に反することになります。歩きお遍路に願をかけておりますのでと鄭重にお断りするしか手がありません。
(更新中)